第二章
六通目の手紙
小さいイタチ君へ
君と僕は、今はとても近くにいて、本当ならば手紙なんて書く必要は無いはずです。
でも、どうしてでしょうか、君の家と僕がいる宿には、たった一・五キロの距離しかないはずなのに、まるでその途中には、地球を一周するぐらい長い、目に見えない道があって、ただでさえもたどり着くのが困難な上に、誰かがいたずらをして、上手く隠して通れなくしてしまったのではないかと疑いたくなります。
犯人は君なのでしょうか?
いやいや、そんなはずはないのはわかっているよ。なにせ、僕は本当の犯人を知っているのですから。ただちょっと、からかってみただけです。
犯人の名は『闘争』と『忙殺』。この二つが手を組んだのです。
※もし、意味がわからなければ、これを期に、ぜひ辞書と友達になってください。少々堅苦しいところがとっつきにくいですが、頑固でもなければ意地悪でもありません。
君が、面白おかしい話を聞きたくて、うずうずしていただろうと知りつつも、そういうわけで、僕はずっと、どうしたものかと悩まされていたんです。
もしかすると、君ならば簡単に、隠された道をみつけてしまうかもしれない!いたずらが得意な人は、人のいたずらを探すのも得意なはずですから。
でも、僕には見つけることも難しいし(なぜなら、僕は君ほどいたずらの才がないのです。誓って嘘ではありません)、運よくその入り口を探し出せたとしても、たどり着くのにも骨が折れて、途中で力尽きてしまうでしょう。
聞かせたい面白おかしい話ならいくらでもあるのですが、それを届けるために挑むには、あまりにも危険な道のりと言わざるをえません。なにせ、なかなか手強い相手なので、どんな罠をしかけているかわかりませんから。
もし、道案内と何人かの用心棒を見つけることが出来たら、挑戦してみることにします。でも、残念なことに、どちらも他の通行人のために出払っていて、今は人手が足りないそうです。
どうやら犯人の気が済むまで、大人しく待つしかなさそうです。
手紙ならば、とてもゆうかんな郵便屋を見つけたので、きっと届けてくれるだろうと、手が追いつかないほど大急ぎで書きました(なので、字が多少ゆがんでいて読みにくくても、許してください)。
君も、もしその郵便屋を運よくつかまえることができたら、返事をくれるとうれしいです。
おじさんより。
少々大袈裟に書いた手紙に封をして、勇敢な郵便屋(またの名を、宿の主人)に預けに行くことにした。
脚本の書き直しは難航して、すっかり時間の経過を気にしなくなっていたが、実は僕が机に張り付いてから四日は経過していたらしい。その割に、振り返ってみると、紙はほぼ白いままであったことに、愕然とした。そしてしばらく呆けて、また時間を知らぬ間に消費してしまうという不毛。
それに気が付いた時、急に焦りが僕の全身を支配して、とにかくいつの間にか消えてしまった時間を埋めること、そして、とにかく一度机から離れること、その二つをしろと、急き立てた。それでも、机の方は、まったく進んでいないのだから離れるとは許せない、と、僕を責めるのだが、少しくらいは許してほしいものだ。
君が素敵な案なり言葉なりを提供してくれないからじゃないか!
