その写真にはきっと -2-

 岡山駅のすぐ西側に位置する博物館、『岡山シティーミュージアム』。岡山の歴史や情報を集積し展示する博物館であり、大型の全国巡回展なども行われる施設でもある。


 そして現在、近々ここで行われるイベント準備の真っ最中だ。


 受付で一人準備を進めていた女性に声をかけ、中に入れてもらう。事前に話は通している。


「これって……」


 『岡山シティーミュージアム』に足を踏み入れたほとりは、目の前に光景に目を丸くする。


 広いスペースには仕切りによって何本もの通路が作られている。元々は四角のスペースを、縦横無尽に通路が作り出されている。

 そして通路一面に展示されているそれは、幾枚、幾十、幾百枚もの写真である。


 入り口には、『十万人写真記念展』という大きなポスターが広げられている。


「毎年行われている参加型写真展。毎年参加人数が増えて、今年十万人を突破した記念に、過去に写真展で入選した作品を一挙に展示することになったそうだ」


「そう……だったんだ……」


「お前も応募したことがあるだろ?」


「……うん……でも、見に行かなかった」


 以前、早乙女とコンテストの話をした際にも、同じことを言っていた。


 応募したけど、見に行かなかったと。

 コンテストでは、本来入選した作品の写真などを展示することはあるが、必ず展示されることはまずない。

 だけどこの参加方写真展は違う。応募した全ての写真が展示される変わった写真展だ。


 そしてほとりが応募した写真展が開催される直前に、青葉さんが亡くなった。

 だから応募したけど、ほとりはこの写真展に訪れることはなかったのだ。


 俺は写真の回廊へと足を進めた。

 ほとりは戸惑い気味ではあったが、それでも後ろに続く。


「俺さ、この写真展、好きなんだ」


 歩み進めながら、俺は展示されている写真に目を向ける。


「ここにある写真のほとんどは、プロの写真じゃなくて、趣味だったり記念だったり、心を動かされたりっていう、そんな当たり前の風景を切り取った写真ばかりだ。プロはどうしても、なにか意味のある写真を撮ろうとする。もちろんプロ写真は、本当にすごい写真が多いけど、ここにある写真の多くはそういうものじゃない。ほとりなら、わかるよな?」


「……うん、わかるよ」


 子どもが笑いながらピースをしている写真。生まれたばかりの赤子を抱く母親の写真。友だちと夕日を背にジャンプしている写真。カメラを手にしたおばあさんの写真。鍬を手に汗だくで笑う農夫の写真。富士山にかかる虹の写真。それぞれが、撮影者が心を動かされた瞬間だ。


 ほとりならわかる。

 かつてのほとりの写真は、本当に輝かんばかりの感情であふれていた。


 そしてそれは、ほとりのお兄さん、青葉さんもそうだった。


 二人が撮る写真が撮る写真はよく似ていて、色鮮やかな気持ちで彩られていた。写真自体はどこにでもある日常や風景の写真なのに、写真からはそのときほとりや青葉さん、さらには写真に写っている人や世界の感情がはっきりと伝わってくる。見る人をわくわくとさせ、感化されずにはいられない、見ているこっちが心を動かさずにはいられない、そんな写真だった。


 俺の知る限り、ほとりは誰より、どんな写真より感情にあふれた写真を撮っていたのだ。


「私にはもう、撮ることができない写真ばかりだ……」


 寂しそうに、悲しそうに、諦めたような表情で、ほとりは笑う。


「誰の心も動かしたり、感動させたりなんてできない。できたのは、お兄ちゃん。私は、お兄ちゃんと写真を撮っていたから、自分も同じように写真に気持ちを込めることができていただけだったんだ……」


 俺はほとりの言葉に応えることはなく、写真の回廊へと足を進める。


 ほとりは戸惑った様子を見せながら、ゆっくりと着いてくる。


「お前はさ、なんで写真を撮ってきたんだ?」


「……」


 ほとりは、答えなかった。


 早乙女や一色さんにも尋ねられた問い。

 ほとりが、答えられなかった問い。


 たくさんの写真の中で、あふれんばかりの感情の下で、ほとりは泣きそうに顔を歪める。


「わからない……」


 ただ一言、俯いたまま、嘆くようにそう漏らした。


「私は、お兄ちゃんがいたから写真を始めた。お兄ちゃんが遺してくれたものだから、写真を続けることができた……」


 堪えられなくなったように、その目が痛みに揺れる。


「お兄ちゃんがいなくなって写真をやめて、また高校で写真を始めて、それでもまたやめちゃって……。私はやっぱり、お兄ちゃんがいたから写真を撮ってきただけなんだよ。だからもう、わからない……。私が、これからなにをすればいいのか、していいのか、私にはわからないよ……」


