四通目の手紙
通された部屋は、外の木に日を遮られて、まだ明るいはずの時間帯でも薄暗く、壁紙が剥がれていたり、窓枠は錆びていたり、床に敷かれた絨毯は擦り切れて虫食いだらけである。おまけに、カビの匂いが、ツンと鼻にまとわりついてくる。つまり、元々この建物が持っていた姿を、劇団の連中に侵されることなく保っていたということだ。だからこそ、ますますもってして、囚人になってしまったのではないかというような錯覚を起こさせるのだ。せめてもの救いは、狭くはなかったということであろうか。閉塞感がないだけマシであろうと自分に言い聞かせた。
二人は、僕が書きものをするための環境を素早く整えてくれた。とは言っても、必要なものは紙とペンだけであるが。あとは、部屋の使い方の注意事項をいくつか教えてくれた。水道管が錆びて脆くなっているので、日に何度も水が止まることがあるし、時には赤い水が出て来るから気を付けるように(でもその際に具体的にどうしろというアドバイスは無く、ただ諦めろ、それだけである)、とか、ドアのカギはあってないようなもので、掛けたとしてもドアそのものが脆くなっているので、ロックをしたところで簡単に壊せるから無意味なので、安全には気を付けるように(どのように気をつけたらいいのかは、具体的には対策は無く、ただ気を付けるしかないらしい)、といったことである。
そして、最後に一つ。
「そうだ、最後に一つ忠告しておきますけど、くれぐれも、真夜中過ぎに窓から外を覗かない方がいいですよ」
「え?」
「いるんですよ、アレが」
「アレって?」
「わかるでしょう、こんな古くてボロボロの建物には付きものの……」明言せぬまま、アヒルは身を震わせてそこで終わらせてしまう。「とにかく、気を付けてくださいね」
「はあ……」
しかし、人間の心理として、そのような有り難い忠告は、却って好奇心を刺激することになるのが常である。特に、僕のような天の邪鬼な人間にとっては。
そういうわけで、ちょうど日付が変わった頃、切れかかって薄暗い電球の下で、僕は台本と睨みあっていた。人数が足りないのならば、いくらか登場人物を削って、余剰を出した上で配置換えをするのが一番であろうと、そう考えついたまでは良かったのだが、なかなか良く出来た脚本で、思っていたよりも人物同士が複雑に絡み合っていて、削るべきものを見極めるのもなかなか困難なのだ。どこを減らしても、話が崩れてしまう。
にっちもさっちもいかなくなった時、ふと窓の外に目をやると、アヒルの忠告が頭を過った。何の明かりもなく、暗闇の中時折吹く風に揺らされる柳の木が月明かりをも遮っている。いくらおあつらえ向きの場所であるとは言え、まさか幽霊でも出ると言うのだろうか。そんな馬鹿なことがあってたまるか。
湧き出た疑念を振り払うように、僕は何度か頭を振って、また台本に集中しようとした。ところがその時に、その暗闇の中でうごめく何かを、僕の目は確実に見咎めた。
気の所為だと思いたかった。もしくは、悪い夢でも見ているのだろうと。きっと色んな事があって疲れているだけだと。しかし、どうしてもそのような都合の良い無視の仕方をさせてはくれなかった。その影は、確実にこの部屋の窓に近づいてきているのだ。
この時ばかりは、自分の好奇心の強さを呪いたくなった。頭が考える前に、僕の手は、一体何が起きているのかを知りたがり、窓を開けていた。ひやりと、冷たい風が舞い込んで、思わず身震いをした。しかし、闇に眼を凝らしても、先ほどの、何がしかのうごめく影の姿は見つからない。
なんだ、やっぱりただの気の所為か。一瞬、気が緩み油断した。そして僕はすっかり失念していたのだ。大概の劇や小説や映画において、そういった不審な影は、このように一度気を抜いた時にこそ急襲してくるのが王道であると言うことを。何よりも、僕が書くとすれば、間違いなくそういった小ずるい手段を使うだろう。そして、現実にもそのセオリー通りのことが起こったのだ。
窓を閉めようとしたその時に、突然、窓枠から青白い腕が伸び、ペンを握っていた僕の右手を強く引いたのだ。
衝動的に僕は、例のアヒルが驚いたような声を上げていた。一体どうやってそんな声を出したのか、自分でもわかりかねるので、再現をするのは不可能であるが。
腕を掴む手の力はどんどん強くなっていく。どう見ても、華奢な女の手であるのに、動かすことが出来ないほどに締め付けられ、力の抜けた僕の手はペンを床に落としてしまった。だが、それが今何の問題になろうか。このまま窓の外へ引きずり出されるのではないかという懸念が過り、必死に振りほどこうとするが、どうにも敵わない。
