第15話 朝方に君と
仕事の忙しさもいくらかはましになり、慌ただしいだけだった日常がほんの少し落ち着きつつある。
なんだかんだスバルと和解したこともあり、心労もなく日々を過ごせているのでまあ、よしとするか。みたいな感じで。
「相川先輩、お疲れ様です」
納期ギリギリの原稿をなんとか納品しひと息ついていたところに、神田日奈子が声をかけてきた。今日もショートカットの濡れたような黒髪が美しい。
「ああ、ありがとう」
「さっきまでは鬼気迫る表情をしてましたね。納期短いのにかなり無茶苦茶な指示でしたもんね、あの原稿」
「ホントだよ。やっと忙しい時期を抜けつつあるのに、まったく嫌んなっちゃうよな」
言いながら椅子にもたれて両腕を広げ、背筋をぐっと伸ばす。長時間縮こまっていた背骨がきしむ音がした。
「あの。その後仲直りできたんですか?お友達と」
「へ?」
「ほら、先週、言ってたじゃないですか」
「……ああ、あれ」
思い出したくもない記憶が蘇り、つい苦虫を噛み潰した顔になる。そういえば神田にまで相談じみた弱音を吐いてしまっていたのだ。あの時の俺はどうしてあんなに心乱されていたのか。ださい。メンタルが弱すぎる。
「まあ。できたといえばできた」
「なんですか?できたといえば、って~」
「いや、別にしなくても良かったんじゃねーかなって今は思ったりしてさ」
「なんですかそれ」
鈴を転がすような可愛らしい声を立てて神田が笑った。その様子を見て肩の力を抜けるのを感じた。
……あー。かわいいな。
スバルに振り回されているだけで、本来俺の日常とはこういうものであったはずだ。仕事を頑張り、可愛い後輩に癒され、疲れたら時々哀子と飲みに行ったりする、その程度の、ささやかな。
……馬鹿馬鹿しっ。
二度とあんなやつに振り回されてたまるものかと思いながら、舞い戻ってきた日常と心の平穏に、少しだけ感謝もする。
◆
あの夜、あの時。
駅はもう目前なので放っておいてひとりで先に行こうとも思ったが、外灯の下で、スバルのぱっちり二重の大きな瞳が一瞬だけゆらめいたように見えた。
な、泣くのか?!
まさかな、と思いながらも、うろたえた俺は立ち止まり、とっさになだめたりなんかしてしまった。
「わかった、わかったよ!」
「……」
「機嫌直せって。もともと俺、キャバクラなんかそんなに行かないんだから」
「……」
「行くとしてもこの前と同じ、哀子のいる店だけだよ。あいつとはもちろんなんにもないんだし、文句ないだろ」
「……」
むっつりと黙り込んでいるスバルの前でおろおろとしながら、ふと冷静になり意識が遠くなっていくような感覚をおぼえる。
……俺はなにを言ってるんだ?これじゃあ彼女に浮気を許してもらおうと必死に弁解する夜遊び男みたいじゃないか。
待て。
俺は夜遊び男じゃないしスバルは彼女じゃない。想像するだけで吐き気を催す。なんてことを考えてるんだ。
「……じゃあ、約束する?」
「は?」
「だから、約束してくれるのかって聞いてんの!僕がさっき言ったこと!」
「だから、なんでそんな」
「なんで?!僕を安心させるためだろ!!嫌なの?!」
「い、嫌じゃ、ないけど」
突如として怒るものだから驚いてドキドキしてしまう。つい口にしたあと、嫌だろ!何言ってんだよ!と心の声が突っ込んだ。なぜこの俺がお前を安心させてやらなければならない。そう思う。だけどもう遅かった。言葉は口から出ていた。
「……わかった、約束するから」
今でははっきりとわかる。
あの約束がそもそもの運の尽きだったのだ。
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