 俺は、写真が並ぶ一角で立ち止まる。


 ほとりは俺より前に進み、行き着いた先にあった写真に気づき、足を止める。


「だったら、知っている人に聞けばいい」


 視線を上げたほとりは、目を見張った。


 展示写真には、タイトルと撮影者、それから撮影者の一文が添えられている。


 展示されている写真には、首からカメラを提げた少女の姿が写し出されていた。小高い丘の上で光り輝く緑に囲まれて笑う少女が、撮影者に向けて手を振っている。


「この写真……わた……し……?」


 信じられないものを見るように、ほとりは震える声を吐き出す。


 写っているのは、俺が知らない、おそらく中学生時代のほとり。


 そして、その撮影者は――初瀬青葉。


「これは、青葉さんが亡くなる少し前に撮影して、応募した写真。タイトルは――」



『妹の鏡に写る世界』

 ――妹の写真に写るものが、いつまでも大好きなものであふれますように――



「青葉さんの言うとおり、お前の写真は、お前が好きな世界であふれていた。この写真に写っているお前はさ、本当に青葉さんがいたから写真を撮ってきただけだったのか? 写真を撮る理由に、青葉さんから教えられたものだから、青葉さんといることが楽しかったから、それ以外の理由が、本当になかったのか?」


「……」


 俺に背を向けているほとりの表情はうかがい知れない。


 ただ、青葉さんの写真から目を離せないように見上げている。


「なんで写真を撮ってきたかなんて、初めからわかっていることだろ。青葉さんから写真を教えてもらったからでも、青葉さんがいたからでも、ましてや写真を撮らなければいけなかったわけでもない。ただ楽しい日常を、目の前の世界を写真に撮ることが好きだったからじゃないのか。青葉さんと一緒にいた楽しい瞬間を、何気ない自分の好きな世界を、写真で撮りたかった。それが、好きだったから。ただ、それだけだったんじゃないのか?」


 なにかを言おうとしたのか、手に込められていた力が緩められるが、再び強く握られる。


 俺は、小さく笑みを漏らす。


「自分がやりたいことに、明確な理由も崇高な動機も必要ない。好きだから。楽しいから。ただ自分が写真を撮りたいから。写真を撮る理由なんて、それくらいで十分なんじゃないのか?」


 写真を撮るとき、いつもほとりは楽しげに笑っている。

 写真を、そして自分が生きる世界を、ほとりは、好きで好きで仕方がないのだ。


 それが写真を撮ることの理由でなくて、なんだというのか。


「ダメだよ……ダメなんだよ……っ」


 自らに言い聞かせるように言葉を漏らしながら、ほとりは振り返った。


 目に大粒の涙を浮かべ、今にも泣き叫びそうなほど苦しそうに。


「もう、今更遅いんだよ。どれだけ頑張っても、カメラの向こうが見えない私には、なにもできないんだよ。私は、お兄ちゃんが大好きだった写真に、写真にだけは、悲しい気持ちを写したくないんだよ!」


 あふれ出す感情を爆発させ、ほとりは俺に向かって吐き出した。


「私の写真じゃ、誰かになにかを伝えることも、つなげていくこともできない! 大好きな写真部を、みんなとの楽しい毎日を、いくら写真を撮っても、何千、何万の写真を撮り続けても、私の、なにも写らない写真じゃ――」


