古都の和装美人 -1-
「……ん……やくんてば……」
呼びかけるような声とともに体を揺すられ、まどろみの中に光が差す。目を開けると視界の景色がゆっくりと流れていた。
そしてすぐ前に、いつか涙を流していた少女の顔があった。瀬戸高の制服を着たほとりだ。軽い振動にともなって、顔の横でいつものおさげが揺れている。
先日までは暑苦しい冬服だったが、六月に入って暑さも本格化し、ようやくブレザーが夏服になってくれた。
「もうすぐ、電車着くよ」
「あ……ああ、悪い。寝てたか」
隣に座るほとりの呼びかけに、額を叩きながら現実世界に意識を戻す。
俺自身も制服姿で、学校帰りに遊びに行ったんだったかと思考が巡るが、すぐに違うと思い当たる。たかだか岡山駅から二十分もない距離だというのに、電車が動き出してからの記憶がない。
「昨日、寝てなくてな」
ほとりの向こう側から、桃子がからかうように体をのぞかせる。
「いったい夜遅くまでなにをしてたんすかねぇやらしいっすねー。よっ、男の子!」
「……公衆の面前で俺の尊厳を傷つけるのやめてもらっていいか? 昨日、撮影に必要なスポットを調べてたら日が昇ってたんだよ」
夜遅くまで観光雑誌やインターネットを読みふけっていたら、終わりどころが見つからず早朝までやりこむはめになってしまった。
「ひ、日が昇ってたって、もしかして一睡もしてないのかな?」
「まあ、有り体にいえばそうだ。夜明けには親父から電話かかってくるし」
桃子の向こうで湊斗が首を傾げる。
「ん? 真也のお父さんって今お母さんと一緒に海外にいるんだよね?」
大きくあくびを漏らしながら目尻の涙を拭う。
「ああ、仮眠だけでもと思って寝ようとしたら電話かかってきたんだ。何時だと思ってんだって聞いたら朝五時七分って日本時間を正確に即答しやがった。わかってかけてきてるんだ。それから向こうでの生活の愚痴なんかを聞いてたら家を出る時間になってた」
朝起きるためにかけていた二台の目覚まし時計が鳴り始めたのだ。なにが起きたのかわからなくてパニックになったもんである。
「まったく真也は本当に無茶するよね。小学校のとき、流星群撮るのに三徹して学校でぶっ倒れたあのころとなにも変わってない」
「それが俺のアイデンティティ」
いつもなら憎まれ口の一つでも叩いてやりたかったが、眠くてそれどころではなかった。
「大丈夫だ。今の俺にはモンスターがついている」
事前に買ってきていたエナジードリンクを鞄から取り出し、プルタブを押し上げて中身を一気に胃の中に流し込んでいく。誰もがハマる爽快感とパンチのあるテイストに化け物エナジーの世界を体感するぜ。
「こ、高校生が飲むものじゃないんじゃないかな……。本当に大丈夫?」
「ケセラセラ」
そんな馬鹿なやりとりをしていると、電車が緩やかな減速とともに停車した。
改札から出ると、リュックを背負った桃子が勢いよく外へと駆けていく。
「倉敷到着―!」
倉敷駅を出たところで、桃子が猫のようにぐうーっと体を伸ばしている。
岡山市の隣にある岡山県で二番目に大きな街、倉敷市に俺たち写真部の四人がやってきたのは六月に入ったばかりのこと。
歴史研究部なる部活から、写真撮影の依頼を受けたのが昨日金曜日のこと。珍しく仕事をしている赤磐先生をともない、歴史研究部部長が写真部の部室にやってきたのだ。新勢力である湊斗の紅茶と、もはや写真部名物とまで言われている桃子のきびだんご――本当に写真部かな――を提供しておもてなしをした。
依頼内容は、歴史研究部が発表会に用いる写真が今週末までにほしいとのこと。発表会は、本来なら他校が行う発表会だった。だが、季節外れのインフルエンザ流行により急遽参加が不可能に。そこで実績のある歴史研究部に白羽の矢が立ってしまい、急ぎ発表内容をまとめているとのことだった。
