来訪者 -2-

「は……はは……」


 一色さんが消え、静寂に包まれた部室に、小さな笑い声が漏れる。

 立ち尽くすほとりの目からは生気が抜け落ち、人形のようにぬめりとした光を放っていた。


「やっぱり、写真をちゃんと知っている人から見れば、わかっちゃうよね……」


 机の上に置いていた鞄からカメラを取り出し、空虚な笑いを浮かべてカメラを見下ろす。


「お兄ちゃんの写真を知っている人なら、なおさらわかるよね。私の写真が、おかしいって」


「おい、ほとり……」


 立ち上がりほとりの肩に手をかけるが、ほとりから返されたのは痛く乾いた視線だった。皮肉めいた笑みが口元に浮かび、視線は俺を向いているがなにも映さず、ただ瞳が揺れ動く。


「ごめんね、真也君。やっぱりダメだよ。この高校で、写真部で、お兄ちゃんがいたこの場所でなら、いつか私はまた、カメラの向こう側が見えるようになるって、思ってたんだ……」


 突然吐露された思いに、俺は言葉を詰まらせる。


「写真を撮り続ければ、きっとなにかが変わってくれるって思ってた。お兄ちゃんが教えてくれた写真が、世界が、きっとまたカメラの向こう側に、私に綺麗なものを見せてくれるって思っていたんだよ」 


 全ての言葉が過去になり、ほとりの目が痛みとともに曇っていく。


「真也君が言い返さなかったのは、真也君も同じように思っているからだよね……?」


「……っ」


 向けられた問いに答えようとするが、その答えは声にならず痛ましい空気に溶けて消える。


 そんなことはない、と答えることは簡単だ。だけど、一色さんがほとりに向けた言葉は辛辣でこそあったが、ほとりの写真の現状を見抜いた正確な言葉だった。明らかにおかしな写真であり、違和感を覚える写真であると。

 俺は一色さんの言葉を否定するだけのもの、持ち合わせてはいなかった。ほとりを支えるだけの言葉を、持つことができなかった。


 だけどそれでも、俺は口を開く。


「……同じように思ったわけじゃない。お前の写真が普通じゃないってことは、お前だってわかっていることだろう? それを今更他人に指摘されたからって、なんだっていうんだよ」


 その言葉が、どれだけほとりを傷つけるか、考えもせず。



「――なにも感じないわけないじゃない!」



 ほとりの目に、はっきりとした激情が宿る。


 かつて聞いたこともないような怒りに染まった声で、ほとりが叫ぶ。


「私がどんな思いで写真を撮っていると思ってるの!? カメラの向こう側を見ることもできないで写真を撮ることが、撮った写真を見ることが悲しくないわけ、辛くないわけないでしょ!」


 途方もなく、大きく暗い感情がぶつけられる。


「真也君はいいよね普通に、当たり前に写真を撮れるんだから! お兄ちゃんと写真を撮っていたあのころと同じように、写真を撮ることができるんだから!」


 黙って聞いていることなどできず、俺は口を開く。


「でも、お前は写真を撮り続けてきただろ? 一度は写真から離れても、また写真に戻ってきた。それは、お前がまた写真を撮りたいって、続けていきたいって思ってるからじゃないのか?」


「カメラの向こう側が見えないんだよ! 私がどれだけ写真を撮っても、思うような写真は撮れない。でも、でも私には写真しかないんだよ! 私ができることは写真しか――」



「だったらなんで自分のアルバムから写真を出さなかった!」



 張り上げた俺の問いに、ほとりは目を見開き、口を閉ざす。


「俺やお前は、自分が本当に好きな写真を自分のアルバムに入れている。思うように写真が撮れなくても、以前みたいに写真が撮れなくても、アルバムに入れている写真が俺たちにとって一番いい写真のはずだろ! それなのになんで自分のアルバムから出さずに、無難な写真をわざわざ選んで一色さんに見せた!」