「……ははっ」


 俺は、笑ってしまった。

 嬉しくなって、つい笑ってしまった。


 突然笑い始めた俺に、ほとりは少し怒ったように眉を歪める。


「それが、お前の答えだろ?」


「……え?」


 ほとりの口から、ようやく答えを聞くことができた。

 ほとり自身の、願いと思いを。


「今の言葉が、お前の答えだろ。自分の写真でなにかを伝えたい。誰かにつなげていきたい。お前が好きな、写真で。お前が楽しいと思う毎日を。ほとり自身が、撮った写真で」


 俺の口から、ほとり自身が口にしたことを、改めてほとりに向ける。


「俺が写真部に初めて行った日も、お前は同じことは言ってたよ。『写真なら、なにかを伝えられる、つなげていけるって思う』、ってさ」


 ほとりが目を見開き、自らの心の内を探るように、胸に手が行く。


「それでも、それでは私は――」


 服の上から握りしめられた手に力がこもり、思いが漏れる。


「俺さ、子どものころ、今よりももっともっと、馬鹿だったんだ」


 俯いていたほとりの目が、わずかな疑問を抱き、俺へと向かう。


「周りが当たり前に楽しいと思うことが、楽しいと思えなかった。みんなが好きだということが、好きになれなかった。ゲームでもスポーツでも、そのときは読書でさえも、やることがないからやっていただけで、別に楽しいと思っていたわけでもないんだ。今のほとりと同じで、なにがやりたいのか、できるのかもわからなかった。心が動くことなんて、まったくなかった」


 そのときはたぶん、周囲より少しばかり成長が遅れていたのではないかと思う。

 体の成長に、心の成長が追いついていなかったんだ。


「でも、俺は出会ったんだ。自分の心を、はっきりと動かしてくれるものに」


 ほとりは寂しそうに目を伏せる。


「……お兄ちゃんの写真……だよね」


「違う」


 苦しそうに目をそらしていたほとりは、驚いたように顔を上げた。


「今回の写真展は、これまで実施されてきた参加型写真展への応募写真の中で、『心に響いた写真』として選ばれた写真が展示されている。俺も一度だけ、この写真展に応募したことがあるんだよ」


 俺は青葉さんの写真から少し離れた隣、そこに展示された写真に、視線を送る。


 ほとりが、再び息をのむ。


 展示スペースに飾られている多くの写真の中に、俺には見慣れた写真がある。


 桜景色の中で、今よりもっと小さな少女が、その手には不釣り合いなほど大きなカメラを手にしている。輝かしい笑みを浮かべながら、一生懸命目の前の景色を写真に撮ろうとしている、その横顔。


「この……写真……っ」


 一番好きな写真ではあるが、恥ずかしくて、持ち歩いているアルバムには入れていない。


 そして、ほとりにも見せたことがない写真。


「これは、俺の最初の写真。青葉さんから借りたカメラで俺が撮った写真だ。タイトルは――」



『俺のきっかけ』

 ――いつか、俺も誰かのきっかけになれますように――



 これまで誰にも告げることがなかった俺の思いを、ほとりが目にする。


「俺は、本当にダメなガキだった。興味を持つことも、やりたいことや楽しいこと、好きなことを見つけることができなかった。そんなときに俺が出会ったのが、青葉さん、それからほとり、お前だよ」


 まるで、その写真の中にある人物が自分自身でないように、ほとりは見ていた。


 瞳を揺らし、息を乱し、手を震わせて。


「たしかに俺は、お前に写真を続けてほしいと思っている。これは俺個人の希望だ。俺が勝手にお前に押しつけている願いだ。でもそれは、お前に青葉さんを重ねているからでも、青葉さんが撮れなくなった写真をお前に続けてほしいからでもない。ただ俺に、写真を撮るっていうことを、何気ない毎日の楽しさを、好きになれるものがあるっていうことを教えてくれた、輝いていたお前でいてほしいからだ」


 この写真を撮ったときのことを、今でも鮮明に覚えている。


 席が少し近かったからという理由で、少しばかり会話したことがあるクラスメイトとそのお兄さん。

 二人に連れていってもらった後楽園で、俺は出会った。


 俺のきっかけに。


 悠然と広がる桜並木からひらひらとピンク色の花びらが舞う、なんでもない風景。綺麗でも美しいわけでも、心を躍らされるわけでもない、ありきたりだと思っていた世界。ただ自分が生きる場所の背景でしかなかったその景色を前に、目を輝かせ、感情を奮起させ、カメラを向けて楽しんでいる姿に、俺は心を動かされた。


