二通目の手紙
最初の手紙から三年ほど経って、今は彼も、本好きのとても利発な子に成長したので、僕が書く手紙も、彼が書く手紙も、平仮名だらけじゃなくなってしまったことに、感心するような、少し寂しいような。僕は複雑な思いでペンを取り、紙に向かう。
小さいイタチへ
※この手紙は、読み方を良く守って読んでください※
【読み方の説明】
①まず、部屋の窓を開けてください。なぜかというと、その部屋が暗いといけないので、外の明かりが必要だからです。もし、夜だったとしても、大丈夫。月の明かりも、充分に手紙を照らしてくれますから。
②絶対に、声には出さずに読んでください。そこにネズミでもいたら、びっくりして、ひっくり返ってしまいますから。それくらい、おどろくことが書いてあるのです。
③読み終わったら、そっと、静かに窓を閉めてください。春とはいえ、まだまだ夜は寒いので、風邪をひくといけません。でも、閉めるときは、くれぐれも、そっと、静かに、ですよ。
さて、これ以上のやっかいなあいさつは抜きにして(なぜって、それをやってしまうと、やたらと厚い手紙になってしまって、僕が手紙を投函するタイミングで回収にやってきた郵便屋が怒るからです。「お前さんが出しているのは、手紙だろう!小包じゃないんだ!」ってね。なんて怒りっぽいんだろうか。でも僕は、「君には仕事のしがいがあるというものじゃないか」と、至極平気な顔をして出すんだけれどもね。すると、相手もなかなかなもので、また言い返して来る……おっと、切りがなくなり、この郵便屋との喧嘩をまた繰り返す羽目になるから、この辺でやめておこう)今日は、君にお知らせがあります。
君がずっと見たがっていた、僕が見ているこの田舎の景色と、とうとう別れる決心をしました。それというのも……。
ああ、そうですね、もしかすると、おしゃべりな君のお母さんから聞いているかもしれないですね。でも、もしそうじゃないなら、おどろいてください。
なんと、君のお母さんの紹介で、そちらで仕事をいただけることになったのです。劇団の脚本家だよ!これは、詩人としての僕にとって、とても大きな飛躍になるかもしれません。この手紙を書いている間も、まったく落ち着かなくて、そわそわしてばかりで、書き直しも何度もしてしまっているくらいです。字だって震えてしまって、読み辛いでしょう(こんなことは、僕にはめったにあることではありません。なにせ、詩人なのでね)。
あまりにも落ち着かないので、すぐそちらへ行きますよ。
すぐって、いつかって?
すぐ、と言ったらすぐです。
君がこの手紙を読み終わるそのときに、きっとドアのチャイムが鳴るはずです。
もうおわかりですね?僕がそこにいるって。
さあ、窓を閉めて。この手紙もまた封筒に閉まって、階段を下りてください。
おじさんより。
とても素直な小さいイタチは、すぐに言われたとおりにするだろうとも。ほら、開いていた彼の部屋の窓が、閉まっただろう。すると、すぐにドアのベルが聞こえて、驚いて目をまん丸くしてるはずだ。そして今、急いで階段を下りていっているに違いない。
玄関のドアにたどり着いたときには、すでに彼の母親が、ドアを開けようとしたところで、手が掛けられたドアノブが捻られる。小さいイタチは、そのドアが開かれるのを、心臓がいつもよりずっと、どくどくと、早く動いているのを感じながら、待っているのだ。
ガチャリ。少し控えめに音を立てて開かれたドアの向こうに、僕の姿を見つけると、彼はますます顔を輝かせてくれた。やあ、僕のいたずらは、どうやら上手くいったようだ。
「どうして、どうして?」
挨拶もさせてくれないまま、彼はひたすらその言葉を繰り返し、僕の前で飛び跳ねていた。僕はできるだけこの作戦が上手く行った嬉しさを見せないように努めながら、そんな彼の頭を、二、三度撫でて、少し落ち着かせてやった。このままではまともに話もできやしない。せっかちなハチドリじゃあるまいに。
大人しくなったと思ったら、陽に透けたビー玉のような目で、じっと僕を見て、何か僕の口から言葉(それはきっと、こんな普通の挨拶なんかじゃないはずだ。『こんばんは、随分と久しぶりな気もするけれど、もしそうだとしたら、それは君の気のせいってやつだよ。確かに、姿を見てはいないけれど、毎週毎週、手紙をせっせと出して、君は僕の隣にいたようなものじゃないか』)が出るのを待っているようだ。けれど、意地悪な僕は、彼が期待している言葉を、あえて言いはしない。
