自分たちのこと -2-
「ほとりんが仮病で学校休むなんて、なんか新鮮でおもしろいっす」
私の部屋でけらけらと笑う桃ちゃんは、本当にいつもの五割増しで楽しげだった。
「け、仮病じゃないもん……。た、ただちょっと、本当に体調が悪かっただけだもん……」
私はベッドの上で膝を抱えて、もごもごと口ごもる。もう何日も、パジャマにしているスウェットパーカーとニットの半ズボン姿のままだ。
ベッド脇にある勉強机の椅子に腰をかけた桃ちゃんは、再び楽しそうに笑う。
「咳もくしゃみもない。熱もない。顔色も普通だしご飯も食べられる。これで体調不良なら、私もう学校行けないっす」
「うっ……」
実際、それだけの症状で既に数日も休んでしまっている。言い返せる言葉などない。
一色さんが写真部を訪れてから数日がたち、ついに金曜日まで休んでしまった。しかし今の調子では、さらに土曜日日曜日を挟んだとしても、登校できる気がしない。
「とりあえず食べるすっよ。部室でゆっくりお茶ができなくなったんで、いっぱいあるっす」
桃ちゃんは机の上に広げたクッキーやらケーキやら蒸しパンやらを、しきりに勧めてくる。いくら食べてもまったく体重にダメージがない桃ちゃんと違い、私は気を抜くとすぐ体重にクリティカルヒットする。何度説明しても、女子高生の一般的な悩みを桃ちゃんが理解してくれることはない。
それに、部室でのんびりお茶をできなくした私が、当たり前に食べるのもどうかしている。
しかし、桃ちゃんが執拗に笑顔で押してくるので、仕方なくクッキーを一つつまんで口に運ぶ。バターの甘い風味が口いっぱいに広がった。桃ちゃんの作るお菓子は本当にいつもおいしい。普通の倍近く時間をかけて一つのクッキーを食べ終わると、桃ちゃんが口を開く。
「それで、なにをそんなに悩んでるんすか?」
「……」
答えようと一度口を開きかけるが、声になる前に膝に顔を押し当てて俯く。
視界の隅で桃ちゃんが小さく肩をすくめ、切り分けられたパウンドケーキをぱくりと食べる。
「その一色さんって人との話、そんなにきつかったっすか?」
きつかった、というのは間違いではないけど、少し違う。
私のスマホが壊れたんじゃないかと疑うくらい、ひっきりなしに鳴り続けるスマホに出た際に、なにがあったのかを吐かされた。連絡もせず何日も休み続けていた私に拒否権などあるわけもなく、それはもう洗いざらい。
「……みんなに、カメラの向こう側を見られないってことを、知られたくなかった」
「ああ、それっすか。今でも信じられないっすよ。よくそんな状態で写真撮れてたっすね」
桃ちゃんは別に私を責めるわけでもなく、ただあっけらかんと笑っていた。
それに、と私は続ける。
「真也君に、ひどいこと言っちゃった……」
語尾が震えた。
真也君に悪いところなどなにもなかった。私のことを見透かした一色さんの言葉言葉は、すべて的を得ていたのだ。それでも私は自分を抑えきることができず、私を励まそうと声をかけてくれた真也君に、八つ当たりをしてしまった。
情けなく、申し訳なさ過ぎて、目元が熱くなる。
桃ちゃんは苦笑しながら、クッキーをぱくりと一口で食べる。
「たしかにしんやんのへこみ具合は心配になるほどっすけど。私のこと桃太郎ってまったく呼ばないし、露骨に元気ないっすからね。まあそっちはみなとんに任せとけば大丈夫っすよ」
にししと桃ちゃんは、朗らかに笑う。
それが私を励ますための笑顔だとわかって、余計に申し訳なくなる。
「……ごめん、本当に」
「ん? それはなにに対するごめんっすか?」
桃ちゃんは首を傾げながら、わからないという風に聞いてきた。
「カメラでまともに写真を撮ることができない私が始めた写真部に、みんなに付き合ってもらうことを、本当はずっと申し訳なく思ってた……。みんながいてくれたのは、本当に、本当に嬉しかったけど、それでも申し訳なかった……」
