第三章
十通目の手紙
修正した台本を書きあげた僕は、ようやく扉を開けて部屋を出た。そこには、薄暗くて汚れた、開放感など微塵も感じられない陰気で狭い廊下があるばかりだが、不思議と重圧はどこかへ消えて、すっきりとした気分になった。しかし、そう思ってしまうことが、僕の感覚は正常ではなくなってしまっているということではないか。
薄暗がりの廊下の先に、ぼんやりと浮かぶ白い影が見えた。僕はついに幻覚まで見るようになってしまったのかと、目をこすって確かめても、まだ消えない。その影が徐々にこちらに近づいてくると、ゴーストライターだとわかった。彼女は、前に会った時以上によれよれになり、さらに顔色が悪くなっていたように見えた。そう言う僕だって、随分酷いなりをしていたのだろうけれど。
「おや、これはこれは。もしかして、あなたもできあがったのですか」
彼女が抱えていた原稿用紙の束を見て、僕はそう言った。
「あなたも、ということは、あなたも?」
「ええ……まあ」
なんとも、奇遇じゃないか。二人とも同じタイミングで仕上がるとは。しかし、ゴーストライターは、ますますゴーストらしくなり、そこで友好的に握手を交わすどころか、僕の足を引きずろうとするのだ。それがゴーストというものだ。
「それがただの落書きで、オリジナルを台無しにしていないといいですけど………」
決め台詞のつもりであったろうが、ゴーストライターは一つ大きなくしゃみをして、どうにも格好をつけそこなってしまった。それから、彼女はもう一度くしゃみをする。
「風邪ですか?」疲労からくる苛立ちもあったのだろうが、憎き敵には、愛想を振りまく必要もなしとばかりに、彼女は僕を睨みつけるだけで、何も言わなかった。それとも、言葉を無駄遣いしないように、出し惜しみをしているとでも言うのか。でも、僕は惜しまない。爽やかな微笑みも付けようではないか。「お大事に。でも、今日は木曜日じゃないですか」
「ええ……そうですね」
「なら、そう心配することばかりでもない。木曜日のくしゃみはいいことある、ってね」
「じゃあ、この勝負、私が勝つということですね」
揚げ足を取ったつもりで、ゴーストライターは得意気に、にたりと笑ってみせたが(わかるかい、そりゃあもちろん、ぞっとするようなゴーストの笑みだ)、僕はそれに動揺も苛立ちも見せず、冷静にこう返した。
「いいえ。ただ、あなたにはもっと他に似合いの場所があるでしょうと言っているだけです。どうしてもここじゃなきゃいけないということは無いはずだ」
「あなただって、そうでしょう」
「いや、僕は………」
そこで、急にロビーが騒がしくなったので、僕らは同時にそちらを振り返った。何やら、言い争っている怒鳴り声が、この廊下中にも響き渡っている。これでも、それなりの野次馬心を持ち合わせているのは、ゴーストライターも同じらしい。僕がその騒ぎに釣られてロビーへ向かうと、のろのろと彼女も後から着いてきた。この騒ぎを聞きつけて、アヒルもガーガーと騒ぎながら、僕らより少し遅れてロビーに姿を見せる。
そこで繰り広げられていたのは、何とも奇妙な光景であった。いや、元よりここには、奇妙な光景しかないのだが、それにしても、その状況を見ただけで把握するのは困難である。
いつもここで絵を描いている男と、宿の主人がカウンターを挟んで睨み合っていた。この宿には商売っ気というものがまったく感じられないのだから、客とこうして真っ向から対立することがあったとしても、おかしなことではない。そこまではいいだろう。だが、相対する男はどういうわけか、全身ずぶ濡れだった。まるで、そこだけ大雨が降った後であるかのように、髪から、袖口から、ぽたぽたと雫が落ちて、水たまりが出来上がっていた。
