九通目の手紙

 さて、こうして派手に幕を開けた僕とゴーストライターの勝負は、実際はとても地味なものであった。それもそうであろう、ただひたすら、お互いに自分の部屋の机の上で、ペンを走らせるのみであるのだから。


 あれからどれくらい経ったのか、少しばかりじっくり考えてみないと、よくわからない。何度昼と夜が巡ってきたか、指折り数えてみる。恐らくは、昼が二回に夜が一回だ。そして今は、夕刻。しかし、あまり自信がない。それくらい、僕の中の時間の流れは大変いい加減なものになっていた。今に始まったことではないが。


 相手は一体、どれくらい進んでいるのだろうか、ふと、それが気になりだし、少しは他の物に気を配ってみる気になった頃に、タイミング良くドアをノックする音がした。恐らく今の僕は、人に会って歓迎されるような出で立ちではないとは思うのだが、話し相手が現れたというのは、こちらにとってはありがたいことである。


 扉を開けると、そこにいたのは、今の僕の姿とは全く逆の、どこもかしこもアイロンをかけた様にぴしりとした、この間ゴーストライターに鏡を貸した女であった。意外な人物の訪問に驚いて、ますます情けない有様の僕を見て、彼女は遠慮なく笑い出した。


「あらあら、ますます快調のご様子で」


「これはどうも。見かけよりもしぶといから」


「そう、精々頑張って。……これ……ロビーで、小さい男の子から預かったから、持ってきたんだけど……」


 あて先も宛名も、そして差出人すらも書かれていない封筒を、女王様のような調子で彼女は渡してきた。僕はわざと、それに対する当てつけのような返事をする。


「それは、どうもわざわざご足労願いまして、誠に有難く……」


 他の人には、不審な手紙に見えるだろう。脅迫文か、何かよからぬ組織とのよからぬ密通か。いやいや、でも僕には、何も書いてないからこそ、わかるのだ。


「ああ……イタチか」


 それというのも、僕らにはあて先を示すものなど必要ないのだから。それでも直接手渡しをしないのは、イタチも手紙が持つ情緒を大事にしてくれているらしい。それが僕達なのだ。


 僕が一人、そんなことを考えて黙りこくって封筒を開けている間に、女王陛下(たった今、僕は彼女のことをそう呼ぶことに決めた)は怪訝そうな面持ちで呟いた。それはまるで、気が触れてしまった人を案ずるようでもあった。


「イタチ?……いいえ、どう見ても人間の男の子だったけど。……イタチからの手紙が来るなんて、そんなメルヘンの世界に住んでいるのなら、是非私も招待してもらいたいものだけど」


「残念ながら、本物のイタチなんかじゃなくて、人間の男の子だよ。甥っ子なんだ」


「じゃあ、何でイタチなの。彼にも立派な名前があるでしょう」


「そりゃあね、当然。でも、僕は、人の名前を覚えるのが苦手でね。僕が自分で考えた名前で呼べば、直ぐ覚えるだろう」


「嘘」


「かもね。……ちなみに、君にも、僕が勝手に付けた名前があるんだけれど、聞きたい?」


「結構よ」


「だろうと思った」


 僕の目は、読んでもらえる今この時を待ちわびていた手紙に目を通しつつも、一方で女王陛下が呆れてため息をつきながら腕組をするのを、見逃してはいなかった。さらには、それを見てみぬふりまでしてみせる(理由は一言、癪だから)。どうだい、なかなかに器用なものだろうと、返事の手紙に自慢げに書いたら、きっとイタチは面白がるだろう。なんてことを考えながら、右の耳には、しっかり女王陛下の声を受け取っていた。またこれで一つ、自慢できる器用さが追加で発揮されたわけである。


「甥っ子の名前くらい、覚えなさいよ」


「覚えてないわけないだろう」


 丁寧な文字で書かれた手紙は、なかなかに洒落ていた。本当は彼の方が詩人なのではないかと、思わず感心してしまう。特にほら、この最後の一文が。


 


 なかなか読んでもらえないこの手紙を哀れに思って、美人のお姉さんに届けてもらうように頼んでおきました。そうすればきっと、すぐに読んでもらえるだろうから(僕って気が利くでしょう、なんて自慢したりはしません、絶対に!)。


 


 でも、ここだけ、慌てたような走り書きになっていた。これは、僕のための言葉じゃない。このかわいそうな手紙のためのメッセージだ。


 自然と目に浮かんでくる。


 僕になかなか受け取ってもらえない手紙の行方を案じて、この宿に顔を出したイタチは、女王陛下の姿が目に入って、このことを思いついた。それは、それは、素晴らしいアイディアだと、子供らしく、ほんのちょっと(いや、本当はすごく)自慢したいから、手紙を彼女に託す前に、急いで一筆書き足した、というわけだ。


 きっと口をいっぱい広げて、満足そうな笑みを見せているであろう彼の姿を思うと、思わず笑ってしまった。


「それじゃあ、用も済んだし、もう行くわ」


 僕が手紙を読み始めたのを見て、彼女はくるりと綺麗な輪を描いて踵を返し、帰ろうとした。


「あ、ちょっと待って……」呼び止めると、彼女は素直に振り向いた。「一つ聞きたいんだけど………今日は何月何日か知ってる?」


「そりゃあね、カレンダーを見ればわかるでしょ」


 カレンダー。そんなものがこの部屋にちゃんとあることが、驚きでもあり、そして、唯一の良心であるとも思った。しかもちゃんと、今年のものである。


「でも、カレンダーは数字が並んでるだけで、今日がどこかは示してくれないよ」


「相当重症ね」


「そうなんだ……だから、この手紙もいたずらが仕掛けてあった」


「なるほど、それはイタチらしいわね」


 けらけらと笑いながら、彼女は僕が最後に日付を認識していた日から三日後を指差した。やっぱり、僕の時間の流れは相当いい加減なものになっている。


「嘘じゃないよね」


「そんな嘘ついてどうするのよ」


「でも……君は嘘が多そうだ」


 自分でもどうしてだかわからないが、無意識にそんな無礼な言葉が口を突いて出ていた。よく知りもしないのに。慌てて謝ろうとしたのだが、その前に彼女の方が、怒った様子も見せずに、苦笑いで言った。


「失礼なこと言わないでよ、知りもしないくせに」


 それは尤もである。急に、アヒルが歌っていた自作のあの歌が、覚えているはずもないのに、耳の奥で響き出した。その所為だろうか、そんなことを言ってしまったのは。


「こりゃ失礼。もっと適切な言葉に言い換えるよ。……何か、隠し事が多そうだからね」


 ほんの一瞬ではあったが、初めて彼女の奥に潜むものが姿を現した。それを動揺と言うのか、苛立ちと言うのかわからないが。だが、またそれはすぐに仮面の下に隠れてしまう。代わりにそこに張り付けられたのは、皮肉の交じった笑みだった。


「名前を七つも持ってる女ほどじゃないわよ。……でも、謎がある方が魅力的でしょう」


「そうかな」


「そうよ。……もっと知りたくなるから」


 その笑みから皮肉さが抜け、妖艶なものに変わった。だが僕は、ネズミ捕りに掛かるネズミにはならない。


「そういう作為の下にあるのなら、敢えて知ろうとは思わないけど………」


「あら、つまらない男ね」


「そう、まったくその通り、そうなんだ。でも………そうだな」その時、不意に僕の頭はまったく違うことに働いた。なんてことだ、イタチは本当に手紙と一緒にすばらしい贈り物を届けてくれたじゃないか!僕は机の上の台本を、まるでそれが逃げてしまうものであるかのように、慌てて手に取った。「この話の主人公は、詐欺師の男だけど……それを女に変えて、君を主演にするのはいいかもしれない。そうか、それだ……」


 突然天啓がひらめいたように、次々とイメージが駆け抜けて行った。それを捉え損ねないよう、僕は机に向かってペンを手に取り、手の動く速度をもどかしく思う程、紙の上に書きなぐった。そんな僕を見て、彼女は呟いた。


「ああ、なるほどね、台本に没頭するあまり、猜疑心に駆られてしまったと言うわけね。やっぱりあなた、相当重症よ」


「それでも君からは一切真実が見えない。正しく、この劇の主役に相応しい」


 彼女の方を見もしないで、ひたすら紙にペンを走らせながらそう言った。だから、僕のそんな態度に対して、彼女がどんな顔をしていたかは見ていない。けれどそれでも、彼女の中にある真実を隠す仮面は剥がれていなかっただろう。また、くすくすと笑う声が聞こえたのがその証拠だ。


「褒めているのか貶しているのか、はっきりして頂戴」


「もちろん褒めているんだよ」


「わかりにくいわね。でもありがとう」


 やっぱり僕の目は紙しか見ていなかったのだが、やはり彼女は、つんと顎を反らせ女王様然としてそう言ったのだろう。そう思うと、書くことに気を取られるあまりに、僕は無意識に口走っていた。


「勿体ないお言葉、光栄の極みでございます。……女王陛下」


 ふと、時間や空気の流れが止まったような、とても静かな一瞬が訪れた。ペンを走らせていた僕の手も止まってしまう。やがてぽつりと落とされた彼女の言葉が、静寂を打ち破った。


「もしかして、それが私の名前なの?」


 僕は彼女の方を振り向いただけで、特にイエスともノーとも答えなかった。今度こそ彼女は怒るだろうか。そう思ったが、また可笑しそうに笑うばかりだ。


「だとしたら、あなたネーミングセンス無いわね」


 今、捕まえ損ねた言葉が、二つ三つ、どこかへ走り去って行ってしまった。はて、それは何だったか。すっかり止まってしまった手は動かない。意地の悪い彼女の笑みが、なんらかの目に見えない力で止めさせているようだった。


「ほら、さっきまで回転車のネズミみたいだったのに、すっかり止まってしまったし……あの幽霊みたいなお嬢さんに勝てるのかしら」


「じゃあ、スパイをお願いするよ」


「私は彼女の味方なの。あなたよりは面白そうだもの。……むしろ私がスパイに来たんだったらどうする?」


「やっぱり、君を主演にと考えた自分を褒めるよ」


「ふぅん……」


 ようやく、また二つ三つ、さっき逃げてしまったものかどうかは定かでないが、捕まえた言葉を紙に書きとめていると、その間に彼女はいなくなってしまっていた。この五分ほどの出来事は、本当に起こったことなのかと、ふと疑ってしまう。やはり、台本にのめり込み過ぎて、猜疑心が強くなりすぎているらしい。


 頭を軽く振って、余計なものを振り払った。ようやく、目が覚めた様に頭がすっきりしてきて、僕はまた紙の上にペンを走らせた。


 さて皆さん、こうして人を煙に巻くヒロインの、遅ればせながらの登場を、どうお思いか。彼女の真の姿について知りたいのなら、今しばらく辛抱してお付き合いいただきたい。


 それが彼女の策略通りだとしても。

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