その写真にはきっと -1-
約束の土曜日、俺は岡山駅の待ち合わせスポットして有名な噴水前で一人待っていた。
その日は清々しいほどの夏晴れで、絶好の行楽日和だった。だけどカメラバッグからD7500を出す気分になれなかった。雲一つない岡山らしい快晴の下で、ここから自分が逃げ出してしまわないように、心を強く保ちながらただ待っていた。
約束の時間を少し過ぎたタイミングで、バス停の方から不安げな足取りで歩いてくるその小さな姿を見つけた。
「お、お待たせ……」
「……ああ」
背中を預けていた街灯から体を離しながら、俺はやってきたほとりに言葉を返す。
水色のシャツに白いスカートという普段と変わらないシンプルな服装。しかしお下げにしている髪は所々跳ねており、顔には明らかな疲れが見て取れた。
軽く頭を振って促し、雑踏の中に足を向ける。
ほとりは少し戸惑っていたようだが、少し遅れて、横に並んだ。
「この間は、ひどいこと言っちゃって、ごめんね……」
歩きながら、ほとりはこぼした。
「こっちこそ、悪かった」
人混みの中を歩きながら俺の方からも謝ると、ほとりは薄く笑みを浮かべて首を振った。
「真也君は悪くないよ。真也君が言ったことも、一色さんが言ったことも、本当のことだよ」
わずかに曇りの晴れたような表情でありながら、今にも泣き出しそうな声音だった。
土曜日の岡山駅周辺には、老若男女様々な喧噪がひしめきあっている。
俺とほとりは噴水がある岡山駅東側から、連絡通路を使って西側へと進んでいく。
「私ね、写真部、好きだったんだ」
人が行き交う道を歩きながら、ほとりは遠い日を懐かしむように言う。
「みんなで写真を撮ったり、お茶をしたり、話をしたり。写真部で活動していくことが、本当に本当に、楽しかったんだ」
何気ない、どこにでもありふれた高校生活。
でもほとりにとって、中学のころは青葉さんのことでふさぎ込んでいたこともあり、確実に新しい生活だったのだろう。瀬戸高に入学したほとりの周りには、東京から帰ってきた俺、中学からの親友で写真部が立ち上がると同時に入った桃子、写真部として活動していく中で湊斗。そして新たに、早乙女という写真友だちもできた。
カメラに触れることさえなかった三年間の、その先。
カメラを改めて手にしたほとりには、多くの友だちと、数え切れない好きがあった。
「だから、忘れてたんだよ。私のカメラの向こう側を見られないってことが異常で、普通じゃないってこと……」
美観地区で早乙女に、そして先日写真部の部室で一色さんから、ほとりは現実を突きつけられた。ほとりが現在撮っている写真は、おかしい写真だと。
「私ね、もう一度写真を撮ろうとしたとき、思ったんだ。お兄ちゃんはもう写真を撮れないから、私が写真を撮らないといけないんだって。私に写真を教えてくれたのはお兄ちゃんで、お兄ちゃんは真也君や、他にもいろんな人に写真でつなげていった。巡り巡って私も、誰かに写真でお兄ちゃんの写真をつなげていくんだって、思ってた」
「……」
俺は歩みを止めないまま、その震える口から紡がれる言葉を聞き入った。
「一色さんに言われて、改めてわかったんだ。私は今、誰かに写真を見てもらうことを、怖いって感じてる。昔は、ただ自分が好きなものを撮って、その写真を見てもらえることが、嬉しくて仕方がなかったのに、今は――」
ほとりは両手の指でカメラの形を作り、岡山駅に行き交う人に向ける。遊びで子どもがやる仕草でありながら、時にはカメラマンでさえやる仕草。その指で作ったカメラの先を見据えるほとりの瞳が、曇る。そんなカメラでさえ、ほとりは向こう側を見ることができないのだ。
「私は、自分の目で世界を見てきたんじゃない。お兄ちゃんが教えてくれた写真だから、私はその世界を見ることができたんだ。カメラで世界を見ることができたんだ」
カメラの向こう側が見ることができない。俺には想像することさえできない光景が、どんな世界であるか理解することはできない。
無意識に、カメラバッグに収められたカメラに手が行く。
「真也君は、ちゃんと自分の目で世界を見てる。でも私は違った。お兄ちゃんがいなくなって、写真を三年も撮らないで、そしてまた、お兄ちゃんがいたからなんて馬鹿な理由で写真部にいるために、カメラを手に取った」
だから、と悲しげに目を伏せながらほとりは口元に笑みを作り、自らの手を見下ろした。
「あの子、D80も、多くのカメラたちも私を許すわけがない。写真が許すわけがない。全部全部、なにをするにもお兄ちゃんを理由にして、写真から勝手に離れて、また自分勝手な理由で写真に戻ってきた。私のカメラの向こう側が見えないのは、私に対する、罰なんだよ……」
言って、開かれていた手が、ゆっくりと閉じられた。
空っぽの、まま――
俺は、足を止める。
