三通目の手紙

 翌日になり、僕は早速噂の宿へ向かうその途中で、向かいの犬の様子を覗い見た。眉毛はないのには一安心したが、やはりこの犬も六年という歳月を確実に歩んできており、年老いて、ボス犬の威厳は消え失せてしまっていた。僕が挨拶をしても、だるそうに目を動かしただけである。それが僕を切なくもさせたが、しかし、この時の流れにはいい面もあって、それは、眉毛を描く悪戯をしていた少年もまた、六年の時を経て、もうそんなことをするような少年ではなくなっていることであろうか。(さあ、これで気は済んだ。それではいよいよ、お待たせしている本題に入ろうではないか)


 犬に再度挨拶をして、先を急いだが、僕の記憶の中にあったあのボロ屋敷の場所がいい加減であったために、危うく通り過ぎてしまうところだった。それらしき建物も見当たらなかったからだ。それも無理はない。


 姉の言葉によれば、劇団の一行は、この宿を蘇らせたそうであるが、もっと正しい言葉を使うのであれば、好きなように作り変えた、であろう。


 建物そのものは、依然としてボロボロのままであった。そして、犬もよりつかぬ異様な雰囲気を放っているのも変わらない。しかし、同じ建物だとは気がつかないほどに、まったく様変わりしているのは事実である。異様さと表現されるものでも、明らかに種類が異なるものへと。元々は、一歩踏み入ればもうそこから出ては来れないのではないか、自分を迎えてくれるのは、魑魅魍魎のこの世ならざるものであるだろう、そう思わせるような、言ってしまえば正しい不気味さであった(もし、不気味さにも正しさというものがあるのだとすれば、であるが)。しかし、今の姿には、そのような陰気さは一切ない。むしろ、過剰な陽気さが異様と言えるのだ。好き勝手に生えるままにされていた雑草が綺麗に抜かれていたところまではいいだろう。問題はそこから先だ。古さゆえに微妙に歪んだ屋根は真っ赤に塗られ、以前はなかったはずの、これまた歪んだ煙突がついている。以前はなかったと言うことは、これは何の意味も成さぬただの飾りであろう。外壁も白く塗り替えられていたが、ところどころに、何の意味もない所に黄色や紫のラインが引かれている。もし、ここにロジャー・ラビットが住んでいると言うのなら、思わず納得してしまうだろう。だが、僕は決してアニメの中にいるわけではなく、現実の世界に立っているのだ。この建物はあまりにも浮き立っていた。


 一瞬目眩がしたが、僕はすぐに気を取り直した。昨日の話も思い出しつつ、自らにこう言い聞かせたのだ。


 よし、それならばそれで、何が飛び出すか楽しみというものじゃないか。


 扱いに気をつけなければ壊れてしまいそうな歪んだ扉を慎重に開けて、中に一歩踏み入ると、そこから異世界は始まっていた。ただし、アニメの世界のように友好的どころか、他を全く意に介さず(ということは、拒絶されているわけではない。ただ、受け入れられもしないのだ)その空間は存在していた。


 一見しては何が描かれているのかわからない抽象画が、壁のいたるところに飾られていたり、天井や床から突然に、正体不明のオブジェが(これは僕にとっては屈辱であるが、どうしても適切な表現を見つけられない。この世の既存の何かに当てはめて例えることも出来ない何かであるとしか言えない。なので、各人好きなように思い浮かべてもらいたい)掛っていたりするもので、僕の目はどこをどう捉えるべきか迷うばかりである。謎のオブジェはいたるところに置かれている。廊下とは、人が通行するための場所であるが、通る人の邪魔にならないように、などという配慮は一切無い。僕はこれっぽっちも気にされていない。そいつらはそいつらで、誰に何を言われようが、好きにそこにいて、誰がいつ通り過ぎて行っても、どうでもよさそうに澄まし顔をしているのだ。たとえ迷惑がられようが、煙たがれようが、お構いなしだ。ひょっとすると、褒めてやると話は別かもしれない。そんな気には到底なれないが。


