七通目の手紙

「信じてないだろう。本当なんだってば。君がさっき言ったような、美しい女というわけでは決してなかったけれど、女のゴーストだよ。ぼさぼさに乱れた髪で、重たそうに足を引きずるみたいに歩いていた。ぶつぶつと、何かをずっと呟きながら。……だから、君の身も心配だったんだ」


 なるほど、そういうことか。通らなくてもいい道をわざわざ通り、随分遠回りして長くかかったが、ようやく周回遅れを取り戻し、話は元に戻ることが出来た。


「……いや、そんなことはないよ。だって僕も見たから」


 とはいえ、それは本物ではなかったが。恐らくは、アヒルが見たもの同じものであろう。確かに本物だと信じさせるほどの、迫真の演技であった。いや、本人にとっては演技ではないのだろうが、そう言っても差支えないだろう。こうも人を騙しおおせているのだから。


「ということは、俺があれほど忠告をしたのに、夜中に窓の外を見たんだな」


「そうだよ、好奇心に負けてしまって、ついね」


「よくぞ無事で!」


 賭けてもいいが、彼は絶対にキリスト教徒ではないはずだ。それなのに、見よう見まねで十字を切っていた。その滑稽さも面白かったのだが、その時僕は、もっと興味深いものを発見してしまっていたので、そんなことはどうでもよくなってしまう。本当に、階段の踊り場にゴーストの姿を発見したのだから。


 こちらをじっと見たまま目を離さず、ゆっくりと一段ずつ階段を降りて来る。


「大したことないですよ。特に、僕が見たゴーストは……ことによると昼間も出て来るかもしれない。本人の気が向けば」


「そんなことあるもんか。そしたら、ゴーストの名折れだよ。明るい所に現れたって、怖くも何ともない」


「本当にそう思います?」


「ああ、もちろん」


 胸を張ってアヒルは言う。この期に及んで、まだそんな強がりを言うとは、彼の見栄もなかなか称賛に値する。


「じゃあ、後ろを見てごらん」


「その手にはもう乗らない!」


「今度は嘘じゃないって」


 アヒルは、振り返る素振りを見せたが、実際に後ろを見ることはせず、また疑り深い目を僕に向けて来る。


「いやいや、だから、もう騙されないって」


「でももう、すぐ後ろまで来てるんだけどなぁ」


「え……」


 とうとう振り返ると、目と鼻の先に、青白い顔をした女の顔があったのだ。それはまさしく、血の気の無いゴーストのような。この悲鳴を聞くのは今日は一体何度目か数えるのも馬鹿馬鹿しくなってきたが、アヒルはまた、アヒルが首を絞められたような声を上げて叫んだ。その声に、ゴーストもといゴーストライターの方も、驚いてびくりと肩を震わせる。だが、錯乱しているアヒルは、そんな彼女の小さな反応に気がつくわけもないのだ。その気持ちは、僕としてもわからなくはないが、僕と彼とでは、その恐怖心に向かい合う方法が異なっていた。


「ああ、なんてことだ、俺はとうとう、この愛しい人生と、さよならしなくちゃならないのか!」


 アヒルはまた出鱈目な十字を切って、大仰に頭を抱えて身もだえをして見せた。そして終いには、直面した恐怖を歌にして訴え始めたのだ。まるでミュージカルの一場面のごとく(後で本人が語るには、かつて彼は音楽家を志したことがあり、折に触れこうしてあらゆることを歌にするそうである。こんなところででもなければ、日の目を見ることもないだろうだから、せっかくなのでお聞かせしよう)。


 


 


 ああ、こうして生きる喜びよ


 ああ、愛しい我が人生よ


 ああ、誰が奪い去れるというのか


 ああ、それはかの憎々しいゴーストだけ


 ああ、もしも、ここへ来たならば


 ああ、君よ、気をつけたまえ


 ああ、あの青白い顔をした


 ああ、夜に彷徨う女には


 


 ああ、その命を守るのに必要なものは


 ああ、たったの二つだけ


 勘が鋭い猫一匹と


 スプーンいっぱいの擦りゴマさ


 ああ、それすらないと言われれば


 ああ、さようなら


 ああ、それすら言えやしないさ


 ああ、だって君はもう


 ああ、だって僕はもう


 ああ、彷徨えるただの魂


 


 


 調子っ外れのアヒルの鳴き声のような歌声で最後の一音を歌い終えると、ついには気絶して倒れてしまった。これも、ただの演技であればいいのだが。宿の主人は、やれやれ、と、慌てず騒がず、慣れた様子で邪魔にならない場所へアヒルを引きずって行った。