 色のなかった世界に、彩りが広がった。


「俺にとってつまらないこの世界に、こんなにも感動できるやつがいるんだって。俺も、そんな風に世界を見てみたい。何気ないものに心を動かして、当たり前の毎日を楽しんで、そして、その景色を世界に留めておきたい。そう、思ったんだ」


 少しばかりの恥ずかしさで笑みをこぼしながら、俺はほとりに告げる。


「それが、俺が写真を始めたきっかけ。だから俺は、世界が楽しいものにあふれていることを、好きになれることがたくさんあることを教えてくれたほとりに、本当に感謝してる」


「私が……真也君のきっかけ……?」


 俺は笑って頷いた。


「俺は、お前が写真を撮っている姿に憧れた。たしかにあの日、お前と青葉さんに出会わなかったとしても、なにか他のきっかけを得ていたのかもしれない。けど、写真はたぶん撮っていなかったと思う。それで今は、写真を撮ることができる毎日が楽しい。本当に、好きなんだ」


 ほとりたち部活の仲間との、そして多くの人との、ありふれた日常が。


「ほとりが写真を撮ってきたことが、ほとりの写真が、俺にはしっかりとつながっているよ」


 並べられた二つの写真。

 中央に青葉さん、右手に俺に写真、そしてその反対側の左に、もう一枚の写真。


 視線を送り、ほとりもそれに続く。


 そこにあるのは、ほとり自身が撮った写真。

 ほとりが一度だけ応募したことがあるという写真だ。


 倉敷美観地区に遊びに行った際に、青葉さんとまだまだ子どもの俺を撮った写真。陽光を受けて光り輝く清流を前に、必死な形相でカメラをのぞき込む俺に、青葉さんが笑いながらカメラの使い方を教えてくれている、そんな一場面。



『つながる写真』

 ――私も、いつか、誰かになにかをつなげられますように――



 子どものころから、ほとりの願いは変わらなかった。


 青葉さんがいたころも、いなくなった今も、そしてきっと、これからも。

 並ぶ三枚の写真。

 その全てがつながっている。

 青葉さんがほとりにつなぎ、ほとりが俺につなぎ、そして今度は俺がほとりへとつなぐ。


 そして――


「それにさ、俺だけじゃないよ。ほとりがつなげて、だからこそほとりに写真を撮ってもらいたいやつらは」


「え……」


 ほとりが顔を上げると同時に、俺たちの背後にいつの間にか立っていた人たちに気づく。


「み、みんな……どうして……」


「どうしたじゃないっすよもぉー」


 そこにいたのは、桃子。それから、湊斗、早乙女の三人だ。


 桃子がいつもように、朗らかに笑う。


「ほとりんの昔の写真が見られるって聞いてから、遊びに来たんすよ」


「うん、真也がすごくいい写真だから見に来いってさ」


 穏やかに笑う湊斗の傍らでは、居心地が悪そうにそわそわしている早乙女。


 足をもつれさせながらこちらに進み出ると、ほとりに向かって深々と頭を下げた。


「ご、ごめんなさい!」


「は……はわわ!? なんでなんでっ!?」


 突然のことにほとりが素に戻り、あたふたとしながら手を振り回す。

 早乙女は泣き出しそうな顔を浮かべながら、口に手を当てる。


「は、初瀬さんに写真を教えられたお兄さんが亡くなっていることを知りもしないで、なんで写真を撮るのかなんて、あんな、ひどいことを言ってしまって……」


「い、いや、それは……」


 言葉を詰まらせるほとりの肩をぽんと叩き、俺は笑う。


「今回の写真展、早乙女がいろいろ協力してくれたんだ。お前に、元気になってもらいたいんだって」


「ちょ、ちょっと日宮君! それは言わない約束です!」


「おっと、これは失礼」


 おどけて見せてはっはっはと笑いをこぼす。


 この写真展のプレオープン前に入場することができたのも、同じ年の入選ではあったが展示場所は離れる予定だった三枚の写真を並べて展示してもらえたのも、全て早乙女家の権力を使ってのことだ。親ばかな親父さん、ありがとうございます。