そうぴしゃりと言い放って、僕はロビーへと向かった(こういった行為は、他人から見れば滑稽にみえるだろうが、自分の罪悪感と戦うには、実に有益な方法である)。相変わらず、異世界に迷い込んだかのように繰り広げられている無秩序に目眩がしたが、そろそろ慣れなければいけないと、自分に言い聞かせた。窓際を陣取っている、どこからか迷い込んできた猫のように、平然と欠伸をするくらいにならなければ。
宿の主人もまた、カウンターで悠然と新聞を読んでいた。時折、猫と同じタイミングで欠伸をしながら。このような中にあって、僕に気がついて、新聞から上げられた彼の目に多少なりとも興味の色を見たのは、意外であった。平常心を保とうとするならば、何も気にしない、それしかないからだ。そして、この宿の主人はそれをいつも守っていたはずなのに。
「おや、珍しい……。君の姿を見ることがあるとはね。しかも、この日の照っている昼間に」
「たまには風通しを良くしないと、カビてしまいますからね」
「それに気がついてくれてよかったよ。……このままじゃ、生きた四葉のクローバーがごとく、会えたら幸運が訪れる、なんて迷信が出来上がるかもしれない」
「見かけによらず、僕よりもずっと詩的な思考をお持ちですね……」
伸び放題のぼさぼさの髪、寝ぼけ眼で、白髪交じりの髭に覆われた顔からは、四つ葉のクローバーなどという単語は出てきそうにもない。むしろ、足元に潜む幸運の印を、無頓着に踏んで歩きそうである。その結果が、この宿の惨状でもあるのだろうし。
「迷信は信じる方だ」
「そうですか……。じゃあ、今日は僕に会えたということで、何かいいことがあるかもしれないですね」
宿の主人は、僕にちらりと目をやって、眉を顰めた。それも当然だろう。
ここに来る前に、部屋の中に一つだけある、ひびが入って曇った鏡に映った、ひどくくたびれて、よれよれになった自分の姿に、何よりも自分が驚いたのだから、仕方ない。この目の隈はどうだ。とても、幸運など運んで来そうには見えない。それどころか、これでは僕までも、ゴーストのようなライターになってしまうじゃないか。
そして、彼は小さく首を振りながら、ため息交じりに言った。
「やっぱり、もっと現実的にならなきゃいかんな」
しかし、今日も今日とて、劇団のくせに調和を重んじる心使いなど微塵も感じられず、それぞれに騒音を立てている連中がのさばり、気違い騒ぎの様相を呈している彼のおんぼろの城の有様を見ると、もう既に手遅れであろう。けれど、僕は知っている。きっとこの主人は、こういった連中を嫌ってはいないどころか、実は心の中では密かに楽しんでいるのだ。そうでなければ、今頃この宿は、常識的な客でいっぱいの、それなりに小奇麗で常識的な宿になっていたはずだろう。
それでは、僕はまた一つ、彼に楽しみという名の面倒を提供しようではないか(なんとこちらの勝手な都合のよい解釈であろうか)。
「ところで、一つお願いがあるんですが」
「なんだ、水道管でも壊れたか」
「いいえ……まあ、それはいつ起こってもおかしくはないですが、今のところは大丈夫です。……出かけるついでにでも、この手紙を僕の姉の家に届けてほしいんです」
「嫌だよ、面倒臭い。俺は何でも屋じゃないぞ。それこそ、カビを生やさないために日に当たってこい。すぐそこなんだから」
「嫌ですよ、自分で書いた手紙を自分で届けに行くなんて……もし、受取人に見られたりしたら、間抜けなことこの上ない。僕は手紙が届くということの情緒も重んじたいんです」
「もともと、こんな近距離で手紙を書くこと自体が、まどろっこしい上に間抜けなことだろう。やっぱりお前さん、この連中の仲間になる資格が充分にあるよ」
「そうですかね……」
いつの日か、この中に混じっている自分の姿を思い描いて見た。今よりももっと、目にはくっきりとした隈ができていて、もっと何かに取り憑かれたたような青白い顔になっていて、メモとペンを片手に、ぶつぶつと何事かを呟きながら、日がな一日うろうろとこのロビーを歩き回っているのだ。もちろん、メモ帳は白いままで。確実にその日は近付いていることを、身にしみて感じている今、この想像は洒落にならない。
思わず身震いをしてしまった。積極性と消極性のエネルギーの使い方をことごとく間違った、あのゴーストライターと同じではないか。