身の危険と共に、この力に、怨念や執念のようなものを感じ、馬鹿馬鹿しいゴーストの存在を僕は認めざるを得なくなった。もし、冷静沈着な心を持って今これを読んでいる方らならば、鼻で笑うだろう。しかし、人間は危機に陥ると、どんなに馬鹿馬鹿しいことでも信じてしまう、弱く悲しい生き物なのである。ここは一階なので、万が一引きずり出されても大した怪我もせずに済むだろう、そんなことにもまた、気が付けぬくらいに。
やがて、聴きとれぬほどの小さく弱々しい声が、何かをしきりに訴えていたが、はっきりとはわからない。だが、何度も繰り返し、繰り返し、消え入りそうな声で言っている。
出来れば聞き届けてやりたいが……いや、そんな親切心を呼び起こす余裕などなかった。或いは、言いたいことがあるならはっきり言いたまえ、という苛立ちならば、多少はあったかもしれないが。腕を締め付ける手の力だけは、どんどん強くなり、訳も分からず僕を焦らせるばかりであった。
だが、ある瞬間。
「駄目、書き直すなんて許さない、絶対許さないから!」
今度ははっきり聞こえた。そして、自分でも驚いたが、僕にはまだそれに対して返事をするくらいの正気はあったらしい。後で思い返せば、こんなに冷静に返答をしていたのが、むしろおかしいくらいである。
「い、一体君は何の権利があってそんなことを言うんだ」
「権利?……あるに決まってるでしょう、私が書いたんだから」
「嘘を言っちゃいけないよ。前任の脚本家は男だったと聞いている。それに、何よりも君はもうこの世にいないんだ、諦めたまえ」
しばらく沈黙が続いた。不意に手の力が緩んだので、僕はその隙に振り解いて、ようやく逃れることが出来ると、窓から距離を取った。
どういうわけか、ゴーストは困惑しているようである。それまで、悲痛で恨めしそうだった声も、不意にその色を変えた。
「この世にいないですって?……私はちゃんと生きているわよ」
「へ?」
血の気のない両手が窓枠にかけられ、なんとか身を乗り出して部屋の中に入って来ようともがいている。僕は咄嗟に、さらに窓から距離を取るために身を引いたが、そんなことが何の役に立とうか。暗闇から現れた長い乱れ髪の頭が、上半身が、そしてついに全身が、窓を超えて室内に足を踏み入れた。
無意識に、僕は再びアヒルの驚いたような声を上げてしまった。再度言うが、自分でも一体どうしてそんな声を出すことが出来たのかわかりかねるが。女のゴーストは、一歩、また一歩と、じりじり距離を詰めてくる。一体、いかなる運命がこの先自分を待ちうけているのかと、考えることを僕の脳は拒否をしていた。ただ目を閉じて、神に祈るばかりである。こういう都合のいい時にばかり神に縋る、無神論者の例に漏れず。
さて、皆さん、僕がこうして目を閉じて、不誠実な祈りを神にささげている間に、このゴーストは一体何をしていたか、当ててみてほしい。怒らないでいただきたいが、多分、どれも不正解だろう。
正解は、僕が床に落としたペンを拾っていた。
ほら、だから、これを当てられた人はいないだろう。もしいたら、僕の代わりにこの続きを書くといい。
「ペン、落としましたよ」
「……え?」
そう言われて、僕が恐る恐る目を開けると、呆けている僕にペンを手渡す。女のゴーストが僕にしたことは、僕を殺すどころか、そんなちょっとした親切であった。おかげで、余計に力が抜けて、せっかく渡してもらったペンを、また落としてしまった。そして、獰猛に襲いかかって来るどころか、おどおどしているではないか。
「何でそんなに怖がるんですか。人間だって言ってるでしょう」
「に、人間……?」
「そうです。勝手に殺さないでください。それに、幽霊なんているわけないじゃないですか」
「で……でも、人間だったら、普通にドアから入って来るものだろう」
「す、すみません。皆が、脚本を書き直すだとかって騒いでいるのが聞こえて、様子を窺おうと思っただけだったんです。でも、いてもたってもいられなくなって……私があれだけ苦しんで書いたものを、勝手に書き換えられるなんて……」
今にも泣き出しそうな声で、情けなく彼女は訴える。その姿を見ても、まだ生きた人間であるとは信じ難い。酷く血色が悪そうに青白く、もし生きている人間だとすれば、どこか患っているのではないかと思わされるほどであるが、しかし、あの腕の力を思い起こせば、これで彼女は健康体なのだろう。それにしても、どちらかと言えば小柄で余計な肉は一切無さそうなくらい細く、栄養が足りていなさそうなこの女のどこにそんな力があるのか、不思議でならない。それが余計に、ゴーストなどという未知の存在を連想させるのであるが。