同情したくなるような話だが、中途半端なものは作りたくないと責任感の強い歴史研究部部長から。どうやら参加できなくなった高校の部活が知り合いらしい。必死に制作に取り組んでいたそうだが、どうしても写真撮影に手が回らないらしく、写真部に応援を要請してきた。
発表テーマは、『倉敷美観地区の町並み』。
倉敷美観地区とは、町並み保存地区に指定されている江戸時代初期の町並みを残す観光名所である。
元々瀬戸高を通して正式に受けた案件だ。交通費は高校が全額負担してくれる上、赤磐先生から個人的に昼食代として樋口さんを一枚いただいている。
というわけで写真部四名は、早朝から電車に乗って美観地区がある倉敷駅までやってきたのだ。
「真也は倉敷に来るの久しぶりなんじゃない?」
「ほとりの兄さんにつれてきてもらったのが最後だからな。ずいぶん前だ」
言いながら、俺は倉敷駅を見上げながらカメラを構えるほとりに目を向ける。
半袖薄手のブラウスにスカート姿のほとりは、撮影を終えた写真を見て小さく笑みをこぼす。
カメラのレンズが青空に浮かぶ太陽を受けて、きらりと光る。
「そういえば、真也君がカメラを始めたばかりのころ、お兄ちゃんと美観地区に来たことがあったね」
あの日からも、ほとりはいつも通り笑っている。
悩みなんて欠片もなさそうな笑顔で、楽しげにシャッターを切っている。
「あのときはまだカメラがまともに使えなくて、ずっとカメラと戦ってたけどな」
カメラがほしいと相談を持ちかけた俺に、両親は一眼レフカメラを買ってくれた。まったくといっていいほどやりたいことを示さない俺が、なにかに興味を持ったことがよほど嬉しかったらしい。ゲームすらほとんどしたことがなく、携帯電話やスマホなんて触ったことがない俺にとって、一眼レフなんてはっきり言って魔法の機械。まともに写真が撮れず、悔しい思いをしたことは今でもよく覚えている。
一眼レフカメラに搭載されている機能にはすごいものがある。ほとんどの設定を機械任せのオートで撮影しても、十分すぎるほど綺麗な写真を撮ることができる。十年近く前の製品とはいえ、ほとりの使う古い一眼レフもそれは同じだ。しかし技術は進歩しても、順光か逆光かサイド光か、被写体の距離はどうか、センサーの感度はどうかなどなど。フルオートでも綺麗な写真を撮ることができないことはよくある。
あまり写真を撮らない人の勘違いとしてよくあるのだが、写真とは基本的に加工や補正が加わっていない写真が一番いい、と思う人がいる。ありのままを写した写真こそが真実の写真ではないのか。そんなことを言う人もいる。だが、実際に人が目で見た風景とまったく同じように見える写真を撮ることは非常に難しい。
そもそも、見たものをそのまま写真に、という写真はほとんどあり得ない。フィルムカメラでもデジタルカメラでもそうだが、写真にする行程で機械的な作業が加わっている段間で、ありのままの写真ということには決してならない。
写真一枚撮るにも、多くの機械的設定や補正、加工が行われているのだ。
倉敷駅から倉敷美観地区がある南側に出ると二階のデッキから倉敷駅正面を見渡せる。
目を覚まし動き始めた休日の倉敷駅。自動車やバスはもう忙しなく動き回っている。東京のような都会に比べれば遙かに少ないが、それでも多く人が行き交っている。
俺は倉敷駅の町並みにカメラを向け、目を閉じ、カメラに任せてシャッターを切る。撮影された写真は、倉敷正面の道を中央に構えたはずなのに右にずれて、さらに少し斜めになっている。しかも逆光でそんな写真にするつもりないのに、全体的に暗い写真になっている。