瀬戸高写真部に、そもそも私はいていい人間ではなかった。
普通の写真部は、自分たちのために写真を撮る。自らが楽しむため、技術向上のため、コンテストに応募するため。
けれど私たちの写真部は、誰かのための写真を撮る。誰かに求められた、写真を撮る。それなのに私は、普通に写真を撮ることさえできないのに、写真を必要とする人たちに向けて写真を撮ってきた。
「なんとかやってくることができたのは、真也君がいてくれたからなんだよ……」
大したことじゃないって謙遜ばかりしているけど、真也君は本当にすごい。依頼内容からどんな写真が適切か、求められているかをすぐに判断して、実際に写真にする技術と視点を持っている。部長の私の写真を推してくれることで私の写真が採用されることが多いけど、依頼者さんの評価が高いのは間違いなく真也君だ。
これまでどうにか依頼をこなすことができているのは、真也君がいてくれたからだ。
「私は真也君の影で、どうにか自分も写真を撮れているって気になっていただけだったんだ。写真を見慣れている人からすれば、私の写真がおかしいなんて、すぐにわかることなんだよ」
真也君も最初からずっと気がついていた。早乙女さんもすぐにわかっていた。写真部OBである一色さんも、一目見ただけで見抜いていた。
「まあ私やみなとんは、そもそも写真も撮らないのに写真部に居座っているわけで。それについてどうこう言う資格なんて、最初から持ち合わせてないっすけどね」
いつものように楽しげな笑みを浮かべたまま、桃ちゃんはもぐもぐとクッキーを頬張る。
「それでも桃ちゃんは、一緒に写真部にいてくれた。私一人じゃ、こんなに続けられなかった。湊斗君もそう。写真を撮らなくても写真部として活動してくれた。私はただ、写真で……」
その先の言葉を紡げずに、桃ちゃんから視線を外してまた俯く。
桃ちゃんは肩をすくめると、小さく息を吐くと指でぴんとクッキーを載せたお皿を弾いた。
「私が料理やお菓子作りを本格的に始めたきっかけって、話したことあったすかね?」
「桃ちゃんの……? いや、聞いたことなかったと思うけど……」
突然の質問に私は首を傾げる。
桃ちゃんは少し恥ずかしそうに笑って、お菓子に視線を落とした。
「うちの親、料理屋やってるじゃないっすか。何度か一緒に行ってるっすけど」
「うん、ごちそうになった」
桃ちゃんの両親は夫婦揃って料理人だ。
二人で開業して、もうそろそろ二十年になるお店だと聞いている。雑誌やニュースで何度も特集されるほど、大盛況のお店だ。料理がどれもおいしい上にお手頃価格で、連日大行列だ。
「二人はワーカーホリックというか仕事が生きがいというか、料理をするために生まれてきた人種なんすよね。そんで、誰かに料理を食べてもらえるのが嬉しくて仕方ないんす」
そういえば、以前ごちそうになったときも、私が特製オムライスを食べている様子をニコニコ笑いながら見ていたのを覚えている。誰かに自分が作っているものを食べてもらえることが、嬉しくて仕方がないという様子だった。
「だから、ずっとお店で料理をしていたいんす。家にいる時間もまあ短いんすよ。休日以外は早朝か深夜しか家にいないっすからね」
桃ちゃんにはお兄さんとお姉さんがいる。しかし歳が少し離れていて、ずいぶん前に上京して家にはいない。現在桃ちゃんは両親と三人暮らし。家にいるときはほとんど一人ということだ。
「私のご飯も絶対に出来合いのものとか出さずに、全部手作り。朝食もお昼の弁当も晩ご飯も、忙しいのに自分たちで作ってくれていたんす。でも晩ご飯を作るっていっても、帰ってくるのが九時十時とかになるんで、いつもばたばたしてたっすよ」