「不思議なことは、どうして、を知らない方が素敵なんだよ」
しかし、これであきらめるようなイタチではない。ピィーピィーと喚き始めるに決まっているのだ。イタチなのに、ひな鳥のように。僕は彼に間違った呼び名を付けてしまっただろうかと、己の観察眼を疑わざるを得なくなる。ほら、この通り。
「でも、知りたいよ、知りたいよ!」
「がっかりしたくないだろう?」
「がっかりするようなことなの?」
「そりゃあ、真実ってやつはね、面白くもなんともないからさ。だから、あえて詮索をしないことも、人生を面白くする秘訣だと、僕は思うよ」
イタチは、つまらなさそうにため息をついて、僕に非難の目を送ってくる。生意気にも。
「ほらほら、もうそろそろ寝る時間でしょう。今日はもう上へ行って、大人しくしていてちょうだい。叔父さんとのお話はまた明日ゆっくりね」
母親に追い立てられて、イタチはしぶしぶ階段を上って行ったが、途中で足を止めた。やっぱり、素直に言うことを聞きはしない。
「いろいろ話があるのに。きっと明日じゃ終わらないよ」
口答えも付いてくる。母親の眉を顰めさせるだけの威力は充分にある。
「私もあるのよ。ずっと大事な話が」
「何だよ、それ。僕の話が大事じゃないみたいに言ってさ」
「そうねぇ、でも、私はあなたみたいに、しょっちゅう手紙を出してお喋りなんてしていたわけじゃないのよ。その分時間をちょうだい」
そう言って、尚も言い募ろうとするイタチを追い立てるように、背中を押して階段を上らせると、今度ばかりはいい加減に諦めて、しぶしぶと、大人しく彼は自分の部屋へと戻っていった。最後に小さく、僕に手を振って。その背中が、僕の記憶よりも随分大きくなっていたことに、時間というものを意識せずにはいられなかった。六年、長い時間だ。小さいイタチと呼べるのも、もう長くはないかもしれない。それは喜ばしいことか、寂しいことか。僕にはどちらとも言えなかった。
イタチの背中が階段の向こうへ消えて行くと、ようやく行ったわね、といった言葉をため息に語らせてから、姉は僕の方を振り向いた。その顔は、僕の記憶にあるよりも、やはり年月を重ねたことを感じさせた。少々の疲れを感じさせる目元、少しばかり貼り艶の衰えた肌。こちらにもやはり、数えるのも馬鹿馬鹿しい月日を身に染みて感じる。
「少し老けたわね」
僕の顔を見て、姉も同じ事を思ったらしいが、出てくる言葉は率直で遠慮が無い。
「人間の深みが増したと言って欲しいな」
「口答えは相変わらずね。まったく、あなたとせっせと手紙のやり取りをしてるおかげで、あの子は親の私よりも、そういうところがあなたによく似て困るわよ」
「いやあ、たったの十の子供にしては、やけに利発でよくできた子だと思っていたら、なるほど、そういうことか」
にやりと得意気に笑いながら僕がそんなことを言うと、姉は鼻で笑ってあしらった。
「それはそうと、いったいどうしてあの子はあんなに騒いでいたのよ」
「彼が僕からの手紙を読み終わったその時に、僕がここに現れたからさ。魔法使いのように」
「まあ、一体どういうカラクリがあるのかしら。ただの売れない詩人が魔法使いになったのには」
「本当に知りたい?」
わざともったいぶって、僕は姉の様子を窺がった。姉は頷いたが、そこにはこんな言葉がきっと隠されている。
仕方ないから、付き合ってあげるわよ。長くて下らない話でもね。
そう、これは長くて、下らない話だ。そこのあなたも、まあ、退屈凌ぎにでも少々御付き合い願いたい。
「手紙を出そうと思ってポストへ行ったところに、ちょうど郵便屋が手紙を回収に来たんだ。もちろん、僕はそれをわかっていて、わざわざその時間に行ったんだけどね。そこで聞いたんだよ。この手紙が、大体いつごろ着くかって。そりゃあ、正確な時間までは誰にもわかりはしないだろう。だから、またあんたか、いい加減にしてくれよ、って、まずその顔が言っていたけど、気にするような僕じゃない。知らん顔してちゃんと答えてくれるのを辛抱強く待っていたら、口から出てきた言葉は短いものだよ。明後日の午後、たったそれだけだ。まあ、何時に着くにしろ、あの子の部屋の窓が見えるところにこっそり隠れてればいいのさ。僕が送った手紙を読むときは、窓を開けておくように、って書いておいたから、彼が手紙を読んでいればすぐにわかる。窓が閉まったら、それが手紙を読み終わった合図だから、玄関に行って呼び鈴を鳴らせばいい。それだけ」
「……ご苦労なことで」
姉は落胆はしていない。そりゃあ、そうだろう。小さなイタチと違って、現実ってやつを少しは知ってる大人だから。代わりに、よっぽど暇な人間でも、そんな手間のかかることを好んでするもんですか、という長い意味の含まれた呆れの一瞥をもらった。
「そんな目で見ないでくれよ。何だってちょっとスパイスを加えた方が良い味が出るだろう。それが人生を楽しむコツだよ」
「でも、あんたは料理は下手だったわよね。やっぱり人生でもスパイスの使い方を間違えてるんじゃないの。私達はあの子を超現実主義者に育てるつもりもないけど、過剰に夢見がちな人間に育てるつもりもないのよ。何でもほどほどがいいでしょ。甘すぎるカレーはカレーじゃないなんて言って、食べられない人もいるもの」
「そんな当たり障りのない、つまらない人間にしたいわけか」
「上手に生きてほしいだけ」
姉の視線に、責めるような色があることに変わりはなかったが、そこに少しばかりの不安と気遣いの色が混じったのを、僕は見逃さなかった。それを見て、僕の目には多少の戸惑いの色がにじみ出ていたのを、姉もまた見逃さなかったようである。気まずそうに目を逸らされてしまった。
「戻ってきて、本当に良かったの?」
「ああ、大丈夫だよ、きっと」そう言って、僕は思い直した。ただ口を突いて出ただけで、実のない言葉と言うのは、すぐばれるだろう。苦々しい思いも隠しきれず、顔に出てしまっていたかもしれない。「……とは言い切れないかもしれないけど、今のところは、どっかりここに根を据えていて僕のことを見知った何人かから、冷たい視線を頂戴しただけで済んだよ」
「そう……」
逸らされた姉の目に、不安の色が一層濃くなった。僕はほんの少しだけ、帰って来たことを後悔してしまう。だが僕は、僕の直感というやつを放し飼いにして行動することこそが一番後悔が少なくて済む、という信条を、それでも変える気にはなれないのだ。眉じりを下げて、精一杯申し訳なさを表しつつ、僕は言った。
「できるだけ、姉さんたちには迷惑はかからないようにするよ」
「そうじゃないのよ、あんたのことで私達が白い目で見られるようなことは……多分無いわよ。何年前の話だと思ってるのよ。時間が悪いものは流してくれたはずよ」
「そうかねぇ……」
やはり僕らは姉弟であると、この時改めて思い知らされた。姉はさっきの僕とそっくりの顔をして言うのだ。
「ごめん、やっぱりこれもそうとは言い切れないわね。……保証はない」
「だろう。集団心理なんてそんなもんだ」
「あんたはけっこう長いこと、縁も所縁もない、どことも知れぬ地の果てに追いやられてしまったわけだしね」
「地の果てだなんて、失礼なこと言わないでくれよ。ここだって、そんなに胸を張って言えるほど大きな街でもないじゃないか。……確かに、何の縁もない、おまけに、にぎやかさも華やかさも無いところだったけど、とても僕には合っていたよ。何にも急かされずに生きていけたから」
たった七時間かそこら前までいた、あの景色を振り返って、僕はまた思う。そう人が言うほど悪くは無かったさ、と。あそこでは、言葉はいくらでも僕を待っていてくれた。時には、あちらさんから招待してくれることもある。さあ、いらっしゃい、と、両手を広げているように。ここでは、雑音が多すぎて少々困難にはなるだろうが、なに、どうってことはない。慣れた場所ならば、どうにかなるだろう。そう、時間が雑音を流してはくれなくても、幾分かは浄化してくれているはずだ。
僕は、遅ればせながら帽子とコートを脱いだ。姉はそれを受け取って、ラックの空いているところに引っ掛ける。柔らかな深茶色をした目を、こちらに向けながら。
「これからどうするの」
「さっきも言ったけど、姉さんたちに迷惑をかけることはしないよ」
僕の言葉に、姉は気まずそうに肩をすくめて、慌てて弁解するように言うのだ。
「もちろん、ここにいても全然構わないけど、私にあなたのことを紹介してくれ、っていってくれた劇団の人ね、このすぐ近くの宿にいるのよ」
「宿、そんなものあったかな?」
「あるわよ。……ああ、そうか、そういえばあなたはずっと、あそこを廃墟だと思ってたんだわね」