写真を、撮ることはできる。だがファインダーを使わずに、写真として見ることができるレベルにすることは、少なくとも俺にはできない。人の目で見たものを写真にするだけでも、十分難しいのだ。
ほとりは、今まで何枚の写真を撮って、写真をあそこまでの状態にしてきたのだろう。カメラの向こうを見ることができない状態で、どれほどの写真を撮ってきたのだろう。
現在のほとりの写真は、過去ほとりが小学生のころに撮ってきた写真よりも、悪くなってる。
だがそれでも、写真としては成立しているのだ。たぶん普段写真を見慣れていない人からすれば、わからないくらいの違いだ。
撮影したばかりのよろしくない写真を削除しようとして、少しの逡巡のあと、やめた。カメラのモニターを見下ろしていると、ぽんと軽く背中を叩かれた。
「もう、なにぼうっとしているのかな」
いつの間にか傍らにやってきていたほとりが、少し困ったように眉根を寄せてこちらを見上げていた。
「私は大丈夫だから。写真は撮れるから、気にしないで」
二人には聞こえないように、声を小さくしてささやくように言う。
「今日は歴史研究部さんの依頼で来てるんだから、ちゃんとお仕事しないといけないよ」
胸の前で力強くカメラを握りながら笑うほとりに、俺も小さく笑みを作った。
「わかってますよ。部長さん」
なんにしてもまずは依頼である。俺は問題なく写真を撮ることができるし、ほとりもカメラの向こう側が見えずとも写真を撮ることができる。
目的地、町並み保存地区である倉敷美観地区は、倉敷駅から歩いて十五分ほどの距離にある。古い町並みの間を流れる清流、古く歴史を残した建物、古民家カフェやギャラリー、美術館など。趣ある光景が目の前に広がっていた。
早朝に足を運んだのは人混みを避けてのことだ。もうじき夏至を迎えるこの時期は太陽は朝早くから昇ってくれるし、むしろ気温が高くなる前でちょうどいい。
なにより日中は人が多く、町並みの撮影が困難になる。観光名所あるあるなのだが、町並みや名勝、芸術品などを撮りたくても、人があふれかえって満足に写真が撮れないことがよくある。
岡山県屈指の観光名所とはいえ、早朝ともなればまばらに観光客が行き交う程度だ。これから時間がたつにつれて、どんどん人は増えてくる。
人が増えてくる前に、撮るべき写真の撮影を終えておく必要がある。予備日として明日もあるが、今日の内に瀬戸高に戻り、写真の方向性や可否を尋ねる予定になっている。問題がないなら今日中に写真撮影を終えて、肩の荷を一つ下ろしてあげたいところだ。
発表テーマは『倉敷美観地区の町並み』。とにもかくにも、町並みの写真を大量に撮る必要がある。
「人が増えてくるまでが勝負かな」
「そうだな。とりあえずは十時くらいを目処に撮るとするか」
それ以降の人が増えてきた写真はまたその写真だ。人が写っていない写真と写っている写真、どちらもほしい。
桃子や湊斗には絵になりそうな場所を探してもらい、俺とほとりは写真撮影に注力した。事前に調べてきているとはいえ、それでも現地に行ってからの発見はやはり多い。どうしても人が入る場所は事情を話して、少しだけ離れてもらうようにお願いをした。こういうときは瀬戸高の制服を着ていると話がしやすくて簡単だった。
とはいえ、倉敷美観地区はそれほど広くはない。事前に調べてきているめぼしいスポットを巡って写真を撮るだけなら、十分時間内に終えることができるだろう。
江戸時代の面影を残す町並みや民家。昭和初期に開館した全国的にも有名な大原美術館。静かな風情ある水路を進んでいく舟流し。タイプスリップしたような感覚に陥る世界だ。
ここに最後に来たのはもう何年も前。その上、なにを見ればいいかもわからず青葉さんの後ろを金魚の糞のように歩いていただけだった。