 恥ずかしそうに口を膨らませながらも、早乙女はほとりに向き直る。


「わ、私は、写真を撮るのは初瀬さんの自由だと思います。人によっては、写真は大事なものですけど、生きる上で絶対に必要なものではないですから。でも……」


 言いにくそうに口ごもるが、それでも口元を緩めて早乙女は言う。


「初瀬さんのアルバムの写真は、本当によかった。素晴らしかったんです。昔の写真だけじゃなくて、最近の写真も本当によかった。誰もが何気なく見過ごしている風景を、初瀬さんは形に残したいと頑張っている。それは、初瀬さんが写真を好きだからできることです。大事だから続けられることです。だ、だから、だからもし、これからも初瀬さんが写真を撮りたいと思えるのでしたら、今度一緒に、写真を撮りにいってもらえませんか?」


 自らの愛機であるミラーレスカメラを手に、早乙女は笑う。


「で、でも私……写真もう……」


 苦しげに呟くほとりを見た湊斗が、少し呆れ気味の笑みを漏らす。


「僕は、中学時代のほとりさんをよく知らないけどさ、真也と写真を撮っているときが、ほとりさんは一番楽しそうにしているよ」


「……」


 ほとりはなにかを言いかけるが、それでも言葉にする前に、口を閉じた。


 湊斗は笑う。


「やめたければ、本当にやめればいいんだよ? ほとりさんに無理に写真を続けさせようとする連中がいれば、僕はそんなやつらとは縁を切ってもいい。たとえ真也や早乙女さんであってもね」


 強い言葉を口にする湊斗に、ほとりは目を見開く。


「でもね、少なくとも楽しいと思えることは、続けるべきだと思うんだ。誰もが楽しい時間を過ごせるわけじゃない。勝手な見方かもしれないけど、やっぱりほとりさんは写真を撮っているときが、一番いきいきしている。それはお兄さんがいたからじゃなくて、ほとりさんが写真を楽しいと思っているからじゃないかな。ほとりさんは、写真部の活動、楽しくなかったかな? 僕は本当に楽しいよ、写真部」


 俺にも投げた問いを、ほとりにも向ける湊斗。


 いつも誰よりも多くの友人に囲まれて、人一番楽しそうな高校生活を送っている湊斗。だがその実、俺たちにはない息苦しさや窮屈さを抱えて生活している。取り巻きのような友人たちを心から好きになることはできなくても、嫌いになることもできない煩わしい生活だ。


 そしてそんな湊斗も、写真部では偽りなく楽しい生活を送ることができている。


 俺も知らず知らずのうちに、写真部の時間を楽しいと感じ始めている。

 意味もなく過ぎ去ると思っていた高校生活が、かけがえのない毎日が光り輝いている。

 そのきっかけと場所を作ったのは、間違いなくほとりだ。


「……っ」


 苦しげな息を漏らしながら、ほとりの手が、なにかを探すように動く。

 いつもほとりとともにあった友人はそこにはなく、空っぽの手はむなしく空を掴む。


 そんなほとりの手の中に、分厚い本が差し出される。

 おしゃれな空色の装丁に、でかでかと『ほとり』とかわいらしい名前が書き込まれている。


「桃ちゃん……?」


 差し出した張本人である桃子は、嬉しそうな笑みを浮かべる。


「私からのプレゼント。開けてみるっす」


 重たい本を両手で持って支えながら桃子は促し、ほとりは戸惑いながらも本を開いた。


 中を見たほとりが、目を丸くする。


「これ……」


 開かれたそのページには、写真があった。


 桃子とほとりが写った写真だ。おそらくは、桃子がスマホを自分たちに向けて撮った写真で、人懐っこい笑みを浮かべる桃子の横で、ぎこちなく笑うほとりが写っている。

 今よりも少しだけ幼い、中学生時代の制服を着た二人の写真。


 ほとりが、さらに次のページをめくる。


 クラスメイトと撮った写真。クラスの全体写真。海ではしゃぐ修学旅行。桃子とほとりが一緒に出かけている一場面。何気ない、とりとめもない写真の数々。俺が知らない、中学生時代のほとりの写真。

 写真はほとりが撮ったものではない。桃子やそれ以外の友だちが撮った写真だ。


 差し出されたものは、本は本でも、ほとりの写真が納められたアルバムである。


「これ……どうして……」


「このアルバム、カメラ屋さんとか雑貨屋さんを巡って、かわいいの探してきたんすよ。ようやく、ずっと撮りためてきた写真たちを、ほとりんに渡すことができる日が来たんすから」