以前は、お兄さんやお姉さんが桃ちゃんの面倒を見てくれていたらしい。だけど二人が上京してからおじさんたちが相当頑張っていたであろうことは、言われずともわかる。
「何年か前に、うちの店、全国放送のテレビで取り上げられたことがあるんす。そのときはもう、二人ともぶっ倒れちゃうんじゃないかっていうくらい働いていたんすよ。私のご飯なんて、作る余裕なんてないくらいっすね」
桃ちゃんは自分で晩ご飯を作る日が続いたそうだ。料理店の娘なだけあって、自分の夕食を作るなんて大した苦労ではなかったらしい。
「テレビ放送直後の日曜日、だったすかね。お父さんとお母さん、日付が変わっても帰ってこなかったんす。せっかく遠くから来てくれたのに、食べずに帰ってもらうなんて申し訳ないって。材料がなくなるまで作ってたんす。営業時間なんて、とっくに過ぎてたのにっすよ?」
「おじさんたちらしいね……」
「まだまだ帰れないって連絡だけはあったんすけどね。次の日は祝日で私も休みだったんで、夜遅くまで二人が帰ってくるのを待ってたんす。で、ふと思ったんすよ。二人はこれから帰ってきて、自分たちが食べるご飯を作るの、大変だなって」
お皿の上から蒸しパンを一つつまんで、懐かしそうに見つめる。
「だから、思いついたんすよ。ああ、私が二人のご飯を作ればいいんだって」
蒸しパンを口に運び、桃ちゃんは椅子の上にあぐらをかきながらぺろりと指を舐めた。
「そんなうがった考え方をしたわけじゃないっすけどね。ただ、二人が大変そうだから晩ご飯は私が作りましたーって。夜の二時くらいだったすかね。でも、お父さんとお母さん、リビングに広げた私の料理を見て、泣き出しちゃって」
「え……」
目を丸くすると、桃ちゃんは照れたような、恥ずかしいような笑みで頬を掻いた。
「子どもの私をほっぽり出して自分たちが好きなことをして、私に自分たちの晩ご飯まで作らせたことが申し訳なかったらしいっす。私の料理が冷めていっている間に、ごめん、ごめんって、謝るんすよ」
そのときのことを思い出しているのか、少しばかり遠い目で桃ちゃんは続ける。
「なんで、私たちの晩ご飯を作ったのかって、二人から聞かれたっす。でも、別に私はなにかを考えて、料理をしていたわけじゃなかったっす。正直聞かれたときは、なんで二人のご飯を作ったか、よくわかってなかったすよ」
少し、間が開いた。
それが、私にも向けられたものであると、すぐにわかった。
桃ちゃんはまた、笑った。
「そのとき、初めてわかったんすよ。聞かれて、疑問に思って、自分の言葉で口にして、ようやくわかったんすよ。私は、もっともっと自分が作った料理を食べてもらいたかったんだって。自分で作った料理やお菓子を誰かに食べてもらえることが、私のやりたいことだったんだって」
桃ちゃんとは中学入学時からの付き合いで、そのころから料理が好きなことは知っていた。でも当時は今のように自分で作ったものを持ってくるようなことはなかった。
思えば、ある時期を境に熱心に料理を作るようになっていたと思う。
私がお兄ちゃんのことでふさぎ込んでいる間にも、何度もお菓子をくれた。
「ちなみ、いつも私がきびだんごを作っているのは、私家族の大好物だからっす。みんな大好きーって気持ちを込めてっすね」
冗談めかして笑い、そして自らが作ったお菓子を見やる。
「このお菓子たちにも、いろんな思いを込めて、作ってるんすけどね」
「……」
わかる。
桃ちゃんが、どんな思いでこのお菓子を作ってくれているか、私にはわかるよ。
「でも……」
喉から出した声は、震えていた。
「でも、桃ちゃんの料理と、私の写真は違うよ……」
「私はそうは思わないっすよ」
はっきりと、薄く笑みを浮かべたまま桃ちゃんは言い切った。