そういえば、結局彼女はどうしているのだろうか。
ほとんどモノクロだったゴーストのようなあの姿が、脳裏をよぎった。いや、気にすることは無い。引っ込んでいてくれるなら、それが一番だ。
頭の中身までじめじめとカビてしまいそうだった僕の視界に、不意に正反対の鮮やかな赤い頭が飛び込んできた。いつの間にかマリが隣に立っていて、目が合うと彼女はにこりと微笑む。
「今ちょうど出かけるところだったから、その手紙、私が出してきましょうか」
「ほんとうですか、ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて、お願いします」この瞬間までは、互いににこやかに、そして穏便に話は進んでいたのだが、「………マリさん」と、僕が彼女の名を口にした時、急に空気が変化した。手紙を受け取ろうとしていた彼女の手が、強張った。それから、ともすれば見逃しそうなほんの刹那、凍りつくような鋭い一瞥をくれる。ただ名前を呼んだだけだが、僕は何か失態をやらかしたのだろうか。
「あらいやだ、もう私の名前を忘れるなんて……やっぱり、カビてきちゃってるみたいね。天日干しにした方がいいんじゃないかしら」
きちんと手紙を手にしてくれたものの、冷たく棘のある言葉を残し、苛立ちをぶつけるように必要以上に靴音を立てながら、彼女はいなくなった。謝罪をしようにも、何が原因かわからないのでしようもない。わけもわからず、僕はただ、黙って彼女が出て行くのを見ているしか出来なかった。
「何か間違ってたんでしょうか。彼女の名前は、マリさんですよね」
ぼやけた声で僕が訪ねると、宿の主人は鼻を鳴らして笑った。
「今日を何曜日だと思ってる」
「えーっと……多分、土曜日……かな。すっかり日付や曜日の感覚が狂ってしまってますけど」
「だからだよ」
「どういうことですか?」
「マリは火曜日の名前だ。土曜日はユリ。……あの女は、名前を七つ持っていて、曜日毎に変わるんだよ。多分、どれも本当の名前じゃないだろうけど。まともにあの女と会話をしようと思ったら、まずその七つの名を正しく覚えるところから始めないと、相手にさえしてもらえない」
「何故そんな面倒なことを……」
「さあな、本人に聞けよ」
何にでもドラマを探し求める僕の鼻は(時にはないものにも勝手に見つけてしまうこともあるポンコツであるが)、サスペンスの匂いを嗅ぎつけた。素性をろくに確かめもせず雇い入れる、いわば来るものは拒まない劇団であるから、何か後ろ暗いことのある人間の隠れ蓑にもなりやすい。一人一人追求したら、全員が何かしらの人には言えぬ過去が出て来るのではないか。そういう僕も、例外ではないことに気がつくと、思わず自嘲してしまった。いや、僕の場合は、皆が知っているということが問題なのか。
どちらにしても、そうだ、僕は確かに、この連中の一因になる資格は充分にある。
僕はしばし、そういった己の内なる思考に浸っていたのだが、ここはそれが長く許されるような場所ではない。
無秩序な騒音の中から、アヒルがパニックを起こして騒ぎ立てるような声がした。もちろん、本物のアヒルなどではなく、アヒルによく似たあの男である。僕の姿を見つけると、慌てて駆け寄って来た。そして、僕の肩を掴むと、脳みそが飛び出してしまうくらいに揺さぶるのだ。
「ああ、良かった、無事だったんだね、心配してたよ」
なんとかアヒルの手を肩から引き離して、ふらふらする頭を抱えた。その所為ばかりではなく、あまり進展のない脚本の進行状況に、気まずい思いも手伝って、僕はわざとアヒルと目を合わせないようにした。
「はい……すみません、ずっと姿を見せなくて。でも、それほど心配してもらえていたとは、感激だなぁ……。そんなあなたの真心に反して、仕事の進行具合は芳しいとは言えませんが」
「いや、それもあるけど、心配していたのはそういうことじゃない。そんなのは今更だ。わざわざ改めて言うようなことじゃない」
「じゃあ、何なんですか?」
あれほど焦り、急を要していた脚本の修正を『今更』と言わせる出来事。一体何だと言うのだろうか。アヒルはごくりと唾を飲み込んだ。手に汗握り僕は待っていたのに、彼はもったいぶって、たっぷりと間を取る。宿の主人までもが、興味深そうにちらちらとこちらを伺っているというのに。それでも、恐らく時計の秒針が一周するかしないかくらい経った頃に、神妙な面持ちで、アヒルはゆっくりと口を開いた。