「――違うだろ」
岡山駅から東側への連絡橋で周囲の雑踏が途切れ、開けた空間に二人だけになる。
ほとりは怪訝な顔で歩みを止めて、わずかに眉をひそめた。
「お前のカメラの向こう側を見ることができないことに、そんなことは関係ないだろ」
わずかに、ほとりの目が揺れる。
「青葉さんがいたから写真を撮っていたからでも、一度カメラから離れてもう一度戻って自分勝手な理由で写真を撮っていたからでも、ましてやお前に罪があるわけでも、それが罰であるわけもない。そんな理由じゃないだろ」
「……なにが、いいたいの?」
強ばった声音だったが、言葉の端が揺れていた。
「ずっと、お前の写真を見て、思っていた」
いろんな人がほとりの写真を見て、そして覚えていた違和感。
早乙女や一色さんが理解したであろう、ほとりの写真の疑問。
「被写体のずれ、オートフォーカスのピント、単調な写真だとか、そんな話じゃない」
ほとりが最近撮った写真と、現在撮っている写真には、もっと決定的な違いが存在する。
「写真に写っているものは、なにも人や風景、そのとき自分の目の前に広がっている景色だけじゃないと思うんだ。目には見えなくても、写真に写るものは確実に存在する。そして、以前のお前の写真には、写真に見える以外のものがはっきりと写り込んでいた」
口にされることを恐れているほとりに向かって、俺は意を決して口を開く。
「――それはほとり、お前が写真を撮っているときの、気持ちだよ」
ほとりの目が大きく見開かれる。
だが、それも少しの間で、ゆっくりとまた伏せられた。
「お前自身、気がついていないわけじゃないだろ?」
「……」
現実からそうしているように、写真からそうしているように、ほとりが目を背ける。
ほとりは言った。私の写真のことに気づいてくれていないと。
しかし、それは間違いだ。そんなはずがないだろう。
「俺は、岡山に帰ってきて初めてお前の写真を見たときから、気づいていたよ」
写真に写るものは、写真の色や形など、目に見えるものだけではない。
ほとりが以前撮っていた写真たちには、それ以外のものが明確に写っていた。
「写真の技術やカメラの扱いで生まれる違いじゃない。お前が以前撮っていた写真には、お前がその写真を撮っていたときの気持ちが、強く、はっきりと写り込んでいた」
写真には、必ず撮影者が存在する。
人が写真を撮りたいと思うのは、目の前の光景に心を動かされた、未来に残しておきたいと感じる瞬間だ。
そして、撮影者のごくごく当たり前の感情。嬉しい、楽しい、悲しい、すごい、綺麗、不思議。そういったごくごく当たり前にある撮影者の気持ちが、写真には写り込む。
以前のほとりが撮影した写真には、撮影者であるほとりの感情が色濃く映り込んでいた。
「昔の写真を見ればわかる。いくら現実を拒んでも、かつて撮った写真からお前の気持ちは消えない。お前が撮った、自分の世界が好きだという気持ちが、消えたりはしない」
早乙女も気がついていた。
ほとりのアルバムを見た際に、以前撮った写真では、感情が伝わってくると言っていた。しかしそれ以降、現在の写真には疑問を覚え、倉敷美観地区の写真にも同様の違和感を覚えていた。写真を撮るときは楽しそうなのに、この写真は、何かが違うと。
一色さんも、一目見ただけで写真の違和感を見抜いていた。
空っぽだと、なにも込められていない写真だと。気持ちがまったく見えない写真だと。
「今のお前が撮っている写真からは、お前の気持ちが感じられない。誰が撮った写真でも、少なからず感情は写り込む。だけど今のお前の写真からは、なにも感じないんだよ」
この街に帰ってきて、俺の自宅でほとりの写真を初めて見たとき、俺はこんなものがほとりの写真であると信じられなかった。
あのほとりが撮った写真が、こんな機械的で適当につなげた、無味な写真であるはずがないと。
「拒んでいるんだ。目を背けているんだろ。自分が見た光景に自分自身の感情が写り込むことを」
「そ、そんな……こ、と……」
否定しようとするほとりの声は、力なく揺れていた。
曖昧に笑みを浮かべようと緩められた口から吐息だけが漏れ出し、その先に言葉が続くことはない。
「お前がカメラで写真を撮っているとき、いつも青葉さんがいた。どんなときも、ずっと一緒だった。青葉さんがいなくなってからもそうだ。いつも、頭の片隅には青葉さんがいるんだろ。青葉さんのことが過ぎって、写真を撮って、悲しい気持ちが写真に写り込むことを拒んでいる。お前自身が、カメラの向こう側を見ることを拒絶しているから、カメラの向こう側が見えないんだ」
いつもカメラを握っていた小さな手が、赤くなるほど握りしめられていた。
俯き、目を閉じ、感情を押し隠すように口を閉ざしている。
「……」
再び目が開かれたとき、俺ははっきりと見た。