 ほとりが目を丸くする。


 戸惑うほとりに、桃子が優しげな笑みで答える。


「ずっと思っていたんすよ。ほとりんの持っているアルバム、最近また写真を始めても、お兄さんのことがあってカメラをやめていたから、ほとりんのアルバムには三年の空白がある。写真がないほとりんは、やっぱりほとりんらしくないっすよ。ほとりんには、ほとりんが大好きな写真が、いつもあるべきなんす」


 自らのD80はもちろん、スマホでさえ写真を撮ることがなかったほとりのアルバムには、中学生時代の写真が存在しない。小学生時代、それから高校入学前から今日に至るまでの数ヶ月の写真は、それこそ膨大な数になっている。それでも、カメラから離れた中学生時代には、まったく写真が存在しないのだ。


「だから私は、ほとりんがいつかまた写真を始めることを信じて、ずっと写真を撮ってきたんす。中学の友だちにも協力してもらって、集めてきたっす。またこうして、今みたいにほとりんが写真を撮り始めることは、わかりきっていたことっすから」


 楽しげに、きらびやかに、ほとりのことを誰よりも理解してともにいた親友は、ただ笑う。


「ほとり」


 桃子がアルバムを持つほとりの手を、そっと握った。


「写真は、嫌いっすか?」


「……っ」


 ほとりが泣きそうに顔を歪め、息を乱して、桃子を見返す。


「ここにいるみんなは、ほとりが写真を撮ってきたことでつながった仲間っす。たとえ今、ほとりが写真を撮ることをやめても、この仲間は一生もんだと思うっす。みんながこれからまた別々のことをやっても、全然違う道に行ったとしても、ずっと仲間でいられるっす」


 ほとりが写真を撮ることがなければ、つながることがなかった縁。

 ほとりが俺につなぎ、俺とほとりが湊斗につなぎ、ほとりが桃子につなぎ、俺とほとりが早乙女へとつなげた。ほとりが写真を撮ることがなかったら、俺たちは今、ここにはいない。

 この縁は、たとえほとりが写真を撮ることをやめた程度のことで、なくなりはしない。


 だけど、それでも――


「ほとりがお兄さんからもらった写真は、たしかにお兄さんがいないとなかったものっす。でも、もうほとりは自分の写真を撮ることができるっす。ほとりだけの、写真を」


 桃子は、ほとりが持つ大きなアルバムを、ゆっくりと閉じさせた。


「これから、まだまだ新しいことがあるっすよ。もちろん、悲しいことも、寂しいことも、辛いこともいっぱいあると思うっす。けどそれ以上に、ほとりの世界には、嬉しいことや楽しいこと、わくわくすることや大好きなことであふれると思うっす。このアルバムの先まで、ずっと、ずっとずっと先まで。きっと、あふれるっす」