だが高校生になり、数年もの歳月を超えて見る景色は新鮮だ。自分の目で、自分のカメラを通して見る景色は、あのころとはずいぶん変わっている。
「……ふぅ」
地面にほとんど伏せるようにして古き民家を撮影し終わり、のそのそと体を起こす。
「そういえば、いい写真ってどうやって撮るんすか?」
カメラを構える俺を後ろから眺めていた桃子が突然聞いてきた。
「なんだ、藪からきびだんごに」
「……どんな状況っすかそれ」
時間に限りもある。ある程度目星をつけていた場所の撮影は終わったので、今は俺と桃子、ほとりと湊斗のペアに別れて撮影を行っている。
桃子はまだ朝も早いこの時間にどこで買ってきたのか、串団子をむしゃむしゃと口に頬張っている。どうでもいいけどこいつ、本当にいつでもなんか食ってるな。
体を伸ばしながら服に付いた土埃を払い、撮影したばかりの写真を確認する。
「いい写真の定義は難しいけど、基本的に俺が撮ろうとしている写真は、普段目にすることがない景色を撮影するってことかな」
「目にすることがない景色……っすか?」
意味がよくわからなかったのか、桃子が団子の串と一緒に首を傾げる。
その背後から、首をつけた犬がトコトコと歩いてきた。小さな柴犬、豆柴だ。人慣れしているのか、俺たちの方に歩み寄ってくる。
俺は立ったままの姿勢で、歩いてくる豆柴を撮影する。そして続いて、今度は地面すれすれにカメラを構え、足下まで寄ってきた豆柴を撮影する。
「当たり前だけど、人は普通立つなり座るなりしてモノを見ている。そういった見慣れた光景をただ写真に撮っても、人の目を引きにくい」
言いながら、遠目に歩いてくる豆柴を撮った写真を見せる。写りは綺麗だが、やはり平坦だ。そして次の写真、カメラを興味深そうにのぞき込む豆柴が大写しになった写真を見せる。
「普段、こんな風に犬を見ることがないから、それだけでもインパクトのある写真になるだろ?」
「おお、たしかにこれは目を引くっすね」
豆柴は俺の足下まで歩いてくると、その小さな前足を上げて俺の足に肉球を押し当て始めた。首には青い首輪がつけられている。飼い犬のようだが、飼い主は見当たらない。
「一概にインパクトのある写真がいい写真ってわけでも、当然ない。基本的な構図。見せたい色使い。被写体の強調。いろんな方法で、写真の魅力を上げていく。いい写真を撮るためには、まず同じ視点に捕らわれず、様々な角度からモノを見るようにするってのが、俺のやり方かな」
もちろん、人それぞれ撮り方が違えば見せ方や好みも違ってくる。俺がいい出来だと思った写真だとしても、他の人にぼろくそに酷評されることだってある。万人に同一の評価を得るなんてあり得ない。それは写真だけでなく、ほとんどの芸術や創作においてもいえることだ。
「……てか、そのわんちゃんどうしたんすか?」
桃子が今更ながら聞いてくる。
「さあ、どっかから逃げてきたのかな。まあ俺よく動物には絡まれるから」
自分でも意味不明なことを言いながら肩をすくめる。
「でもまあ、写真に写したい人も景色も、なにを込めたいかも人それぞれだ。だから最終的にいい写真っていうのは、自分自身がどう思うかってことで……」
その言葉を最後まで続けることができず首から提げたカメラに落ちる。
いい写真かどうかは、結局当人がどう思うかにかかっていると思う。今あいつが撮っている写真は、あいつ自身がおかしいと感じている。けど、これからどうするかということをどのように考えているのだろうか。
カメラを見ながら閉口していると、下から桃子が目を細めながら見上げてきた。
「やっぱり、なんかあったっすね?」
「ん……? なんの話?」
首を傾げながら聞き返すと、桃子は腕を組んで風船のように口を膨らませる。