「……ああっ、あれか。犬も近づかないあのボロボロの建物。へえ、宿だったのか。初耳だな、それは」
「当時も今も、立派に営業しているわよ。よく見たら、毎日ドアには『営業中』の看板はちゃんとかかっているのに気がついてなかったのかしら。……まあ、お客がいるかはわからないけどね。だから、劇団の御一行様がやってきた時、ちょっとした騒ぎになったのよ。あの宿にあんなに客が入るなんて、奇跡だってね。でも流石に、あのボロさには耐えられなかったみたいで、宿の店主の許可を得て、あの人たちったら、あっという間にあの廃墟を蘇らせたのよ。舞台装置を組み立てることもしているからね、そういう大工仕事にも慣れているのかも」
「へえ……そりゃすごい」
素直に感心して僕が唸っていると、姉の顔に含みのある笑みが走った。
「とりあえずそっちに行ってみなさいよ。きっとあまりの変わりようにびっくりするはずよ。ひょっとすると、あなたにはお似合いかもしれないし」
それはどういう意味だと、問おうとしたその時に、玄関に人の気配がして遮られてしまった。そして、間もなく一人の中肉中背の中年男が姿を現した。小さいイタチの父親であり、僕の姉の夫である。どこかで軽く一杯や二杯ひっかけてきたのか、いつもよりやや赤ら顔で、いつもよりやや陽気になっていた。妻の、お帰りなさい、という言葉にやや呆れが含まれていても、彼は気にしていないようである。
「どうも、お久しぶりです」
僕が挨拶をすると、より一層期限を良くしてこちらへ近づいてきた。やはり、ほのかにアルコールの匂いがする。
「おお、久しぶり、……元気そうだね」そう言ってから、彼はひとしきり僕に目を走らせた。「なるほど、六年か……」
すると、僕も真似をするように彼をひとしきり眺めてこう言った。
「なるほど、六年ですね」
「その通り、顔の周りがもたついてきただろう」感慨深そうに自分の顎をさする彼には、悲観的な色は一つも無かった。むしろ、満足そうでさえある。「それはそうと、聞いてるよ、あの劇団に雇われたんだってな。君も晴れてあの変わり者の一員というわけか。とても似合いだと思うよ」
「それは褒め言葉と受け取っておきます」
「そりゃそうだろう」
大声で笑い飛ばし、彼はそう言った。彼の豪快さを、なかなか僕は気に入っている。つられて一緒に笑ったものの、頭の中では、変わり者の一員、という言葉が引っかかった。よく考えてみれば、あんな宿に押し寄せるような連中である。普通ではないのだろう。だが、その続きを聞くと、その正体は僕の想像力に靄をかけた。
「そういえば、さっき帰る途中で例のボロ宿の前を通ったら、アヒルが驚いたような声がしたんだよ」
「……さっぱり想像できませんが、どんな声ですか、それは」
「そりゃあ、アヒルが驚くんだから、ガアッ、と、ギャアッ、の間だよ。実際やってみろと言われても、俺には無理だけど」
「すると、彼らはアヒルを飼っているんですか?一体何のために……」
「さあ、連中と話をしたことがほとんどないからよくは知らないよ。案外、アヒルでも立派に役者の一員だったりしてな。驚く演技の練習でもしてたのかもしれない。そんなことがあっても驚かないよ、あの連中のやることなら」
さも面白そうに再び豪快に笑う夫に、妻は冷たいとも言えるほど至極冷静に、水を浴びせて酔いを醒まさせるような一言を投げかける。
「何言ってるのよ。一度も見に行ったことがないくせに。……それにね、実際にそれがアヒルだったかどうかもわからないでしょう」
「そうだねぇ、でも人間にあんな声が出せるかい」
「だから、あんな声、って言われてもわからないわよ」
「だから、ガアッ、と、ギャアッ、の間だってば。……いや、ギョッ、だったかもしれないな」
「はい、はい………」
この一連の会話で、僕はどのような心構えで、その御一行様と対面するべきか、さっぱり分からなくなってしまったのであった。実際に目の当たりにしたら、それも無理はないと思ったものだ。初めからあの有様を想像出来る人間がいたら、是非僕としては劇団員に勧誘したいものである。
さて、勿体ぶっていないで、そろそろその奇妙な劇団の話をしたいところだが、もう少しだけ勿体ぶらせてもらおう。僕がずっと気にかけていたもう一つのことについて話したい。
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