 桃子は、笑いながら語りかける。


「そのとき、そして今、ほとりはどうしたいっすか?」


 流れ出した雫が、ぽたりと落ちる。



「――写真が――撮りたい」



 消え入りそうな声だった。


 今にも叫びだしそうで弱々しい声でありながら、ほとりは思いを口にする。


「今、私……写真が撮りたい……っ」


 ため込んだ感情が一気にあふれ出し、その頬をすっと涙が流れ落ちていった。


「本当に馬鹿だ……っ。私、こんなに、こんなに写真が……っ」


 抑えきれない気持ちとともに、流れ始めた涙は止めどなくあふれ出していく。


 ほとりのために集まった友人たちを見て、喘ぐように苦しい吐息を落とす。


「い、今のみんなを、写真に撮りたい……けど私……あの子を、部室に……っ」


 空っぽの両手。


 代わりにほとりへの想いが詰まったアルバムを抱きしめて、ぽたり、またぽたりと、それでも涙は頬を伝っては流れ出す。


「私……撮ってもいいのかな……」


 俺たちに求めるように、自分自身に問いかけるように。


「今も、これからも、カメラをまたやめちゃっても、私はまた写真を、撮ってもいいのかな……っ」


 悲しそうに、それでいて嬉しそうに笑い、涙を流す。


「こんな私が……大好きな写真を、みんなとの楽しい時間を……写真に撮っても……いいのかな……また、いつか……っ」


 これまで常にほとりとともにあったカメラは、その手にはない。

 どれほど欲したとしても、自らの気持ちを写し出すことはできない。


 今の、ままでは。



「――いつかじゃなくて、今から撮っていけばいいんだよ」



 ため息を吐きながらそう言うと、ほとりは泣きながら顔を上げた。


 俺は背負っていたカメラバッグを前に回し、ファスナーを開けた。

 いつも持ち歩いている俺の愛機であるD7500。


 そして、それと一緒に、もう一つ。


 取り出されたものを見て、ほとりは目を見開いた。


 長年使い込まれていても綺麗なそのカメラは、ずっとほとりとともにあったもの。


「わ、私のカメラ……どうして……」


 ニコン製一眼レフデジタルカメラD80。

 ほとりの愛機であり、ずっと部室に残されていたカメラだ。


「こいつが連れていけ連れていけって、うるさかったんだよ」


 ずっと部室に残されていたほとりの友だちは、今か今かとそのときを待っていた。


 もう何年も撮り続けてきたカメラ。

 ほとりの世界と、ほとりの気持ちを、写し続けてきたカメラ。


「カメラは俺たちにとっての鏡。このカメラは、お前自身を写真に写す鏡だ。持ってないと、ダメだろ」


 桃子がほとりからアルバムを受け取り、俺が代わりにほとりの手に、カメラを握らせる。


 数日ぶりにほとりの手に戻ったカメラは、それでもほとりの手の中にすっぽりと収まる。


「私の、カメラ……私の、鏡……」


 青葉さんが亡くなってからの三年間、そしてまた今回も手放してしまった友だちを見下ろしながら、複雑そうに視線を揺らす。


 多くの人にとって、カメラは写真を撮るための道具に過ぎない。しかしほとりにとってはそれがどれだけ大事なものか、俺は誰よりも知っている。

 手放してしまって、大事だからこそ、辛く苦しい。


 D80は青葉さんからほとりへの贈り物であり、遺された絆でもある。


「安心しろ。こいつは、三年もお前のことを待っていた。ほとりが写真から離れても、カメラを手にしなくなっても、ちゃんとお前のことを待っていた。たった数日離れた程度のことで、嫌いになったりしない。今回もきっと、待ってくれているよ」


 冷たくなっている小さな指を握り、電源を入れさせる。

 いつものように、待ちわびたように、D80は起動する。


 涙に濡れて、震えながらカメラを握る手を、俺はそっと包み込む。


「俺たち四人が、写真部部長に依頼にする」


 驚いて顔を上げるほとりに、俺は笑いかけながら口を開く。


 今まで俺が思っていたことを、俺自身の、願いを。


「この場所で、俺や青葉さん、ほとり自身の写真の前で、お前のカメラで写真を撮ってほくれ。お前自身の目で俺たちを見て、お前の気持ちを込めた、お前の大好きな写真を、撮ってほしい」


「……っ」


 瞳を揺らし、涙をいっぱいに浮かべたまま、またほとりは俯いた。

 俺の願いは、俺たちの依頼は、今のほとりにはできないこと。

 できないことを、依頼する。


 でも――


「ほとり」


 呼びかけると、ほとりは不安げな表情で俺を見上げる。


「大丈夫だよ」 


 ほとりの手を包み込む両手に、そっと力を込める。 


「お前の撮る写真には、悲しい気持ちが写ったりしないよ」


 ほとりは、青葉さんが亡くなってから、一度として自分自身をカメラに写すことをしてこなかった。

 自分がしてしまうことを、どうしても恐れたから。


 だけど、大丈夫。


 かつて、青葉さんから授けられた言葉を、今度は俺がほとりにつなげる。


「カメラは、世界を写す鏡。そして、自分自身を写す鏡だ。これまでも、そしてこれからも、俺たちの心を動かされた瞬間を、俺たち自身を写してくれる。カメラを手にするほとりの前にいる俺たちは、お前自身を写すものだ。お前の気持ちが、俺たちの気持ちなんだよ。お前の前にいる俺たちは、悲しい気持ちになっていると思うか? どんな風に、写真に写る? ほとりに、映る?」