 そういうものを巧みに避けながら奥へ進むと、それぞれの『自己』しかない空気は色を濃くして行く。


 今度は物ではない。生き物だ。思っていたよりは広いロビーでは、大声を上げて歌うもの(御世辞にも上手いとは言えない)、その歌と合わせるわけではなく、それはそれとして、何かしらの楽器を弾いているものが数名(それぞれの音は、バラバラだ)、そんな騒音をまったく意に介することなくすやすやとソファーで眠るもの、絵を描くもの(ここへ来るまでの間にあった芸術品や、建物の外観は、この人によるものだろう)、うろうろとロビーの端から端まで歩き回りながら、ぶつぶつと何か呟いては時折立ち止まる人(片手に台本のようなものを持っていたから、きっと演劇の練習か何かをしているのだろう)、それらの人々を邪魔臭そうに箒で突付きながら掃除をするもの、毛を逆立てて、我々人間の目には見えぬ何かに怒りをぶつけている猫、それらにたまにちらちらと目をやっては、また素知らぬ顔をして居眠りをする犬……全ての生き物が、好き好きに生きていた。


 さて、これは一体どうしたものか。誰かに声をかけても果たして答えてもらえるか、それすらわからなかった。だが、思い切って、一番近くにいた男の肩を叩いてみた。だが、これがいけなかった。その男は、正しくアヒルが驚いたような声を上げて飛び上がってしまったのだ。なるほど、確かにこれは、ガアッ、と、ギャアッ、もしくは、ギョッ、それらの間で、決して日本語にある音ではない。


 どうやら昨日イタチの父親が聞いた声と言うのは、本物アヒルではなく、この男のものだったようである。振り返ったその顔までもが、アヒルによく似ていたと言ってしまえば、ひょっとしたら本人は傷つくかもしれないが、彼の名前を知るまでは、申し訳ないが仮に『アヒル』と呼ばせてもらうことにしよう。


 彼の驚き様に、僕の方も驚いてしまい、やや暫く石のように固まってしまった。


「お……驚かせてしまって申し訳ありません。劇団の方ですよね」


 気を取り直してそう言っても、アヒルは、僕以上に驚いて、石膏像なのかと思う程、動きの全てを失っていた。その後も、何度か、すみません、もしもし、と声をかけてみても、さっぱり反応がない。


 途方に暮れていると、ロビーの正面にある階段から、長い髪を炎のように赤い色に染めた若い女が降りてきたので、僕が助けを求めるように視線を投げかけた。すると、有り難いことに何も言わずとも彼女はこの状況を察してくれた。滑るような優雅な動きで、素早くこちらへやってくる。


「ごめんなさいね、この人過剰に驚きすぎるのよ。いつものことですから、あまり気にしないでください」


「そうとは知らず、申し訳ありませんでした」


「謝る必要なんてないですよ。あなた、見ない顔だし……知りもしない人間のそんなことを、誰がわかるもんですか。大丈夫です、急いでいるわけじゃないなら、辛抱強く待っていれば、そのうち元に戻ります。急に不調で止まった機械だとでも思っていただければいいんです。でも、叩いたり揺すったりするのは逆効果なので、厳禁ですよ」


「はあ……」


 この酷く驚きやすい男の取扱説明を、こんなにのんびりと聞いている場合なのだろうか、そう思いながらも、成す術もなく僕はアヒル男が回復するのを待っていた。赤い髪の女もまた同じである。


「あ、申し遅れましたが、私はこの劇団で役者をやっています、マリと申します」


 のんびりと、自己紹介をされてしまった。僕もまた、自分の名を名乗り、まるで僕がアヒルに声をかけたことなど無かったかのようである。


 しかし、この和やかな空気も長くは続かなかった。辛抱強く待つしかない、そう言ったのは自分であるはずなのに、彼女はだんだんと苛立って来ていたのは明白であった。とんとん、と、落ち着きなく、飾り気のない黒いパンプスのかかとを鳴らしている。そして、終いにはその苛立ちは言葉になって現れた。


「ちょっと、ただでさえも時間が無いのに、いつまでそうしているつもりよ!」


 このままアヒルを蹴飛ばしかねないのではないかと心配になったが(それは厳禁だと言っていたはずなのに)、間一髪、その前にアヒルはようやく深く息を吸い込んで、その動きを取り戻した。


「だ……誰だ?」


「劇団の脚本家として雇われたものです」


「ああ、それじゃ、あなたがあいつの代わりですか」


 ようやくまともな会話ができるまでに、アヒルの精神は回復してきたようである。そういえば、本物のアヒルも、とても繊細で臆病な生き物だと聞いたことがある。なるほど、もし、彼が人間の姿を借りたアヒルだと言われても僕は疑わないだろう。誤解しないでいただきたいが、決して彼を卑下しているわけではない。ただ、良く似ているとそう思うだけである。もちろん、これは胸の内だけに留めておくつもりであるが。しかし、口を尖らせて、不平を述べる姿などは、誰も僕のこの感想を否定は出来まい。