「そ、それにしたって……どこのどなたか存じませんが、あなたがこれを書いた、とは、どういうことですか」
恐る恐る目を合わせると、彼女はふるふると、羊のように震えている。そして、真っ黒な二つの目が、怯えるように僕を見ていた。そして、過呼吸になるのではないかと思われるほど、何度も何かを言おうとして、息を吸い続けることだけをしていた。言葉と同じように息も吐き出されないのだ。涙をこらえているのかもしれないが。
「あ……あなたこそ、い、一体誰ですか」
たっぷり時間をかけてようやくそう言っても、さっきまでの言い知れぬ迫力や、執念のようなものはどこへやら、まるで人見知りをする子供のように、向かい合った僕のことをまともに見ることすらできないようである。むしろ、怯えてさえいる。おかげで、僕の中の恐怖はすっかり消えてしまった。
「ああ、失礼しました。僕はこの劇団の脚本家です」
「違います、それは私!」
今度は急に強い調子になる。この主張は、絶対に譲らないらしい。一つわかった。
「だから、それをどういうことなのか説明してください」
「わ、私こそ、せ、説明してもらいたいです」
また、おどおどしてしまう。その繰り返しである。会話も同じ繰り返しで、堂々巡りだ。お互い主張しあっても、話が先に進まないだろう。ここは冷静にならなくては。
「劇団の脚本家がやめてしまって、困っているということで、僕に声をかけていただいて、ここにいるのですが」
「や、やめた?」
「ええ。そう聞いています。何でも、役者として、もっと大きな劇団から引き抜きがあって、そっちの専属になったようです」
「そんな馬鹿な………。どこの劇団があんな大根役者を欲しがるって言うの」
極端に内気ながらも、言うことはなかなかはっきり言うらしい。また一つわかった。
「僕は見たこと無いので、何とも言えませんが……そんなはっきり言わなくても……。でも、主役だったんでしょう、この劇では」
「そうですけど……私はそのつもりで書いたわけではありません。私が知らないと思って、あの人が勝手に自分でそうしただけでしょう。その上、いつの間にかいなくなっただなんて……私が部屋から出られないのをいいことに、なんて勝手なのかしら」
酷いじゃない、酷い。ぶつぶつと、彼女はやり場の無い怒りを、足元の絨毯の虫食いの穴にぶつけるように、呟き続けた。まるで、その虫食いさえも彼の所為だと言わんばかりに。その様子は、やはり彼女はゴーストなのではないかという疑念を再び抱かせた。
「あの……申し訳ないですけど、事情がさっぱりわからないので、そろそろちゃんと説明してもらえますか」
なるべく彼女を怯えさせないように、声を抑え気味に言った。また彼女はややしばらくためらった後、僕とは目を合わせないように俯いたまま、ぼそぼそと呟く。人に聞かせると言うよりは、独り言に近い。
「そうですね……私は確かに人間ではあるけれど、ゴーストです。簡潔に言うと、ゴーストライターなんです」
「え?」
「表向きは、いなくなったあの男が書いたということになっていたのですけど、実際には私が書いていたんです」
なんと、ゴーストのようなゴーストライターとは。もしくは、ゴーストライターが本当にゴーストのような風貌をしているとは。いや、どちらにしても、驚くべきところはそこではない。もっと根本的なところだろう。
「何故またそんな……」
「私は、極端に消極的な人間なんです。そう、彼がヒマワリだとすれば、私はそのヒマワリが作り出す日陰。それで充分なんです。表に私の名前を出すなどと、とんでもない!」
「じゃあ、ずっと二人でやってきたんですか」
「いいえ。彼は私よりも先にこの劇団にいました。この劇団の人間はたいていそうですが、どこの誰かも素性も知れない人間が、ある日突然ふらりとやって来ることが度々あるんです。彼もまたそうでした。人も少ない劇団ですし、素性どころかその技能や経験などもほとんど問わずに雇ってしまうんです。だから、ろくに調べもせず、やってきた途端にあっさりと採用されてしまったそうです」
「……なるほど」
改めて自分のこの現状を考えてみて、僕は深く納得してしまった。全てが成り行き任せであるような気はしていたのだが、本当にそうらしい。
「私は私で、書いたものをなんとか見てもらおうと思っていたんですが……何せ、私は部屋から出られないので……」
「何でですか」
やはり、何かしら病気を患っているのだろうか。僕はそう思ったのだが、返答はまったく別のものであった。
「そういう約束だからです」
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