 なんだかだんだんと、僕は小芝居を見ているような気分になって来た。ここはひとつ、観客として傍観させていただこうか。そう思ったのだが、今は僕も舞台の上の役者の一員であるらしい。対峙するゴーストライターが、僕にそれを許さなかった。明らかに、彼女の標的は僕なのだ。顔を隠す髪の間から覗く目が、恨みがましそうに僕を見ている。


 よろしい、それならば僕も役者のふりをしてみるしかなかろう。


「これはこれは、こんなところでお会いするとは。……ようやく決心がついたんですか」


 ゴーストライターは、何も答えない。やがて、背中を丸め、のろりと緩慢な動作で歩いて、宿の主人がいるカウンターの前まで行った。これは流石に予想外の事態であるのか、宿の主人も、彼女の動き一つ一つに目を見張っていた。


 この一角だけに、ある種の緊張感が走る。一体、彼女は何をするつもりなのだろうか。カウンターに足をかけて、その上によじ登るのを、呆気に取られた主人は止めることもなく、ただ黙って成るに任せていた。下手に触ると危険な爆弾でも見かけたかのように。


 そこが芝居を繰り広げる壇上と言わんばかりに、彼女はカウンターの上に立った。ところが、ここまでしておきながら、彼女の中にはまだ躊躇いがあるようである。俯いて、握りしめた手が小刻みに震えていた。


 今一度、彼女はちらりと僕に目をやった。僕は、視線でこう返す。


 お好きにどうぞ。何をする気か知らないけど、やれるものならやってみなさい。


 その挑発が効いたらしい。もっとも、僕にとってそれは喜ばしいこととは言えないが。大きく息を吸って、彼女はついに口を開いた!


「み……皆さん、ちょいとお耳を拝借!」


 さて、とうとう幕を開けた彼女の芝居を、しばしご覧いただこう。


 この場にいた人間のほとんどは、好き好きに振舞ってはいても、一応はそんな声が気にはなるのか、彼女に一斉に注意を向けた。おそらくは、それがまるで芝居の始まりのようであったからかもしれない。


 身を隠しひっそりと生きてきた彼女が、かつてこれほどまでに人の目にさらされたことがあったのだろうか。彼女手は少しばかり震えていたものの、拳を強く握り、今一度自分自身に覚悟の程を問うてから続けた。


「鏡をお持ちの方、いらっしゃいますか」


「鏡?」


 羊の頭が逆さまで、牛は逆立ちをして、羊追いのシェパードは寝そべって仕事をさぼっている牧場の絵を描いていた画家が、キャンバスから目を離して、ゴーストライターの方を見た(彼は美術担当のはずであるが、今描いているその絵を一体何に使うのかは、謎である)。


「そう、鏡です。お持ちの方いらっしゃいましたら、貸していただけますでしょうか」


「何でさ」


「そ、それは……ええっと………」


 人々の視線の針、それが彼女をまた怖気づかせた。さあ、どうするか。せっかく正しく灯った彼女の積極性の火が無残に吹き消され、舞台の幕も間もなく下ろされてしまうかに思えた時、思わぬところから助け船が出された。


「まあ、何でもいいけど……どうぞ」


 一人の女が、カウンターの前に進み出て、手鏡を差し出した。目鼻立ちや、その凛とした立ち姿や仕草の一つどれを取っても、摘んできたばかりの朝露の残った色鮮やかな花のようなみずみずしい華やかさがあり、人目を引きつける。一度見たら決して忘れないだろう。初めて見る顔だが、彼女も劇団の人間なのだろうか。それにしては、完全に異質な色を持っている。あまりこの場にそぐわないとさえ言える。いわゆる、正当な華やかさだ。まあ、この劇団のことだ、どんな人間がいても不思議はないが。


「あ、ありがとうございます」


 ゴーストライターは、おずおずと差し出された鏡に手を伸ばした。鏡を渡した女は、口の端を歪めて、皮肉めいた笑みを見せる。


「面白い見世物を始めてくれるんでしょう。なら惜しみなく協力するわ。退屈は人間の一番の敵だもの」


「……は、はい」


「楽しみね」


 彼女の小さな笑い声が麝香のように、半信半疑だった人々の興味をより強く引き付けた。それは見事な魔術のように、この芝居に花を添えたのだった。予想外に程良く場は整い、ゴーストライターは、手鏡を高々と掲げて見せた。


「こ……ここに映ったものを良く見てください」


 その鏡は、明らかに僕に向けられていて、僕を映そうとしていた。一同の視線も、自然と鏡から僕へと移される。ゴーストライターの顔が、奇妙に歪んだ。それは笑みなのだろうか、それともそのゴーストらしさを誇張しようとしただけだろうか。まあ、どちらであってもさしたる問題ではないが。


「この鏡が映しだしたのは、不誠実な人間の姿」小さなざわめきのさざ波が起こっても、僕は怯むことなく、厚顔無恥とも言えるくらいの平静さで成り行きを静観した。「……何故なら、彼は偽物」