ほとりの目に浮かぶ、奈落のように底が見えない、深い悲しみを。
「本当に……真也君は、なんでもわかるんだね……」
頭に手を当て、目に浮かぶ雫を隠しながら、ほとりは漏らす。
「そうだよ……。どれだけ写真を撮ろうとしても、お兄ちゃんが頭を過ぎっちゃう。そんな状態で写真を撮るなんてこと、私にはできないんだよ。私に楽しい思い出を、大好きな時間をくれた写真に、そんな気持ちを写すなんてことをしたくなかった。だから私は、カメラから、写真から逃げた……」
ほとりがカメラを手にしなかった、青葉さんから亡くなってから空白の三年間。
なにが起きるかの予想が付いてしまったからこそ、ほとりは写真から離れたのだ。
「お兄ちゃんがいつも言ってた。『カメラは世界を写す鏡』だって」
俺も覚えている。青葉さんが口癖のようにいつも言っていたことで、俺たちにも教えてくれた言葉。
「世界を写すカメラには、鏡には私の気持ちが必ず写る。世界を見る、私が写る……」
これまで押さえ込んでいた苦しみを、ほとりが吐き出していく。
子どものころほとりが撮った写真には、見ているこちらがわくわくさせられるほど、ほとりという撮影者の気持ちで溢れていた。心を動かされずにはいられないほど、素晴らしい写真だった。
早乙女と一色さんからの問い。
どうして、なんで写真を撮っているのかと。二人はひどいことを言っているわけでも、別に責めていたわけでもない。ただ、ほとりがどんな気持ちで撮った写真だったのかが、わからないから聞いただけだ。
ほとりは、空っぽの両手を見下ろして、泣き出しそうな笑みを浮かべる。
「でもお兄ちゃんが写真部だって聞いて、もう一度カメラを始めてみようと思った。思うことができたの。もうカメラには触らないつもりだったのに、それでも、もう一度……」
手が再び、空っぽのまま握りしめられる。
「だけど、カメラの向こう側を見ることは、どうしてもできなかった。悲しい気持ちが写らないように、絶対に写さないようにって考えると、お兄ちゃんのことが頭を過ぎって、真っ暗になる」
それでも、と苦しげにほとりの顔が歪む。
「それでも私、写真を……写真が撮りたかったの」
カメラの向こう側を見ることができないまま写真を撮るほとりの姿が、まぶたの裏にはっきりと焼き付いている。笑みすら浮かべて、写真を撮ろうとするほとりの姿が。
「たとえカメラの向こう側を見ることができなくても、写真を撮りたかった。お兄ちゃんから教えてくれたものを悲しいもので終わらせたくなかった。でも、私はカメラを通して世界を見ることができない。だからせめて、お兄ちゃんの代わりに、写真を撮ることができればって考えるようになっちゃって……。なにがしたいのか、自分でもわからなくなった……」
「……あのときは、悪かった。俺は本当に、青葉さんの代わりにほとりに写真を撮ってもらいたいわけじゃないんだ」
少し乾いた笑みを浮かべ、ほとりは首を振る。
「わかってるよ。真也君がそんな風に、私をお兄ちゃんの代わりのように思っていないことは、わかってるんだよ。でも、お兄ちゃんがきっかけで写真を始めた真也君が、私の写真に、お兄ちゃんを重ねてしまうことは、仕方のない、ことだから……」
だから、と再び自分に言い聞かせるように口にし、駅の外に広がる青空に目を向ける。
「私の写真に、やっぱり意味なんてないの。もうこれ以上、写真を撮っているべきじゃ――」
「違う」
ほとりの言葉を遮り、俺は口を開く。
「たしかに、青葉さんの写真があったから俺たちはつながった。でも、お前にはもう、写真以外のものがたくさんあるだろう。それは青葉さんがお前に遺して、お前自身で築いてきたものだ。それが今の写真部なんじゃないのか? 俺がいて、桃子がいて、湊斗がいて、早乙女もいる。全部全部、お前がもう一度写真を始めたからだ。お前の写真に、なにもないわけがない。それに――」
「ないよ」
俺の言葉を聞く前に、今度はほとりが遮り口を開く。
「なにもないよ。今の写真部も、お兄ちゃんが写真部だったからだよ。私はお兄ちゃんがいた場所にいたかっただけ。真也君もお兄ちゃんの写真を見たから、教えてもらったから、写真を始めたんじゃない。私なんか、いなくても……」
「だから違うっていってんだろ」
語尾を強めて言い切り、深々とため息を落とす。
「俺、一度もそんなこと言ってないだろ。勝手な勘違い、しないでくれ」
わずかに怒りを孕んだ俺の言葉に、ほとりは怯んだように目をそらした。
「ち、違うって、なにが……?」
「……行こう。お前に、見せたいものがある」
その問いには答えず、再び歩みを進める。
ほとりは、戸惑いながらも後ろを着いてくる。
目的地は、もうすぐそこだ。
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