ちなみに、窓の外は、木々に立ちふさがれてはっきりと言いきることは出来ないが、葉の隙間から覗く光によると、恐らくは快晴のはずである。
「これはこれは、今日はまた一段と男前だねぇ」
ぽたぽたと、シャツの袖から雫を床に落としているブタの姿を見たアヒルが、にやにやと笑いながら、からかうように言った。この有様なので、男はもともと不愉快そうな顔をしていたけれど、更にその色を強める(ちなみに、ブウブウと不平を言う様子が、まるでブタの鳴き声のようだったので、仮に彼のことをブタと呼ぶことにしよう)。
「水がまったく出ないと思って、一生懸命水道の蛇口を捻ってたら、今度は勢いよく噴き出してきてこの始末だよ。勢いがあまりにも良すぎて、蛇口が壊れるわ、水は止まらなくて溢れるわで、大変だったよ。おかしいな、本当に昨日の夜はなんともなかったのに……」
ブツブツと、不満を呟きつつ、彼は再び宿の主人の方を振り向いた。そして、ぺしょぺしょと、妙な足音を立てて、彼はさらに二歩、宿の主人へと詰め寄る。歩いた後には、足跡のしみ(それは、ブタのひづめじゃなかったことだけは、ちゃんと言っておこう)が、くっきりと残って、彼の不満をさらに強調していた。
「い……いっそのこと、この建物自体を改築したらいいんじゃないか。相当ガタが来てるしさ」
「馬鹿言うな、それなら、とっくにお前らが自分でしただろうが。これ以上望むなら、余所へ行け。どこへ行ってもここよりは快適だろうよ。まともな人間にとってはな」
「違うよ、俺たちがしたのは、改築じゃなくて改装だ!」
「揚げ足取りがお上手なことで」
「俺はもともとこんな陰気臭い場所反対してたんだ。だから、あそこまで頑張って改装したけど……それと中身のあちこちのボロっちさはまた別の話だ。我慢ならん!」
なるほど、それであの異様な陽気さを放った外装になったというわけか。この状況もようやく把握できたが、もう一つ意外な謎が解けた。
あまり趣味がいいとは思わないけど。
僕の隣で、ゴーストライターがぼそりとそう呟いたのが聞こえた。そうだろう、彼女には、元の陰気臭い雰囲気の方がお似合いだ。ただの独り言のつもりだったのだろうが、しっかりブタの耳には届いてしまっていて、睨まれることになる。しかし、睨みかえすゴーストライターの眼力は、さらにその上を行っていた。やはり、彼女は絶対に引っ込み思案な人間などではないだろう。
不意に、この険悪な空気に似合わぬ華やかな笑い声が紛れ込んできた。女王陛下が、いつの間にやら僕らが作っていた輪の中に混じっていたのだ。いつも、どこからともなく紛れ込み、どこへともなく消える、心臓に良くない人である。
「いつの間に……」
「今さっきよ。でも大体の話はわかったわ」彼女は、ぴたりとブタを指差して言った。「寝言は寝て言いなさいよ。綺麗なところにいたって、落ち着きゃしないでしょう。周りをよく見てみなさいよ。ここにいる人はね、皆このボロを纏った乱雑さが一番居心地が良いのよ。あなただってそうでしょう。自覚がないなら、一度どこへなりとも行ってみるといいわよ。きっとすぐに戻って来ることになるから」彼女はゆっくりとその両目を動かして、アヒルの方へと向けた。「ねえ、そう思わない?……私達はあちこち旅をしてきたけど、ここほど快適なところは他に無かったわよ」
「まあ……そうだなぁ、ここまで好き勝手させてくれる所はそうそうない」
認めなければならないことが悔しそうに、アヒルは、口の中でぼそぼそとそう言った。宿の主人は満足そうである。
「そうそうない、どころかどこにも無いよ」
「でも、改築をそこまで嫌がる理由もよくわからないんですけど」
僕が遠慮気味に口を挟むと、豪快に笑い飛ばした。
「そりゃ、俺だってまともじゃないからだよ。………まあ、それは冗談だが、俺はな、こいつはそのまま、あるままにしておきたいんだよ。人間と同じように、いつか自然に朽ちるなら、それでいい」
「でも、改装は許したんですよね」
「それはあれだよ、人間だって髪染めたり、着飾ったりするだろう」
「はあ……そういうものですか」
「それに、壊れかかってるような、おあつらえ向きの奴らが来たもんだから、好きにさせてやっただけだ」
ふんっ、と鼻を鳴らして、投げやりに言ったものの、それが却って女王陛下を喜ばせることになってしまった。笑い声が、またころころとあちらこちらへ転がって行く。
「だから、ここ以上の場所は無いわよ」ふと、彼女はそこで言葉を切った彼女の眼は、ある一点で止まり、興味深そうな色が走った。「……ほらね、言った通り一度出て行った人も戻って来る」
一同は彼女の視線の先を追って、入口の方を一斉に振り向いた。そこには、僕は見たことのない男が一人立っていた。均整のとれた目鼻立ちと、すっきりした体躯に長い手足。なかなかの色男である。だが、我々の視線に気づくと、へらへらと笑いながらこちらへやってくるその姿に、締りの無さを感じるのが、やや残念なところである。
やあ、どうもどうも、と、偶然に道端で出会ったかのような気軽さで挨拶をするが、一同の反応は冷ややかなものである。歓迎はされていないのは明らかなのに、それでも、彼はまったくめげた様子を見せず、相変わらずへらへらと笑っている。
「お前……何しに来たんだよ」
口を尖らせたアヒルに、そっけなくそう言われても、やはり彼は懲りずに笑っていた。ふてぶてしいとさえ言っていいほどの神経の太さが、なかなか僕は気に入った。何者かはわからないが。
「何でって、そりゃあ……戻って来たんだよ」
「戻って来たって……どうして?」
「こっちの方が俺には合ってるとわかったからに決まっているだろう。やっぱりさ、自分に合った場所ってのがあるんだよな」
「そうでしょ!」
そう言った後に、意味ありげに女王陛下はブタの方をちらりと見た。彼は、やはりブタの鳴き声によく似た唸り声を上げる。
けれども、それを遮るように男は上機嫌に頷きながら言った。
「そうなんだ、どうも落ち着かなくてなぁ」
「そうでしょ!」
彼女は、何故か嬉しそうに、今度は宿の主人を見た。宿の主人も、その笑みに応えて誇らしげに頷いた。それをきっかけに、空気が徐々に和らいでいったが、ゴーストライターはそれを許さなかった。
「……どういうつもり、ふざけた男だと思ってたけど、本当にふざけてるにも程がある」
ぼそぼそと、聞こえるか聞こえないかの音量でそう言ったのだが、それが却ってゴーストらしく、不気味に人の注意を引くのだ。
「あっ、君は……」ゴーストライターの姿を見て、男はぎくりと身を硬くした。「どうしてこんなところにいるんだ」
ゴーストライターは、睨みつけるばかりで、返事をしない。それで僕にはピンときた。なるほど、この男が例の、表向きは元脚本家だった男、というわけか。しかし、彼女が彼に対して恨みを抱くのはやはりフェアではないし、ある意味においては自業自得な部分もあるのだから、逆恨みとも言えなくはないだろう。
一方で、ここの連中のほとんどの人間の思考は、実に柔軟にできている(とても綺麗な言い方をするならば、だが)。全てのことは、喉元過ぎれば取るに足らない瑣末な問題でしかなくなるのだ。彼のおかげで上を下への大騒ぎになったことなど、もうどうでもいいのだ。今が良ければそれで良し。劇団の本当のモットーはこれであろう。
この劇団は、実におおらかで懐が広いとも言えるし、いい加減であるとも言えるけれども。
だから、最初は納得しきれない部分もあったようであるが、数分もすると、アヒルはあっけらかんとして、こう言ったのだ。
「まあ……もう何でもいいや、この際。これで脚本の直しも必要無くなったわけだし」
「はい?」
僕とゴーストライターは、同時に声を上げてしまった。そんな僕らの声を綺麗に無視して、さっきまでの冷ややかな空気は一転して、暖かな歓迎ムードに完全に取って代わられて、一同は彼を取り囲んでいた。
「よし、これで問題は解決!」
「いやでもね、この人のこともあるしねぇ」
彼は相変わらずへらへらと笑いながら、ゴーストライターの方を向いた。ゴーストライターは、ぐっと青白い拳に力を込めて、何かを言おうとしていたが、上手い言葉が思いつかないらしい。やはり、歯ぎしりをしながら、ただひたすら彼を睨むばかりである。
僕とて、このどんでん返しに黙ってはいられず、彼女の代わりにこう言った。
「……僕たちも問題を解決するべく……脚本の書き直しを終えましてですね……」
動揺のあまり、しどろもどろにではあったが。しかし、またしても、アヒルはあっけらかんと答えるのだ。
「だって、もう役者は揃ったわけだろ、今まで通りでいいじゃないか。その方が、下手に揉めなくていいしね」
「え……それじゃあ、この劇団の脚本家は……どうなるんですか」
「別に二人……三人…いたっていいし、どっちでも、どれでも、誰でも、とにかく書いてくれればいいよ」
「はい?」
「気にしない、気にしない。大は小を兼ねる。誰もいなきゃ困るけど、沢山いるのは困らない!」
「いや、あの……」
それで完結できるほど、僕は楽観主義者ではない。もちろん、ゴーストライターとてそうであるのは、言うまでもない。臨機応変。適当さをそう呼べば美しく聞こえるならば、なんと便利な言葉であろうか。
「さあて、準備に取り掛かるか、もう時間も無いしな」
何事も無かったかのように、一同は実に晴れやかに前を向いていた。むしろ、これまでに微塵も見られることなかった一体感さえ生まれているとさえ言えよう。それとも、僕がここへ来る前は、こうだったのだろうか。変わってしまったものが、全て元に戻った、そういうことなのか。
「一体、何だったんだ……これまでのごたごたは」
「そんなものよね……」
憎々しげに諦めの言葉を落として、ゴーストライターは、ただでさえも青い顔を、より一層青くして、信じられない速さでロビーから走り去って行った。そうしてまた、彼女も元に戻り、部屋から出られない生活になるのだろうか。そこまでは、僕の預かり知るところではない。こうなれば、彼女に手を貸す理由は何も無い。
「ちょっと待って」
それなのに、僕は彼女を呼び止めていた。なんで、こんな余計なお世話をしてしまったのだろうかと、自分でもわからない。引っ込んでいてくれるなら、それがいいのに。
でも、僕の口はまるで誰かに喋らされているように勝手に動いていく。
「本当にいいのか、このままで。また……そうやって隠れたままでいるしかなくなって」
彼女は足を止めたが、振り返りはしない。
「しょうがないでしょう。この劇団にとって脚本なんて本当はどうでもいいんだし。前にも言ったでしょう。どうせセリフの一つも書いたままに言ってもらえないのよ」
本当にそれは、神様のいたずらのように降ってきた、衝動的な閃きだった。そう、それは復讐の神ネメシスの囁きだったのかもしれない。
昨日の敵は、今は同じ辛酸を舐めさせられた同士だ。
「だったら、どうです……逆襲をしてみませんか」
「……え?」
そこで振り返った彼女に、僕は笑みを見せる。そう、小さいイタチが得意な、あの悪戯をする時に見せるのとそっくりな笑み。そうだ、だって僕らは親せきで親友なのだから。
「僕ら作家の意地を見せてやるんです」
「意地……ですか」
「そうです。そこで、提案なんですが……」
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