八通目の手紙
ゴーストライターは勝手に舞台にしていた受付カウンターから降りると、即興劇は閉幕。静かにそこにある風景を写すだけの、ただの鏡を持ち主へと返した。
宿の主人は、僕達を睨みながら受付カウンターに着いた足跡を、しっかり丁寧に、跡形も無く拭取る。ゴーストライターは、それを見て、何度も謝りながら頭を下げた。
まるで、さっきまでは本当に役者が演技をしていたかのように、あっという間に消極的な彼女に戻ってしまった。それを見て、女はまた可笑しそうにケラケラと笑った。
「あなた、面白いわね。決めた、私はあなたの味方につくわ」
「あ、ありがとう……ございます」
この世の花と色を全て集めたような女と、色と言えば白と黒、それ以外に持たぬ女。どちらも人の目を引くのだが、両極のその二つが手を組んだその瞬間は、実に奇妙であったとしか言い様がない。考えてみてほしい、カラー映像の一部だけがモノクロであったら、それは明らかに不自然だろう。
「それで、どうやって決着をつけるのかしら。剣を振りかざす戦いとは違うから、どちらかが倒れたら終わりってことでもないでしょう」
「ある意味、そう違いはないかもしれないぞ」
二人のペンを持つ戦士(少々格好つけすぎたか、失礼)を、しげしげと眺めた宿の主人は、しみじみとそう言った。確かに今の僕とゴーストライター、どちらもいつ倒れるかわからない、実に頼りなく弱々しい戦士である。共に簡単に打ち倒せるだろう。
「これは見ものね!実際にペンでちょっと突けばそれで終わりそうじゃない」彼女はくすくすと笑いながら、ゴーストライターの耳元に共謀を囁きかけた。「……必要ならいつでも言ってね」
戸惑うゴーストライターの様子に、一層高い笑い声を響かせながら、風か煙のごとく、彼女はオブジェと人の中に紛れて消えてしまう。幻でも見ていたのだろうかと、我が目を疑いたくなった。頭も疲れていることであるし。
「ところで、彼女は誰ですか」
「劇団の役者だよ」
ようやくこちらも芝居を終えて、むくりと起き上がったアヒルが、ガラガラに枯れた、より本物のアヒルにそっくりな声で言った。
「やっぱりそうか。派手ですもんね、存在そのものが」
「そりゃそうだろう。元はそこそこ大きくてまともな、そこそこの人気を誇っていた劇団の、そこそこ人気の役者だったんだ」
「……そこそこ、という言葉にやや引っかかりを感じますが……なるほど。でも、それならなぜ、こんな辺鄙なところに来たんでしょう」
「そりゃあ、あれだろう。ワケアリなんだよ」辺鄙なところ、という言葉を特に否定もしないのは、彼もよくよくそれを承知しているということであろうか。そのことについての議論は、今は必要ないので置いておこう。「噂で聞いたんだけどな……芝居としたら、ありふれた泥沼劇だよ」
アヒルは、その噂話の幕開けに、またご自慢の自作の歌を披露した。
楽しいことなどいらないよ
悲しい言葉と黒鍵の音をおくれよ
私にはそれで充分さ
笑い声などいらないよ
部屋半分の明かりとタバコの煙
私にはそれで充分さ
ああ そうさ それなのに どうしてだい
私に笑えというのかい
踊れというのかい
私があなたに望むことは ただ一つ
割れたガラスのような涙の粒をおくれよ
(コーラス……ダイヤモンドじゃなダメなのさ)
すすり泣きながら 聞いておくれよ
ああ 哀れなこの私の話
悲しいことを知らぬ 悲しい人よ
そのうちに、聞き手の興味は薄れてしまうということにも気がつかずに、アヒルはまだ歌っていた。長すぎる前置きは厳禁である。そういうわけで、僕がちゃんと聞いていたのはここまでだったので、残念ながら、書けるのもここまでだ。その時僕の興味は、すっかり別の話題に移っていたので、ご容赦いただきたい。
アヒルの調子外れの歌を背景に、そそくさと退場しようとしているゴーストライターを、僕は呼び止めた。
「登場がちょっと遅かったですね」
「この演出を練るのに時間がかかったんです」
「へえ……僕はてっきりあなたはもう諦めたのかと思いましたよ」
「まさか……だってあなたが言ったんじゃないですか」彼女は相変わらずおどおどした様子で振り向いた。でも、その言葉はまったく正反対のものである。「私は消極的ではないんです。寧ろ、大胆不敵で図々しいと」
「はあ、まあ……そう…だったかもしれません」
口から出任せだったので、はっきり言って、よく覚えていないのだが。そんな言葉でも、それほどまでに、彼女に深い感銘を与えたとは。僕もまだ捨てたものじゃないじゃないか。
しかし、自分で自分を褒めている場合ではなかった。
「ならば、一番派手で大胆な方法を取ったまでです」
「極端な人ですね……力加減を弁えないと、怪我をしますよ」
しかし、彼女は聞く耳持たず、さっさとその場を去っていった。ふらふらと力なく蛇行する足取りは、やはりゴーストのようで変わっていなかったけれど、こんな目立つ小芝居まで打って、表に立とうとするだけでも、彼女にとっては大きな変革だったのだろう。
僕は、どうやら自分で自分の首を絞めてしまったようだ。ゴーストライターを、ただのライターにしてしまったとは。
さっき手紙を渡しに行ってもらったばかりであるが、今日はもう一通、小さいイタチに手紙を書かなければならなくなってしまった。
追伸
困ったことになってしまったよ、どうしたものか。
いや、言わない方がいいかもしれない。これはおそろしい話になるかもしれないから。でも、君は聞きたがるでしょうから、思い切って書きます。
ゴースト退治の話には興味があるかい?そりゃあ、君のことだから、もちろん、と言うのはわかっているよ。
退治しなければならないゴーストは、冒険物語に出てくるような、十字架や聖水、なにかしらの特しゅな呪いの言葉、そういったものはいっさい効かない。僕の武器はたったのペン一本です。そう、この手紙を書いているペンです。
なんと心もとないことか!
でも安心してください、ゴーストの武器もペン一本です。だから、不利な戦いではありません。
無事に退治することができたら、今度こそ、その冒険談を聞かせに行こうと思います(多少おおげさに、詳細に、あったことも、なかったことも!)。
どうか、僕が勝てるように、お皿に乗ってるニンジンに毎日祈ってください。そして、ていねいにかみくだいて、飲みこむこと!
※ニンジンがない場合は、アスパラでもブロッコリーでも何でもかまいません。なぜかと言うと、そういった健康的なものを、ゴーストは好まないはずだからです。
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