「何だと思う?」
それでもまだ言う気は無いらしい。
「だから、何なんですか、って聞いているでしょう」
このイライラにも、もっと慣れるだろう。いや、慣れなくてはいけない。この劇団の一員になるのならば。けれど、アヒルはこの僕の大人らしい、辛抱、という言葉を打ち砕く一言をくれたのだ。
「君はまったくせっかちなばかりで、遊び心が無いね。詩人ならば、真相を聞く前に少しぐらいは洒落た想像を言ってみたらどうだい」
「………ふむ、なるほど」
負けず嫌いな僕は、そう言われて黙っているわけにはいかない。詩人という肩書きのプライドにかけても。
「そうだな……。あそこの階段の踊り場辺りで、とびっきりの美女を見つけたんじゃないですか?今にも消えそうなくらい儚げで、色白で、長い髪が開いた窓から吹きつける風に遊ばれて踊っている。君は興味本位で彼女に近づいてみた。益々、その色の白さ、線の細さは際立って、まるで幻のようだ。近づけば、近づくほど、はっきりしてくる。透けそうなほどの色素と存在の希薄さ。それもそのはず、彼女に息が掛かりそうなところまで近づいて、君は気付いたのさ。……透けそうな、ではなくて、その頬の向こうが、透けて見えることに。君はその女の正体を脳で察知する前に、五感で察知して、思わず悲鳴をあげてしまった……」
「ぎゃあああああ!」
アヒルは、アヒルが首を絞められたような声で悲鳴を上げた(ここでは、『ぎゃあ』と記させてもらったが、正確には『グエッ』と『ギャア』の間である)。まだ、それほど驚くようなことを言ったつもりはないのだが。仕舞いにはガタガタと震え出してしまう。そういえば、彼が酷く驚きやすい人間であることをすっかり忘れていた。
「何だ、やっぱりこういう話は苦手でしたか?」
「いいいい…いいや、べ、別に…そんな、そんなことはなななな…ないさ」
震えながらも、彼は強がりを言う。
「そう……」僕は、意地悪くにやりと笑って見せた。「それなら、まあ、落ちついて、続きを聞きたまえ。……悲鳴を上げるなんて、愚かなことだよ。そのままそっと、物音を立てずに逃げ去れば良かったのに。半透明のその女に、気付かれてしまったじゃないか。彼女は振り向いて、ぽそりと、君に、そう、他の誰でもない、君に言ったんだよ。……私のことが見えるなら、ねえ、あなた、聞こえるんでしょう、私の声も。お願いだから聞いて…………ああっ、ほら、今も、君の後ろに……」
びくりと、肩を波立たせて振り返ったアヒルは、そこに誰もいないのに、またアヒルが首を絞められたような悲鳴を上げた。
「ぎゃあああああ!」
その声に、楽器の音も、絵を描く筆も、掃除の箒も、止まってしまう。が、それも一瞬のことで、他を気に留めぬここの面々は、直ぐにまた自分の仕事に戻っていった。しかし、アヒルは驚きのあまり、しばらく固まったまま動かなくなってしまう。こういう時は、そうだ、ひたすら待つしかないと、マリ、もとい、今日の名前で言うならばユリが言っていたではなかったか。
そういうわけで、また待つしかないのだ。だが、ここまで来ると、アヒルが一体何を言おうとしていたのか、それもどうでもよくなってくる。僕も、自分の仕事にそろそろ戻ろうか。そう思い始めた頃に、アヒルは徐々に正気を取り戻した。
「い、一体、どどど、どういうつもりだ」
「驚かせて悪かったけど、君が最初に、気の利いた作り話の一つもしてみろって言ったんじゃないか」
「た…確かにそんなことを言ったけど、それはつまり、言い当てろ、ってことじゃないんだよ」
アヒルの言いたいことがさっぱりわからない。また、その手がガタガタと震え出す。
「と、いうと?」
「ああ、もう、君はなんて頭の硬いわからず屋なんだ。僕は、君に作り話をしろって言ったんだ。僕が言おうとしていたことを当てろ、って言ったんじゃない」
「つまり……本当にゴーストを見たと、そういうことかい?」
震えながらも、アヒルはゆっくり何度も頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます