五通目の手紙
「約束?」
「はい、あの男との。私は確かに消極的な人間ではあったけれど、もともとはこんなじゃなかった。……話を遡れば長くなりますけど……ある時、私が元々住んでいた街に、劇団がやって来たんです。私も少なからず興味があったもので、なんとはなしに見に行ったら……それが、芝居とも呼べないような、筋書きも何も無いめちゃくちゃな話で……我慢ならなかったんです。一体どこの誰がこんなものを書いて、劇作家だなどと言っているんだろうと」おどおどしながらも、血の気の無い拳に力が入り、震えていた。そして、弱々しい声ながらも、言うことはなかなかきつい。「そこで、帰ったらすぐに私はその苛立ちを原稿用紙にぶつけたわけです。怒りと情熱の迸るままに書いた、確かにどこか拙いところはあるけれども、瑞々しい傑作です」
「自分で言い切るんですね」
「自分で言い切らずにどうします。自分で傑作と呼べないものをどうして人に見てもらうことなんてできますか」
「でも、どこか拙いとも、自分で言っていたじゃないですか」
そんな僕の屁理屈を、彼女の耳は都合よく受け付けないようで、勝手に話を続ける。
「だから私は、書きあがった原稿をどうにかあの劇団に送りつけてやろうと思ったんです。出来れば目の前で叩きつけてやろうと。本当に面白いものとはこういうものだと。そう、意気込んだまでは良かったのですが……」彼女の熱と勢いは、そこで急速に萎んでいった。「いざ彼らが根城にしていた宿までたどり着くと、さすがに怖気づいてしまって。……わかるでしょう、今のこの宿の有様を見れば」
「……ああ……ああ……そう……ですね」
僕は深く頷かざるを得なかった。僕の同意に、彼女は若干の喜びを感じたらしく、またその顔にほのかな熱が戻ってきた。
「どこに行っても、彼らはこの調子なんです。私がいた街でも、こういうような寂れた宿をこういうふうに自分たちの色に好きに染め上げて……なるほど、支離滅裂なシナリオの演劇をやるわけだと納得もしましたけどね。もしかすると、これでは逆に私の崇高な作品がめちゃめちゃにされてしまうかもしれないと……怖くなったんです」
「なるほど」
「そこで、諦めて逃げ帰ろうとしていたところに、彼に出会ったんです。彼は面白がって私を引き留めました。お前さん、何か用があるんだろう、そう言って。気障ったらしい笑みが、余計に私に不信感を与えたわけですが…………」
この後、彼女はややしばらく、彼についての不信感や不満を語っていたが、飽きてしまうといけないので、割愛させていただこう。もし、不眠症に悩まされていて、睡眠導入剤を欲している人がいるならば、この話を一言一句漏らさず書きしるしておけば、あっという間に心地よい眠りに落ちることが出来るだろうと思うのだが、それは互いの為に避けた方がいいだろう。書く労力、読む労力、双方が徒労になるというものだ(以上の説明をするためのこの口上そのものも、長くなりすぎてしまったので、眠気を誘う一因にならないことを祈るばかりである!)。
さて、彼女の話に戻ろう。
「仕方なく私は、話して聞かせました。まず、いかにまずかったかという劇の感想から始まり………………」
その後の話も、作家の習性故か、丁寧に批評を説明してくれたのは良いが、その分やたらと長ったらしくなったので(時間にして三十分ほどはかかっただろうか。皆さんにはそれにお付き合いいただく程の余裕はないでしょう)、僕が簡潔にまとめて説明をした方がいいだろう。
彼に劇団の演劇に対する感想とここへ来た経緯を話すと、ちょうどそのまずい劇を書いた作家は、突然に劇団を離れたのだという。だからちょうど良かったと歓迎されたそうだ。彼女の書いた作品を読みもしないうちから。
そこで男は言ったのだ。面白いかどうかは関係ないのだと。元の脚本がどうであろうと、そこに台本があれば、あとは役者たちがどうにかすると。
やっぱり、彼女が抱いた不安通りのことが起こるのだ。それならばこの原稿を渡すわけにはいかないと拒否をしたが、それでも、彼はどうしても劇団は誰かの脚本を欲していると逆に熱心に彼女の抱えていた原稿を欲しがったという。
それなら、そんなものを自分の作品とは言われたくないので、私の名前を出さないでほしい、と、彼女は訴えた。まあ、作家とすれば当然の言い分かもしれない。
彼も、それはそうだろうと、訳知り顔で親身になったふりをして頷いてくれたそうだ(もちろん、彼女はそんなことさえ怪しんだけれども)。それならば、それならば、と、押し売りのセールスマンのように言うのだ。
俺が書いたということにすれば問題ないだろう。
なんて失礼なことを言う人だろう。一瞬は彼女もそう思って憤慨した。しかし、よくよく冷静になって考えてみると、それは悪い話ではないかもしれない。せっかく書いた可愛いわが子が、このまま無に帰すこともなくなるのだから。それに、なんといっても相手は役者であるし、周囲を欺くことなど容易にやってのけてくれるだろう。
ただ、彼の演技がいかほどのものであるか知ると、その望みも儚く消え去ってしまったのだが。
それに、結果的にはやはり、彼女の書いた物語は跡形もなくずたずたに切り刻まれた後、まるでかみ合わないパズルのピースを無理矢理はめるように、筋も何もなくちぐはぐに演じられたのだ。物語は浮かばれない。
彼女はますます悲観的になってしまった。替え玉がばれてしまったら、きっと劇団の連中は寄ってたかって自分をつるしあげるに決まっていると、そんな恐怖に始終取りつかれ、ついには一歩も動くことが出来なくなってしまったらしい。
しかし、そこは行き当たりばったりのいい加減な劇団である。気がついていないのか、怪しいと思っても気にしないのか、幸運にも、彼女の存在はばれずにここまできたわけである(或いは、ばれていても気にされていなかっただけなのか)。
ひとまず危機は去ったかに見えた。しかし、この二人羽織には、まだ他に問題があった。
彼は単純な親切心でこのような提案をしてくれたわけではないことを、彼女は後で知ることになる。
彼は表向きは自分が脚本を書いたという立場にあることを利用して、ちょくちょく自分の都合のいいように事を運ぼうとしたわけである。その一例が、今回の主役の座であろう。彼女の思惑とは違う形なるどころか、台無しにされてしまうこともあるのだ。そういった事実が発覚するたびに、彼女は苛立ちを募らせていったそうであるが、表立って訴えることが出来ない分、悔し涙を飲むしかなかったそうである。
そして今、そのような事情から去ってくれて喜ばしい部分も無くはないのだが、しかし、実体を失ったゴーストは、最早消えるしかないのだ。
「……なるほど。それで、あなたが部屋に籠もっている間に、彼はいなくなってしまったと」
「何てこと……」彼女は歯軋りをして、右手で自分の左腕を強く掴んだ。窓の外で闇の中に佇む木が風に揺らされ、ざわめいていた。「……私、どうしたらいいんでしょう」
途方に暮れた悲しげな声が部屋にぽつりと響いても、僕はこんなことしか言えない。
「残念ながら……僕は脚本家の椅子を返す気はさらさらありません。脚本の修正も……」
動物的な素早さで、彼女は机の上で大人しくしていた台本の元へ駆け寄り、それをしっかりと守るように両手で掻き抱いた。
「だめ、絶対駄目です!」
「僕に任せてくれれば、きっと悪いようにはしませんから!」
僕はなんとか奪い返そうと、台本の端を引っ張った。すると、彼女も負けじと引っ張り返す。もし、この紙の塊が声というものを持っていたら、悲鳴を上げていたに違いない。危うく、台本は真っ二つに引き裂かれてしまうところであった。それでもまだ互いに譲らず、引き合いながら、僕はなんとか彼女に諦めさせようと、語気を荒げてこう言い放った。
「影に隠れて自ら手を挙げようとしないものに、何かを得る権利も、主張する権利も無いでしょう。あなた自身が、それを一番よく知っているはずだ。……本当に僕からこの台本を奪いたいのなら、堂々と宣言したらいい」
彼女にしてみればただの略奪者である僕から、そんな尤もらしい言葉を聞くのは、腹立たしいだろう。そうでなければ、その事実に打ちひしがれるか、どちらかだ。彼女の場合は後者だった。言葉もなく、台本を押しつけるように僕に返してきた。そして、また窓から帰って行こうとするのだ。負けを認めて去るように。
「だから……何でドアから帰らないんですか」
「誰かに姿を見られないように」
その行動は、酷く僕の勘に障り、小さな苛立ちが自分の中に生まれたことを、僕ははっきりと自覚した。敵が尻尾を巻いて逃げるなら、それが一番良いに決まっている。だが、こうなってしまっては、それでは僕としてもすっきりしない。不戦勝は、勝利とは言えないだろう。
よしておけばいいのに、脳がそう忠告をする前に、口は勝手に動いてしまっていた。何故か、相手を鼓舞するような一言を発するために。
「あなたは、自分のことを、極端に消極的な人間だとおっしゃっていましたが、それは疑わしいものですね」
「え?」
彼女は驚いて振り返った。ぼさぼさの髪が、宙をさまよった。
「本当に消極的な人間だったら、こんなところに乗り込んでは来ませんし、そもそも、まずい演劇を見たからと怒りに燃えて、自分の脚本を叩きつけてやろうなどと考えるなんて、どこが消極的なんでしょうか」
窓枠に掛けていた足を、彼女は再び床に下ろした。
「そ、そうでしょうか」
「そうですとも。寧ろ、これほど大胆不敵な人間はなかなかいないでしょうね」
「……なかなかお上手ですね。でも、その手には乗りません。もういいんです」
「そりゃ残念だ。生きていくには、それくらいがいいと褒めているのに。どうせなら、その執念を最後まで見せてみたらどうですか」
「……いいんですか、そんなことを言って」
それは僕が自分自身に問いたいところである。鋭い光が走った彼女の両目を見て、僕は肩をすくめた。
「どうするにしても、手始めにこのドアを通ってみたらどうですか。どうせ今なら皆夢の中でしょうから、あなたが廊下を通っても気がつきゃしません」
一つ扱いを間違えば壊れそうなドアを、僕は慎重に開けて、彼女を送りだした。彼女の足は躊躇ってなかなかそのドアを潜ろうとはしなかった。ようやく決心が固まり、一歩、二歩と歩き出しても、時折こちらを振り返り立ち止まってしまう。しかし、僕はまた例の偏屈さを発揮して、見届けることはせず、さっさと扉を閉めてしまったのだった。だから、彼女がちゃんとそのまま廊下を通って部屋に帰り着いたかは知らない。
「自分で問題をさらに増やしてどうするんだ……」
呆れたように、自分自身にそう言ったのが最後で、この夜のその後のことは、よく覚えていない。気がついたときには日が昇って、僕はペンを握ったまま机に伏していた。
全て夢であってほしいと、そう願ったものである。
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