39.大家さんとハロウィン
とある日の朝、その日の大家さんは何かがいつもと違っているような気がした。彼女が俺の部屋なのにもかかわらず我が物顔でお茶を飲みながらテレビを見ているのはいつも通り。
「ナッキー、お茶が無くなってしまったわ」
「はい、ただいま」
そして俺のことをこき使うのもいつも通り。
「お茶を入れてきましたよ。ついでにお菓子も持ってきました」
「あら、ありがとう。気が利くのね。貴方にはパシりの才能があるわよ」
さらには最後に余計な一言がつくのもいつも通りだった。
では大家さんの何がいつもと違うというのか。考えていたところで彼女は突然意地の悪い表情で笑った。
「そういえば今日は何の日かしらね?」
「何の日かですか? そうですね、十月三十一日なので『日本茶の日』とかですかね」
「何よ、その日」
「何って日本人がお茶を飲む習慣が広まるきっかけとなった大事な日ですよ? 知らないんですか?」
ああ、何か初めて大家さんにマウントを取れた気がする。ちょっと嬉しい。
「知らないわよ、そんなマイナーな記念日。それよりもっと有名なあの日があるでしょう?」
「あれですか?」
『日本茶の日』の他に一体何の日があるというのか。
「貴方にとって一つのターニングポイントになるかもしれない日よ」
「ターニングポイントですか。それは重要な日ですね」
「ハロウィンよ」
「ハロウィンですか」
はい、出ました答えが。ハロウィン、例年なら特に何も思うことがない単なる平日、休日であったが、今回に限って言えばそれは俺にとって記憶から抹消してしまうほどに迎えたくなかった日であった。というのもこの前俺は大家さんの膝枕に屈服してしまった勢いでとんでもない約束を取り付けてしまったのだ。今日の大家さんがいつもと違って見えたのはもしかしたら今日がハロウィンだからなのかもしれない。
「約束は覚えているわよね?」
「約束ですか。俺と大家さんって何か約束しましたっけ?」
「まぁ覚えていなくても約束したからには貴方にやってもらうのだけれど」
「身に覚えのない約束を人に強要するのはどうかと」
「あら、この前は快く引き受けるって言ってくれていたのだけれど?」
「あれは大家さんの策略というか、陰謀ですよ」
「ということは約束を覚えているのね」
「それは……」
何やってるんだ、俺の口は。うっかり嘘を付いていることがバレてしまったじゃないか。でもまぁうっかりだからね。うっかりは誰にでもあることだから仕方ない。というわけだから大家さんもうっかりとんでもない約束取り付けてしまった俺をうっかり許してくれたりしないだろうか。え、駄目? あぁそうですよね。あの人間の血が通っていないで有名な大家さんですもんね。俺またうっかりしてましたよ、ハハハ……。
「女装は良いわよ。きっと楽しいと思うわ」
大家さんからしたらそうでしょうね。
「でも俺は女性用の服とかメイク道具とか持ってないですよ」
「あら、目の前に女性がいるのにそんな理由で乗り切れると思っているのかしら? もちろん全部貸してあげるわよ」
「でもあれですよ。きっと服とかはサイズが合わないです」
「もちろん着てもらう服は既に手直ししてあるわ」
手直しってあんたはいつの間に俺のサイズ測ったの? もしかしてこの前俺が寝てる間にでも測ったのだろうか。だとしたら本気すぎてちょっと怖い。
「でも……」
「でも?」
「いえ、何でもないです」
もしかしたらもう逃げ道なんてもないのかもしれない。この日のために大家さんはありとあらゆる準備をしてきた。それは先程の会話で明らかである。
「さぁここからはハロウィンらしくいきましょう。女装をするか、イタズラとして女装させられるかを選びなさい」
それもう実質一択ですよね。選択肢なんて元からないじゃないですか。そう大家さんに視線で訴え掛けるも彼女は表情一つ崩さない。そんな彼女の目からは何が何でも俺に女装をさせるという絶対的な意志を感じた。もはや何かに取り憑かれた人のそれである。
「さてどちらを選ぶのかしらね?」
「では第三の選択肢の女装をしないで」
「そんな選択肢は存在しないわ。安心して頂戴、どちらを選んでも悪いようにはしないわ。寧ろ全力を尽くす所存よ」
ああ、これあれだわ。いつになく張り切ってるわ。だって大家さんの目キラキラしてるもん。俺を女装させることに紳士な姿勢だもん。あと鼻息荒い。
「悪いようにはしないですか」
「ええ、きっと満足すると思うわ」
だからそれは大家さんからしてみればの話ですよね?
「大家さんは満足するかもしれないですけど、俺は多分そんなことないんですよ」
「一度もやらないうちに勝手に決めつけるなんて、そんなのは駄目よ。否定するにしても一度体験してからでないと。何事も経験することが大事なの」
うん、一見まともなことを言っているように聞こえるけど要するにあれだよね。ただ俺に女装させたいだけだよね。
大家さんのあまりの横暴さに俺は諦めるしかなかった。こうなった彼女はもう誰にも止められない。つまるところ俺にはどうすることも出来ないということ。このまま逃げ出したりでもしてみろ、俺が寝ている間に勝手に部屋に入ってきて彼女の好き勝手に女装させられることだろう。大家さんはそういう人なのだ。だとすれば大家さんと悪魔の約束をしてしまった時点で俺にはやはり一つの選択肢しかなかったのだろう。
「分かりました……。例えどんな状況だったとはいえ、これは大家さんの前で油断した俺の失態です。煮るなり焼くなり好きにしてください」
「随分と悪意のある言い方ね」
「気のせいですよ」
「そう? だったら早速部屋を移動しましょうか。付いてきなさい」
大家さんは今まで見たことがないほど楽しそうに俺の部屋から出ていった。軽くスキップまでしてるし、本当にどんだけ楽しみにしてたんだよ。そう心の中で突っ込みを入れた俺はそれから静かに彼女のあとを付いていった。
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