「ここ最近様子おかしいっすよ? ああ、しんやんは大体いつもおかしいんすけど」
おいこら。
「ほとりんとなんかあったんじゃないすか? 喧嘩ってわけでもなさそうっすから、写真絡みでなにか」
鋭い指摘に無意識に頬が引きつり、桃子は深々と息を吐きながらかぶりを振った。
「前にも増してカメラとか写真を見てぼうっとしたり、ほとりんのことを心配そうに眺めてみたり、いろいろしてたっすよ? みなとんも気づいてたんじゃないっすかね、たぶん」
事実湊斗にも言い当てられている。そんなにわかりやすく顔や行動に出ているだろうか。
無意識に、再びカメラに視線が降りてしまう。
「悪い、いろいろ心配かけると思う」
「思うって、わかってるならすぐにどうにかすればいいじゃないっすか」
「そんなにとっとと解決できるくらいなら、最初から悩んだりしてない」
先日湊斗とも似たようなやりとりをしている。
それでも、結局俺にはどうすればいいか、なにをするべきかがわからない。
構え構えと言わんばかりに俺の足に絡みついてくる豆柴。しゃがみこみ、持ち上げる頭を撫でる。
人通りが増えてきた倉敷美観地区の古い路地の向こう側で、ほとりが路地の壁を見上げるようにして写真を撮っていた。カメラを構えてからすぐにシャッターを切る。撮影した写真を確認し、湊斗が見つけたよさそうな場所へとすぐに移る。俺ならファインダー越しに画角を確かめながらじっくり写真を撮るが、ほとりはほとんど構えてすぐに写真を撮っている。今のほとりにとって、構えて構図を決めることができないため、すぐにシャッターを切っても同じことなのだろう。
桃子は最後の団子にかじりつき、もぐもぐとしたあと飲み込んだ。
「ま、頑張ってどうにかしてくださいっすよ。カメラマン二人がぎくしゃくしたままじゃ、写真部が立ち行かないっすよ。私も私で、やれることはやるっすから」
意味ありげに笑い、少し離れたところにあったゴミ箱目がけて空っぽになった串を投げる。串は放物線を描き見事ゴミ箱にドロップアウト。桃子がぐっと拳を握る。
「やれることって、なにをする気だよ」
「ふふーん、内緒っすよ」
桃子は得意げに笑いながら、ポケットから取り出したスマホで、俺になすがままになで回されている豆柴君を撮影する。ぴろりんと電信音が響いた。
「ふっ、データを整理した私に死角はないっすよ」
ようやくか。だいぶ時間かかりましたね。
桃子も桃子で、ほとりの影響か日常的にスマホで写真を撮っている。写真部の活動とは関係ないようであるが、そのあたりは普通の女子高校生らしい。
「なんでもいいっすけど、この子どこから来たんすかね? しんやんの動物フェロモンに当てられたっすか?」
「俺そんなフェロモン出してんの?」
俺は豆柴の体をひょいと持ち上げると、頭の上に乗せた。
「犬ヘヤー」
「あははは! なんすかそれ!」
桃子が腹を抱えて笑っている。
ダメだ。平静を装っても寝不足のせいで頭がかなりやられている。本当に自分でもなにやってるんだろうと思う。
遠くでこちらに気づいたほとりと湊斗も大爆笑している。
「そ、それ、その子どうしたのかな?」
駆け寄ってきたほとりが、俺の頭の上の豆柴を見上げながら必死に笑いを噛み殺している。豆柴は俺の頭の上で、借りてきた猫のように大人しく俺の髪の役割を果たしてくれている。
「わからん。なんか俺に絡んできた。首輪しているから飼い犬だとは思うんだけど」
てっきり頭にでも乗せていれば飼い主がすっ飛んでくるかと思ったのだが、変人の若者が馬鹿やってるくらいの視線しか送られてこない。
「そっちの写真の進捗はどうだ?」
話を振ると、ほとりが引きつった笑みを浮かべる。
「え? そ、その状態で話進めるのかな?」
