十一通目の手紙
今閃いた計画をゴーストライターに伝えようとしたその時だった。不意に誰かに肩を叩かれた。振り向くとそこにいたのは、真っ赤な髪をした、七つの名前を持つ女だ。
「一体何の騒ぎ?」
「いなくなったはずの人が戻って来たんです。それで、せっかくの僕たちの台本が無に帰そうとしていたところで、どうしてやろうかと画策していたんです。……えーっと」そこで僕は、今日が何曜日かと思い返す。木曜日だ。「……ユリさん」
彼女はにこりと微笑んだ。どうやら正解のようである。
「ようやく覚えてくれたのね、嬉しいわ」
「はあ……まあそうですね。でも、何でそんなに面倒臭いことを?」
「それはねぇ……言えないことがあるからよ」
やはり、何にでもドラマを見つける僕の鼻が嗅ぎつけたサスペンスの匂いは、間違ってはいなかったのか。そして、優秀な僕の鼻は、更なるサスペンスを嗅ぎつけた。思わぬ人物の帰還に盛り上がっている人の輪の中心に据えられた彼女目に、その髪の色と同じような、怒りや苛立ちの炎が一瞬だけ燃え立ったのを、見逃さなかった。
「……戻って来たって、そういうこと。それにしたって、一体どの面下げて戻って来られるのよ」
「そりゃあ、あんな面でしょう……」彼は、やはりまだへらへらと、軽薄なうすら笑いを浮かべていた。彼女の苛立ちはさらに募っていくように見えた。「でも……僕と違って、劇団としては戻って来てくれた方が好都合なんじゃないですか。なんか歓迎ムードですよ」
「……そうとも言い切れないわね、残念ながら」
意味ありげな言葉。やがて、彼女はあからさまな怒りの色を鎮めてから、何食わぬ顔で輪の中に混ざりに行った。僕はやはり、そこにサスペンスというドラマの破片を見つけてしまうのだった。
好奇心がうっかり別の方向へ向きかけた時に、ゴーストライターが、ぼそぼそと聞き逃しそうな声で、話の筋道を戻してきた。
「それで、作家の意地を見せるって、どういうことですか」
「ああ……それはですね……」
今度こそ、僕の頭脳に閃いた名案を離そうとしたのだが、そこでまた、舞い戻ってきた渦中の男が賑わう人に囲まれながら、嬉々として喋る声に邪魔をされた。
「実は、ここに戻ってきた理由はもう一つあったんだ。舞台演出の経験がある人間を引き抜いてきた!」
「おおっ、逆に引き抜いてきたのか!」
劇団員の一人が、目を輝かせて言った。期待のどよめきが起こる。
「そう、むしろ引き抜いてきた。ミイラ取りがミイラになったというわけだ」
自慢気に彼は言うが、それは使い方が間違っているだろうと、この時は思ったものである。いやしかし、後になって思い返すと、実に意味真である。単に間違ったわけじゃないのか、それとも……。その真偽については、この先を読んでいただいた皆さんの判断にお任せするとしよう。僕には何とも言えない。
「さあさあ、こちらへどうぞ」
彼はやはりヘラヘラと笑いながら、一人の男を招き入れた。目深にかぶった中折れ帽、サングラスに襟を立てたトレンチコート。顔は隠れてわからない上に、背恰好は中肉中背で、大きな特徴が無く判別がつきにくい。もしこんな格好の人物が舞台の上に現れたとしたら、観客はこう思うに違いない。
こんなあからさまに怪しい奴を出してくるとは、こいつはどうやら、ひと悶着ありそうだ。
そういった、わかりやすい怪しさの記号のような格好をして、自ら不信の看板を掲げているようでもある。突然に去った男が、怪しげな男を連れて突然に戻って来る。ここまでサスペンスの匂いをほのめかされて、怪しまぬ者がいるだろうか。
いや、いた。この劇団の大方の連中は、どいつもこいつも諸手を挙げて喜ぶばかりである。楽天的であるにも程があるだろう。
それでは、せめて僕だけでも、しばし探偵のふりをしてみようではないか。
やたらと物々しく、ゆったりした動きで一歩一歩を重々しく踏みしめながら歩く。貫録を漂わせているからには、それなりの歳であろう。少なくとも四十は超えているはずだ。でも、それなりの若々しい覇気のようなものも感じられ、六十はいっていないはずである。
「どうも、皆さん、はじめまして」やがて、彼は重々しく口を開いた。「……いやあ、ここはあまりにも……個性的で……ちょっと驚きましたが、なに、慣れればなんてことない。むしろ素敵ですね……いやぁ、実に素晴らしいですよ」
それ以後暫く、ロビーをぐるりと何度も回りながら、素敵、素晴らしい、その言葉を何度となく繰り返して言った。そして、劇団員一人一人と握手を交わしながら、やはり、素敵、素晴らしい、その二つの言葉を繰り返す。何がどう素敵で素晴らしいのか、それは言わないのだ。何とも筆舌に尽くし難い空間であるのはわかるが、あまり芸術的な知性を感じられない。その点も、怪しさを匂わせているではないか。
本当に舞台演出の経験があるのだろうか。
だが、サスペンスドラマの尻尾の探索の前に、もっと関心を向けるべき事実があることに僕は気がついた。
「あれ……ということは、演出家もいなくなってたんですか?」
「いなくなった……っていうか、最初からいないよ」
そんなのは常識である、何故今更言うか。語尾にそういった言葉を付け足さんばかりの口調で、アヒルは言った。自分の方がおかしいのかと、思わず疑いたくなるが、そこは意思を強く持つべきだ。アイデンティティの崩壊を招きたくないのならば。
「じゃあ……どうやって舞台での魅せ方をまとめていたんですか」
「なんとなくだよ。誰ともなく、なんとなく決めていた!」
「そんなに堂々と胸を張って言うことじゃないだろう」このまとまりの薄さを、無計画さを、もっと察するべきであった。「最早、劇団だなんて言ってはいけないような気がしてきたぞ……」
僕の独り言の呟きに、アヒルはむっとして口を尖らせて抗議をした。
「元々、始まりは劇団じゃなかったんだから、誰も何の知識もないし、それがここの当たり前なんだよ」
「はあ……じゃあ元々は何だったんですか」
「大道芸だ!」
アヒルはブタと、双子のトゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーのように、がっちりと肩を組んで、昔話を語り始めた。
「俺はさぼり気味だったために仕事をほっぽり出され、こいつはあまりに神経質で口うるさかったために耐えかねた女房にほっぽり出され、行くあてもなかった。こいつが家の玄関口でどうしたものかと立ち往生しているところに俺が偶然通りかかって、それならばと、仕方なく二人で道端で大道芸をやって、その日暮らしをしてたんだ」
陽気さと哀愁の入り混じったアコーディオンの調べをアヒルが奏で、それに合わせて数々の曲芸を披露するブタ。それを横目では見るが、足を止める人は滅多にいない。そんな光景が目に浮かんだ。学校帰りの子供ぐらいは、面白がって見てくれはしただろうが、子供たちにとっても彼らは風に吹かれてかさかさと震える、くしゃくしゃになった新聞紙のようなもで、相手にされることはほとんどない。
不本意ではあるが、涙を誘われるではないか。
「そしたら、似たような境遇の奴らが、一人、また一人とくっついてきて、気がついたら道端でやるのは少々手狭になってたし……それに、警察の目も気になりだした」
そりゃあそうだろう、こんな無計画な連中が許可を取ってやってるはずがない上に、人数が増えれば目立ちすぎる。そこまで出かかっていた僕の涙は途端に引っ込んでしまった。
だが、ブタはアヒルの言葉を引き継いで、やはり自慢気に言うのだ。
「懐かしいなぁ……俺たちが見せる芸よりも、警察官が俺達を追い回している方が、道行く人の目を引き、盛り上がったものだ」
「はあ……」
「あれは、警察官の方もちょっと調子に乗って、面白がっている節もあった」
さあ、皆さん、だんだんと話が胡散臭くなってきたので、右から左に聞き流すのがよろしかろう。僕などは、欠伸をしながら聞いていたものである。
「ああ、そうだな、終いにはヒーロー気取りになっていたよな。自分も見世物の一つになった気でいて、本気で俺達を捕まえる気はさらさらなかった」
「ああ、そうだな、本気になれば、俺達を捕まえることなんて、朝飯前だったはずなのになぁ。捕まえちゃいけないんだ。そして、あいつは確実にそんな構図に酔っていた……」
「ああ、そうだな、そうじゃなきゃ、今ここにいるはずないよ」
話半分に聞いていたものの、さすがに僕は耳を疑った。
「……え、その警官は仲間になったんですか」
「そうだよ、ほら、あそこにいる……」アヒルが指示した先には、壊れかけたソファーに座って姿勢をぴしりと正し、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を無表情で読んでいる男がいた。一番上のボタンまでしっかりとめて、襟が詰まったシャツが見ていて息苦しい。髪の毛にしても、ぴしりと分け目に乱れを許さず七対三に分けられており、もし一本でも背いたものがあれば、容赦なく罰せられる(どんな手段を使ってでも押さえつけられ、正しい位置に据えられるのだろう、それでもなお従わぬ場合は、抜かれてしまうのだ!)のではないかと、やはり息苦しい。「劇団という形になったのも、あいつが言いだしたことなんだよ。この捕りものの茶番劇を本当に芝居にしてみたらどうか、と。それで、適当な路地裏の適当な広場に場所を移して、適当に演劇などやってみたところ、そこそこ好評を得たので、劇団を旗揚げしたというわけだ。その方が一応の形もあって、格好がつく。でも、あいつも元警察官という面目があるからな、あまり目立ちすぎてもいけないということで、適当な頃合いになると、適当に場所を変えるようにしてきて、今はこんな辺鄙なところにいるというわけだ」
ブタは感慨深そうに言ったが、宿の主人に睨まれていることに気がついていない。それはともかく、この劇団の影の支配者ともいえる人物は、規律という規律、全てを重んじるような雰囲気の、随分と堅苦しそうな人間であったとは意外である。
「な……なるほど」
それでも、やはりこの劇団がルーズであることには違いない。彼はきっと、規律はあくまでも自分を律するものであり、それを他人にまで強要する気は無い、やはり個人主義の人間なのだろうか。そうでなければ、全てはただの見せかけで、堅苦しく見える自分に酔っいてるだけであるのか(その場合、実際には読まれていないであろうニーチェの本が泣いていないことを祈るばかりである)。どちらでもいいが、そういうことにして、納得しておこう。
「特に何のルールを決めているわけじゃないから、出入りは好き勝手。だから、すぐにいなくなっちまう奴もいたけど、代わりに本当に演劇の経験のある人間も多少は入ってきて、それなりに形になってきたってわけだ」
「形になったと……言えるのでしょうか」
「言おうと思えばいえるし、そうでないと言えばそうでない。そうだと言われれば頷くし、そうじゃないと言われても頷く」
「言葉遊びをしているんじゃないんですけど」
「だったら聞かないでくれよ。君はいちいちシマウマの縞の数にまで、何本でなくてはならない、という正論を求めるっていうのか。便宜上のことはどうでもいいんだ!」
「はあ………」
よくはわからないが、きっとシマウマの縞の数も、遺伝の問題できっちり決まっているのではないか。パンダの黒い模様が決まったところに無いと、それはパンダとは呼び難い、いや、そんなパンダはいないのと同じである。そう言い返そうとしたが、しかし、話がおかしな方向にずれてしまうだろう。シマウマの縞の数など、五十本であろうと百本であろうと、どうでもいいのだ。それに、筋の通った理由や理屈を求めるだけ無駄であると、こうも真っ向から主張されては、僕ももう反撃をする気力が殺がれてしまった。
「まあ……とにかく、ここの理屈ではこれで一応形になるの。四角四面のものだけが正しく美しいわけじゃないのよ。特に芸術なんてそんなものよ」
いつの間にか現れた女王陛下が、僕がそう勝手に呼んでいるにふさわしい実に尊大な態度と口調で、横から口を挟んできた。
「それは、芸術という言葉を上手い隠れ蓑にした詭弁じゃないか」
「やっぱりあなた、つまらない人ね。私、弁論大会は嫌いなのよ。水かけ論を永遠に繰り返しているだけのようで、時間の無駄じゃない。……とにかくいいから、今は黙って見てなさいよ」
ぴしりと、有無を言わさず沙汰を下す、この奇妙な王国の女王は独裁者であった。僕は孤立無援であるのか。そう思っていると、不意に援護の声が紛れ込んできた。赤い髪の、名前を七つも持つ魔女のような女、今日の名前で言うならユリである。彼女は、一歩下がったところから冷ややかに一同を見渡して、こう言った。
「この状況、なんだか都合が良すぎる気もするけど……」
「ご都合主義、結構じゃない!」
女王陛下は、例のケラケラと人をからかうような笑い声を立てた。その笑い声は、確実にユリを苛立たせたようであるが、冷ややかな皮肉を投げつけることで、怒りの炎をなんとか押さえつけたようである。
「案外とめでたい頭をしているのね」
「悲観的になりたくないから、頭の中は常春であるようにしているの」
「そうでしょうね」
放たれた皮肉。あわや、火花が散ったかと思われた。だが、それ以上は互いに何も言うことなく、線香花火のように静かに落ちて消えただけであった。僕が密かに胸をなでおろしていたことを、悟られていないといいのだが。いくらなんでも、こういった問題に僕は首を突っ込むべきではない、絶対に。
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