「私も両親に言われたんす。私たちのご飯を、桃子が作らなくてもいいんだよ、って」
桃ちゃんの視線は、机の上に広げられているお菓子に落ちている。
「でも、私がその料理を作ったのは、今もお父さんとお母さんの晩ご飯を作るのは、私が作りたいからなんす。誰に言われたからでも、作ってと頼まれたわけでもなく、作らないといけないわけでもない。全部、全部全部、私が作りたかったからっす」
強く意志と意味のこもった言葉が、私の中にぽとりと落ちた。
「ほとりんの写真も、そうなんじゃないっすか? きっと、ほとりんが写真を撮らなくても困る人はほとんどいないっす。ほとりんは、お兄さんが亡くなったあと、誰かに写真を撮れって言われたことあるんすか?」
「……」
それは、ない。
もう写真を撮らないの、と尋ねられたことはあれど、誰も私に写真を撮ることを強要する人などいなかった。あのころの私は、写真を見るだけでも泣き出しそうになるほどだったから。
「それでもほとりんが写真をまた始めて、撮り続けたのは、どうしてっすか?」
優しさを帯びる笑みを浮かべた桃ちゃんが、真っ直ぐ私を見つめてきた。
「ほとりんは、どうして写真を撮るんですか?」
早乙女さんからも、一色さんからも投げられた問い。みんなの問いは、なにも悪意があるわけでも、非難しているわけでもない。ただ疑問なだけだ。
でも私は、満足に答えるだけのものを、持ち合わせていない。
「……」
空っぽの両手を見つめる。
小さく情けない、私の手。また、もう何日もカメラに触っていない。写真を撮っていない。あのころに戻った。
黙ってばかりの私を見て、桃ちゃんは怒るでも困るでもなく、いつものように笑う。
「言ってみないと、言葉にしてみないと、心から出してみないと、わからないこともあると思うんす。相手に伝わらないんじゃない。自分自身がわからないんす。なんで、自分がこうしているのか、これから、自分がどうしていきたのか……」
これから。
言われて、自分が過去のことばかりに囚われていることが、情けなくなった。
あのころから抜け出せず、これからに目を向けるのができないのが、今の私だ。
私は、満足な答えを持ち合わせていない。
でも、だからこそ桃ちゃんの言う通り、言葉にしてみないとわからないのかもしれない。
「桃ちゃん、私、私ね……」
そのとき、開きかけた口を塞ぐように、枕の上に投げていたスマホが音を立てた。
手に取り、通知を見ると、自分でもわかるくらいはっきりと顔が歪んだ。
「誰からっすか?」
「真也君……。明日の土曜日、岡山駅まで、出てこいって……」
時間と待ち合わせ場所だけを記載した端的な文面。数日ぶりだというのに、無駄なやりとりが一切存在しない、真也君らしい連絡だ。
「どうするんすか?」
スマホを見下ろしたまま、口を結ぶ。
正直、行きたくない。心の整理なんて着いていないし、着くのかどうかもわからない。
でも、桃ちゃんに言われて、一つ気づいた。
たしかに、そう。
口にして、言葉に、心の中から出してみないと、わからないこともある。私も、まだわらかない。だから――
顔を上げる。
桃ちゃんは満足そうに笑い、鞄から新たに一つの包みを取り出した。
「そんなほとりんに、はい、きびだんご。食べるっすか?」
差し出されたのは、先ほど話に上がった特製のきびだんご。
私は、それを一つ受け取り、食べる。
優しい甘さと心地よい食感とともに、自分が、元気になっていくのを感じた。
「ありがと……桃太郎さん……」
そう言った私の額を、桃ちゃんが軽く指で弾く。
「桃太郎って言うな」
久しぶりに、思わず笑ってしまった。
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