「まったく迷惑だよ。逃げるように急にいなくなるんだから。脚本だけならともかくね、役者もやってたもんだから、困ってるんですよ」


「そうだったんですか」


「ええ。何でも、もっと大きな劇団から声がかかったとかで。……あなたは演技はやるんですか?」


「いいえ、やりませんね。そもそも、劇団の仕事も初めてなもので」


「そうかぁ……よし、でも大丈夫。人間、やれば何でもできる」


「……え?」


 彼は何度も僕の肩を鼓舞するように叩いた。


「それがこの劇団のモットーです」


「はあ……しかしですね、やはり人間には向き不向き、可能不可能というものが……」


 僕が途方に暮れてしどろもどろと、言い淀んでいると、マリはまたアヒルを怒鳴りつけた。こちらは、だんだんとその髪の色と黒い靴から、童話に出て来る魔女を僕に思わせるようになってきた。


「適当な嘘ばっかり言うんじゃないわよ。この人に舞台に上がってもらうより、脚本をちょっと書き直してもらう方が早いんじゃないの」


「なるほど……それもそうだ」


 まだそれならば、何とかなるかもしれないと、僕は胸を撫で下ろした。


「で、どの役なんですか、修正が必要なのは」


「主役だよ」


 実にあっさりとアヒルは言ったが、事態はそんなにあっさりしたものではない。あっという間に、希望の火は消えてしまいそうになる。今現れたばかりの素人に、いきなりそんなことをさせようと考えてしまう程、場は混乱しているらしい。この混乱に引きずり込まれて、僕も上手く頭が働かなくなってしまう。言葉ももつれ気味になる程に。


「そ、それは……す、直ぐには……直しようがありませんね。何故他のちゃんとした役者の代役を立てないんですか」


「いればやってるわよ。人数が少ないのよ、小さな劇団だし。それなのに、登場人物がやたらと多い話を書くだけ書いて、とんずらされたわけ」


 神経が高ぶった魔女、いやマリは、ぴりぴりと鼓膜を刺激するような金切り声を立てた。


「ああ……そりゃ大変だぁ、困りましたねぇ」


 最早、それ以上言葉も出てこない。僕は手元で無意味にぱらぱらと台本を捲るだけ捲る惰性を繰り返した。そうしていれば、何か名案が生まれて来るわけでもあるまいに。だが、僕に注がれた四つの目は、期待に輝いている。


「あの……そんな目で見られても、何も……」申し訳なく思いながら、おずおずとそう言うも、二人の目から期待の色は失せない。「……来たばっかりの僕に期待されても困りますよ」


「でも、あなた、そのために来たんじゃないの?」


 正論という名の針でちくちくと突き刺すようなマリの言葉に、良心が痛む。


「いや、それはそうですけども……詳しい事情はほとんど聞いてなかったので、今日はほんのご挨拶に立ち寄っただけで……」二人の眼の色は、期待から非難に変わった。もうそんな言い訳は通用しないようである。具体的に何も策は無くとも、僕は頷かざるを得なかった。「じゃあ、出来るだけのことはしてみます」


 そう言うや否や、トランペット奏者がこの話を聞いていたのかどうか知らないが、祝福の音のようにトランペットが高らかに鳴らされた。それに釣られたように、各人それぞれに、それぞれの喜びの音を、或いは言葉を、或いは色を、奏で、紡ぎ、塗った。さあ、輝かしい未来よ、来たれ!とばかりに。ただの騒乱のようであるが、しかし、案外とこの場でも他は歓迎されていないわけではないのだと知り、それは少しばかり僕の心に安堵感をもたらした。


 おかげで僕はすっかり英雄気取りになってしまったが、それは大きな間違いであった。あっという間に、真の自分の立場を思い知らされることになる。


「じゃあ早速、お願いします。確か一つ空いていた部屋があったはずだから、良ければそこを使ってください」


 言葉の上っ面だけをみれば、親切に場所を提供してくれたようにも聞こえるが、実情はまったく逆である。二人は有無を言わさず両側から僕の腕を掴み、引きずるように強制連行した。こうして僕は、半ば拉致監禁という形で、この宿の一室に閉じ込められることになってしまったのであった。

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