 俺の言葉に、ほとりはようやく目を開け、その視線が前に向かう。


 そこにいるのは、桃子や、湊斗や、早乙女や、俺だ。

 ごくごく当たり前の友人でありながら、仲間でありながら、ほとりのために集まった連中。


 俺たちが、ほとりの目にどんな風に映ったかは、今はまだわからない。


 それでもほとりは、また泣き出しそうに顔を歪めた。


 俺は誤魔化すようにほとりの頭をくしゃくしゃと撫で回す。そしてほとりから離れ、その背中を展示スペースの反対側へと押しやった。


 足をもつれさせながら、ほとりは展示スペースから離れる。


 代わりに、俺や桃子たちが展示スペースの前に並ぶ。


「ここ写真の前でなら、特別に写真撮影の許可をいただいていますよ」


 写真展の会場で本来写真撮影は厳禁だ。ただ俺たちが撮った写真の前でだけ、特別に許可をもらっている。普通はそれもあり得ないが、そこは早乙女が頑張ってくれた。


 力のない足取りで、ほとりはカメラを手に俺たちへと向かう。


 俺と青葉さんが撮ったほとりの写真。

 そしてほとり自身が撮った俺と青葉さんの写真。

 つながりときっかけをくれた写真を前に、俺は、桃子は、湊斗は、早乙女は、ほとりに向かう。


「……」


 自らのカメラを見下ろしたまま、ほとりは動かない。


 今だからわかる。

 ほとりの目には、戸惑いや迷い、それから明確な恐れが見て取れた。

 これまでもきっと、ずっとそうだったのだ。

 カメラの向こう側が見えなくなってからもずっと、その向こう側を見ることを願ってきた。

 それでも自分の感情が写真に写り込むことを恐れ、そして拒んでしまう。

 心の底から好きだからこそ、青葉さんが遺したものがかけがえのないものだからこそ、写真を汚すことを恐れた。


 だけど、それでも――


「ほとりーん」


 桃子が両手を振って呼びかけると、ほとりが顔を上げた。


「かわいく撮ってくださいっすよー」


 両手でピースを作りながら笑顔を向ける桃子。


「ほとりさんの好きに撮ってくれればいいからね」


 優しげな表情で笑いかける湊斗。


「と、友だちに撮られるのは緊張しますけど、初瀬さんなら安心です。どんとこいです」


 やや顔を強ばらせながらも、励ましの言葉をかける早乙女。


 三人の言葉に思わず笑いをこぼしながら、俺も口を開く。


「これからお前が撮る写真が、俺たちからの写真撮影依頼の報酬だ。感謝して受け取れ」


 冗談めかして言いながら、俺は笑う。


「俺たちの毎日は、ほとりが写真を撮ってきたからこそあるものだ。お前は、どうだ?」


 ほとりの視線が、ほとりのために集まった俺たちに向かう。


 再び泣き出しそうになるほとりだが、鼻をすすってどうにか堪えた。


「なあ、ほとり」


 俺は、重ねて尋ねる。


「これからお前が撮るその写真にはきっと、なにが写るんだ?」


 ほとりは言葉を詰まらせ、カメラを握りしめ、それでも迷うように固く目を閉じる。

 しかしやがて、深々と息を吐き出し、薄く目を開けた。


 その口元は震えているようだったが、それでも微かに笑っているように見えた。


「ホントにね……これから撮る写真には、なにが写るんだろうね……」


 涙で濡れた声でそう呟き、ほとりはゆっくりとカメラを上げる。

 慣れた動作で、しかしぎこちなくカメラを構え、ほとりはファインダーをのぞく。


「……っ」


 ファインダーをのぞいたほとりの手に、力がこもる。


 口元が揺れ、カメラをのぞいていない、閉じた左目が震える。

 それでもカメラを下ろすことなく、こちらを見通すほとりの頬を、一筋の雫が流れ落ちた。

 これまでのように冷たく暗いものではなく、とても、とても暖かい感情。


 ほとりの指が、シャッターボタンにかかる。


「……じゃあ……撮るね……っ」


 暖かくあふれ出した気持ちを隠すことなく、ほとりは笑って告げた。

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