だって、このままほっぽり出すのもかわいそうじゃないか。
そうこうしていると、人混みの向こうからぱたぱたと一人の女性がこちらに駆け寄ってきた。
「あわわわっ! ごめんなさいうちの子がご迷惑をおかけしてしまって……」
俺の頭に乗せている豆柴を見ながらぺこぺこと頭を下げる女性。年齢は二十代半ばほどだろうか。長い栗色の髪をうなじで縛った、おとなしそうな雰囲気の人だった。
「いえ、こちらこそすいません」
頭の上から豆柴を下ろして女性に返すと、豆柴は女性の腕の中でくるりと体を丸めた。
「ちょっと目を離した隙にリードの留め具が外れてしまったようで」
言いながら女性はパチンと手に持っていたリードを豆柴の首輪に取り付ける。
ほっと安堵の息をもらした女性のまぶたが、わずかに見開かれた。
「あれ? あなたたち、瀬戸高校の生徒さん?」
「はい、まあそうです」
俺が答えると、続いて女性の視線が俺たちが持っているカメラへと吸い込まれた。
「カメラを持っているってことは、もしかして瀬戸高の写真部? うそっ、活動再開したの?」
俺とほとりは顔を見合わせる。
「は、はい。今年から、私たちが休部だった写真部を再発足させました」
緊張しながらもほとりが説明すると、女性の目がほとりで止まった。途端に、子どものようにぱあっと表情を明るくした。
「そっかそっかぁ。写真部、また活動してるんだ……それに……」
疑問符を浮かべる俺たちに、嬉しそうに口を綻ばせる女性は苦笑しながら手を振った。
「ああ、ごめんなさい。私も瀬戸高の出身なの。そのときに、当時の写真部と関わりがあってね。休部したって話を聞いてたから、ちょっと残念だったんだ」
なんと、高校の先輩だった。しかも当時の写真部を知っているとのこと。
女性は豆柴を抱えたまま腕時計に目をやると、残念そうに眉を曲げた。
「ん、本当なら少しお話を聞いてみたいんだけど、ちょっとこのあと用事があって。また今度、瀬戸高の方にお邪魔させてもらってもいいかしら?」
「は、はいっ。いつでもお待ちしています」
ほとりが嬉しそうに快活に答える。
女性は微笑むと、ポケットからスマホを取り出した。
「ありがと。それと、せっかくだからこの子と写真をお願いしてもいいかな。今はスマホしかないからこれで」
差し出されたピンク色のカバーのスマホ。
ほとりが一瞬戸惑ったように体を強ばらせる。
女性がわずかに首を傾げたが、なにか言われる前に俺がスマホを受け取った。
「それでは、僕が撮らせていただきます」
「はい。よろしくお願いします」
女性は少し下がって豆柴を抱きかかえると、近くにあった清流にかかる橋をバックに立った。俺は姿勢を低くして、女性と豆柴、背景に橋とそのさらに後ろにあった美術館を入れてシャッターを切る。ピロリンと電子音が鳴って、写真が撮影される。
「すいません、もしよろしければ、僕のカメラでも撮らせてもらってもいいですか?」
スマホを手に持ったまま、自分の一眼レフを持ち上げながら尋ねると、女性は吹き出すように口を押さえた。
「え、ええっ。いいわよいいわよ。撮っちゃって撮っちゃって」
写真馬鹿であることが露呈して少し恥ずかしくなるが、今更そんなことは気にしない。人の写真を撮る機会が少ないからこそ、こういった機会は大事にしなければならないのだ。先ほどの同じ位置にカメラを構えて、いつものように写真撮影のお礼と記念に、シャッターを切る。
「ありがとうございます」
「こちらこそありがとう」
俺からスマホを受け取ると、女性は撮影された写真を見て笑みを漏らした。
「それじゃ、あんまり活動の邪魔をしてもいけないから、私は行くね。また、写真部にお邪魔させてもらうからよろしく」
「お、お待ちしています」