 ほとりはその問いに答えず唇を噛みしめる。


 自覚がないはずがない。俺たちはこれまで撮ってきた写真の中でも、特に好きな写真を入れたアルバムを持ち歩いている。思うように写真が撮れないとしても、自分が好きになる写真は必ずある。写真部を始めてからも、ほとりが自分のアルバムの写真を何度も入れ替えているのを見ている。


 自分のアルバムから十二分な写真を出すことができたはずなのに、そうしなかった。


「お前は自分自身で妥協した。隠したかったんだろ。かつて写真部にいたという一色さんに、見られたくなかったんだろう。今のお前の写真を」


 一度口にし始めると、止まらなかった。


「お前が子どものころから撮り続けた写真が、見破られるって思ったからだろ。だから最近他の人から評価された無難な写真を選んだ。お前は、お前が好きな写真を自分自身で偽った――」


 自制できず、勢いに任せて、言ってしまった。


「青葉さんなら、絶対にそんなことは――」


 俺はその先の言葉を紡げずに、静止する。


 感情が高ぶっていたほとりの目から、一瞬、ありとあらゆるものが抜け落ちた。


「なんで……そこでお兄ちゃんの名前が出るのかな……」


 恐ろしく冷たい、痛々しい声。

 ほとりの目に、大粒の涙が浮かんでいく。


「真也君にだけは、そんなことを言われたくなかったよ……」


 再びほとりの目に激情が宿り、痛みを耐えるように胸を押さえながら喘ぐ。


「結局真也君だって私の写真を見てない! お兄ちゃんの写真とばかり比べてる! 私の写真なんて見てくれてないんでしょ! 写真のことだって気づいてくれてない! 真也君はお兄ちゃんに影響されて写真を始めたんだから当然だよね。お兄ちゃんがいなくても私が代わりに写真を撮ればいいと思ってるんだ!」


 吐き出されたその言葉に、俺の頭で感情が弾けた。


「そんなこと言ってないだろ! 青葉さんはもういない。どれだけ望んでも青葉さんと同じ写真を撮ることなんてできないし、その必要もない! お前は、お前が撮りたい写真を撮ればいいだけだろ!」


「どうやって私の写真を撮ればいいの!? 私はカメラの向こう側が見えない。どれだけ見たいと思ってもダメなんだよ! 私の気持ちが、真也君にわかるはずが――」


 そのとき、部室の扉ががらりと開いた。


 ほとりが驚き視線を向けると、戸惑い動揺する桃子と湊斗が立っていた。


「ほ、ほとりん? 今の話……」


「……カメラの向こう側が見えないって、どういうこと?」


 ほとりの叫びは、外の静かな廊下にまで響き渡っていた。


 泣き叫びそうに、ほとりの顔が歪む。

 誰も悟られることがなかったものが、偽り隠してきたものが、音を立てて露呈する。


 ほとりの体からふっと力が抜け、そして笑った。痛々しい、自らをあざける笑みだった。


「やっぱりだめだ――、これ以上、写真撮れない――」


 ほとりの口から出たのは、そんな信じられない一言。


「おいほとり――」


 咄嗟に伸ばした俺の手を、ほとりが振り払う。


 その拍子に、ほとりの手からカメラが抜け落ちた。カメラは机に上に置いていたほとりの鞄にぶつかる。


 そして、ごとりと、不吉な音を立てて机の上を転がった。


「――ッ」


 一瞬ほとりの表情が歪み、空っぽになった両手を見下ろす。

 自分がやったことを目の当たりにし、理解し、手が震え始める。


 前髪に隠れたほとりの表情は見えない。

 それでも、ほとりの頬を、一筋の雫が流れ落ちていった。


 そして、ほとりは桃子と湊斗の横を逃げ去るように部室を飛び出していった。


 もう一度、カメラにも、ずっと撮影してきた手にも、目を向けることなく。


「ちょっとほとり!」


 桃子が慌てて追いかけるが、足音は止まらず、ずっと遠くに消えていく。


 追う理由も、かけてあげられる言葉も見つけられず、俺は混乱する湊斗の前で、一人立ち尽くすことしかできなかった。


 ほとりが部室に残していたカメラから、俺の世界が壊れていく音を、はっきりと聞いた。

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