「偽者?」


 誰かの呟きが聞こえて、ゴーストライターは頷いた。


「はい、その通り。……何食わぬ顔で、この劇団の脚本家だなどと名乗っていますが、その正体はただの略奪者。本来そのチケットを持っている者を、この鏡の中に永遠に閉じ込め、誰にも悟られずに奪おうとしている、盗人です」


 ここまで言われれば、僕も黙ってはいられない。いよいよ出番である。思いっきり芝居がかった大袈裟な仕草で、ゴーストライターから手鏡を奪い取った。


「随分な言われようですが……言いがかりも甚だしい。それがどこの誰だか知りませんが……」わざわざ間を取り、わざとらしくゴーストライターに目をやる。観客の目は、僕とゴーストライターの間を、忙しなく行ったり来たりしていた。芝居はますます白熱する。「僕が閉じ込めたんじゃありませんよ。僕がその鏡を見た時には、すでに勝手に閉じこもっていた後だったのだから。僕は正当に、落ちたチケットを拾って有り難くいただいただけです」僕は鏡をゴーストライターに向けた。窓から射す日の光が反射して、彼女は眩しさに目を眇める。「何か聞こえませんか、鏡の中から声が……」


「そうですね、聞こえますよ。どれどれ………この泥棒め、このままで済むと思うな!」


「ああ、良かった。僕の空耳ではなかったんですね。でも残念ながら、ただの逆恨みでしょう」


「なあ、一体どういうことだ?」


 この小芝居を邪魔することを気にするように、遠慮がちに宿の主人が訊ねた。


「どうってことはないですよ。ただこの人は、操り人形を失った不自由の見当違いな逆恨みを、僕にぶつけているだけです」


 鏡に映ったゴーストライターの姿を、とんとんと指で叩きながら、ここぞとばかり、僕は彼のみならず全ての観客に向かって大声で訴えるのだ。おおっ、と、また小さなどよめきが起こり、僕は得意になった。これで聴衆は味方に付いた。だが、ゴーストライターもここで引き下がることはしない。


「みなさん、盗人の言葉になど耳を貸してはいけません。耳を傾けるべきは、この鏡の声。……なになに……鏡が……少しばかり機嫌を損ねて姿を映してくれなくなった隙を突かれ、突然自由を失って、うろたえ、嘆き悲しんでいる……と」


 情感たっぷりの消え入りそうな声でそう言ったゴーストライターは、愛しそうに鏡をそっと撫でた。それから、すっかり堂に入った主演女優のごとき彼女は、ぴたりと、寸分の狂いもなく僕を指差し、今度は突然声を荒げた。


「そのまま、ぬくぬくとその椅子に座っていられると思うな。必ずや、奪い返してやる」ゆっくりと、僕を指していた指を下ろし、ゴーストライターは一度深い呼吸をした。「彼女からあなたへの宣戦布告……確かに、伝えましたよ」


 即興演劇にのめり込み、すっかり静まり返った場に、息を飲む音がする。


「では……彼女に伝えておいていただけますか。………誤解しないでいただきたいが、僕はこれでも平和主義者だ。争いは出来れば避けたいところだが……そこまで言うのなら、期待通り本当に盗人になりましょう。なに、悪役になるのなど厭いませんよ。始終笑顔の張り付いた善人よりは、僕には似合いだろうから。そして……あなたには永遠に鏡の中に閉じこもっているのがお似合いだ。引っ込んでいたまえ」


 僕は格好をつけて、いかにも悪役といった悪辣な笑みを浮かべた。なかなかにいい役者じゃないか。脚本を書き直す前に、自分が舞台に上がることをもう一度検討してみてもいいかもしれない。いや、これは失礼、少々調子に乗り過ぎた。


 ゴーストライターは、悔しそうに歯軋りをした。捨て台詞は、こんなもの。


「……長すぎて覚えられません」


 しかし、どうだろう、苦し紛れの一言でも、観客一同はどよめきと共に深く頷いたではないか。僕が悪役を宣言したその瞬間から、観客は彼女の味方に変わってしまったようである。すると、悔しそうにしていたゴーストライターの顔には、満足そうな笑みが広がった。


 不意に大きな拍手が一つ鳴りだした。先ほど、ゴーストライターに鏡を貸した女だ。


「最高!……剣が交わり合うよりも面白いものを見せてもらったわ」


 腹を抱えて笑う彼女の声が、ころころと転がってフロア中に響き渡った。その笑い声が合図となって、観客から拍手喝さいが起こった。そして、魔術が解けたように、ここの連中は、すぐにまたそれぞれ自分のやるべきことを、好き勝手にやりはじめた。いつもの、この宿のロビーの景色に戻るのだ。

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