ぺこりと頭を下げるほとりに、女性は軽く手を振り、豆柴はわんと一声吠えていた。
女性は足早に来た道を引き返していった。
「昔写真部に依頼をした人とかかな」
「偶然ってあるもんっすね」
たしかに、おもしろい出会いもあるものだ。
撮影した写真には、瀬戸高OGの女性と頭の一部を共有した豆柴が微笑ましく写っている。
「昔の写真部を知っている人かぁ……。もしかして、お兄ちゃんがいたころの人かな」
ほとりの呟きに、俺はもう一度女性の写真に視線を落とす。言われてみれば、青葉さんの年齢は俺たちより十歳上だ。あの女性もだいたい同じくらいの年齢のように思えた。
「もしかしたら昔の部日誌引っ張り出せば、あの人の写真もあるかもな。歴史研究部の依頼が落ち着いたら部日誌をゆっくり見てみるか」
部室の整理自体は終わっているのだが、部日誌に関しては年代順に並べているだけで実際中身までは熟読できていない。だいたい部日誌を作られ始めたのがここ数年くらいのことらしいのだが、それでも本当に数年分かと疑わしくなるほどの量なのだ。
世界は、広いがつながっている。思いもしないところでばったり知り合いや縁ある人に出くわすこともよくあることだ。こういうとき、世界の狭さを実感する。
「さて、人が増えてきたけど、もうしばらく写真撮影したらお昼にするか」
「そうだね。写真はずいぶん撮れてるけど、念のためもう少し撮って……」
言いかけていたほとりの言葉が途切れる。
視線の先には、人だかりができていた。多くの観光客に入り交じり、晴れやかな色が視界に飛び込んできた。
「わぁ……」
ほとりが口に手を当てて声を漏らす。
そこにいたのは、多くの人を虜にするきらびやかな浴衣を纏った女性だった。赤を基調とした浴衣をきらきらとした黄色い帯で纏った女性は、古民家を背に、古風な番傘を手に穏やかな笑みを浮かべている。
なにかの撮影中なのか、一眼レフの中でも特に大きなカメラを持ったプロカメラマンらしき人が、浴衣女性の撮影を行っている。
「綺麗……」
「本当っすね……」
女子二人が目を輝かせながらうっとりとしており、湊斗も同様に驚いているようだった。
「たしかに美人さんだね」
整った顔立ちにすらりとした体つき。一切の乱れを感じさせない長く黒い髪。和服をまとうために存在するかのような女性で、通り過ぎる人たちも足を止めて見入っている。
見ているだけで吸い込まれそうな、足を止めずにはいられないような、そんな感覚に陥る。
しかし、プロカメラマンがいるような状況で無許可撮影は厳禁だ。金銭や報酬のやりとりが発生する仕事に下手に関わると、無用なトラブルを招く危険があるし、なにより失礼だ。ただ観光地の往来で撮影している以上、目で見るくらいは許されるだろうと人の流れに沿って少し近くまでいって見学する。プロカメラマンの仕事というものに興味もあった。
「……あら」
浴衣女性とプロカメラマンさんとを目で行ったり来たりしていると、こちらを向いた浴衣女性と視線がぶつかった。見ていることが気に障ったのかと、ぎくりと心臓が跳ねる。
だが、なにか違和感を覚えて首を傾げる。
相手の浴衣女性も、わずかに眉を上げた。
「初瀬さんに日宮君じゃないですか」
「「え……」」
呆けるほとりと俺。
相手が誰だかわからず顔を見合わせ、首を振る。俺にはこんな和装美女の知り合いなんていない。ほとりの様子を見る限り、ほとりも覚えがないようだった。
浴衣女性が口に手を当ててくすりと笑う。
「ああ、ごめんなさい。こんな格好じゃわかりませんよね。早乙女ですよ」
さお……とめ……?
「「え、えええええええええ!」」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます