38.大家さんと甘い罠

 俺の部屋、しかし今俺は部屋の隅で正座をしていた。中央ではおつまみとして持ってきていた銀杏の塩炒りをお共に大家さんが優雅にお茶を飲みながらテレビを見ている。既に彼女の酔いは醒めているみたいだったが流石にもうお酒に手を出すことはしていなかった。


「ナッキー、何故そこで正座させられているのか分かっているわね?」

「それははい、そうですね」

「いくら小夏にそそのかされたからといってやって良いことと悪いことがあると思うのよ」


 そりゃそうですよね。いくら小夏ちゃんが許可を出したとしても寝ている無抵抗な大家さんの胸を触ろうとしたなんてこれはもう警察に突き出されてもおかしくない事案である。


「おっしゃる通りでございます」

「そんなにたまっているの?」

「それはなんと言いますか……」

「そう、たまっているのね」


 俺が言葉に詰まると大家さんはテレビを見ながら察したように言葉を漏らした。そして唐突に俺の方へと体の向きを変えるとポンポンと自らの膝の上を叩く。


「そんなにたまっているのだったら膝枕くらいしてあげるわよ?」


 え、どういうこと? 大家さんガチギレだったんじゃないの? 突然の甘い言葉を素直に受け止めることが出来ず固まっていると彼女はゴホンと一つ咳払いをしてから言葉を続ける。


「勘違いしないで頂戴。これはただ今日私が相当な迷惑を貴方に掛けたからそのお詫びにと思って提案しただけよ。決して貴方に気があるとかそういうことではないわ。絶対に」


 大家さんが俺にそういう感情を抱いていないことは初めから分かっている。そして今日は彼女からかなりの迷惑を被ったのも事実。だがそれで何故膝枕になるのかが分からなかった。


「でも俺はさっきあんなことをしようと……」

「だからこそよ。あのまま放置していたら、いつまた貴方が私を襲ってくるか分からないでしょう? 適度なガス抜きは必要よ」

「適度なガス抜きですか」

「そうよ。それに普通の成人男性は皆、私みたいな可憐な女性に膝枕をされるというシチュエーションを人生で一度くらいは妄想するものだと聞いたわ。だから今回の提案を聞いたら飛んで喜ぶものだと思ったのだけれど、違うのかしら?」


 また小夏ちゃんの偏った知識か。でも今回のは比較的共感できるかもしれない。


「い、いえ違くないです。普通に嬉しいです」

「そう、そういう素直な返事は嫌いじゃないわ。さぁ遠慮しなくて良いのよ?」


 大家さん今日は本当にどうしちゃったの。飲みに誘ってきたのもそうだし、部屋で暴れたのもそうだし、そして今回の膝枕。俺にはもう何がなんだか分からない。


「本当に良いんですか? 油断した隙にうっかり警察に通報したりとかしませんか?」

「何よ、私がそんなことをするように見えるの?」


 見えるから聞いてるんですよ。普段の大家さんだったら確実にやってるでしょ。


「……そう、そんなに心配だったらそうね。私の携帯は貴方に預けておくわよ。それだったら文句もないんじゃないかしら?」


 そう言って大家さんは俺に携帯を差し出す。これはもう信用しても良いんじゃないか?


「本気なんですか?」

「本気に決まっているじゃない。何で私がこんなことで嘘を付かなければいけないのよ」


 大家さんは既に呆れた表情をしていた。そこまで言うということはこれは本当に本気で膝枕しようとしているのだろう。


「じゃ、じゃあ遠慮なくいかせていただきますね」

「どうぞ」


 俺は再度ポンポンと膝を叩く大家さんの方へと膝立ちでにじり寄る。そうして大家さんのすぐ側まで行った俺はそこで一度深呼吸をした。


「本当に本気で行きますよ?」

「だからさっきから許可しているじゃない。もしかして緊張しているの?」


 フフっとイタズラっぽい笑みを浮かべる大家さん。そんな彼女の問いに答える余裕など既になく、俺は無言で恐る恐る自らの頭を大家さんの太ももへと移動させる。そして大家さんの膝の上に頭を乗せた俺は驚きのあまり声を上げてしまっていた。


「こ、これは……!?」


 率直に言おう。大家さんの膝枕は俺の想像を遥かに超えて最高だった。というのもまず適度に温かくて柔らかいのだ。程よい肉付きの太ももに埋まっていく俺の頭、例えるならばホットアイマスクをしながら低反発枕に頭を預けているような、そんな最高に癒されている感覚に近いかもしれない。そして常時鼻腔に広がるフローラルな良い香り。いつも大家さんからする良い匂いである。つまり何が言いたいのかというと、それら二つが揃えば眠気が襲ってくるのも当然だということだった。


「どうかしら? 私の膝枕は」

「はい、最高です。何だかもう眠くなってきました」

「そう、確かにとてもだらしない顔をしているわね。まるで子供みたい」


 大家さんの声が上から聞こえる。なんという新鮮な感覚なのだろう。そんなことを思っていると突然俺の頭に大家さんの温かい手が添えられた。


「仕方ないから貴方が眠るまで付き合ってあげるわよ」


 大家さんが俺の頭に置いた手はそれから優しく頭を撫でるようにゆっくりと動き始める。


「大家さん、それも最高です」

「なんだか今なら貴方を私の言いなりに出来そうね」

「そうかもしれないですね」


 既に声が遠くに聞こえる。これはもう本格的にヤバイかもしれない。


「そうね、だったら今度私の部屋を掃除してもらおうかしら」

「はい」


 部屋の掃除? ああ、オーケーオーケー。お安いご用。


「それとそろそろ物置の整理もしたいのだけれど、やって貰えるかしら?」

「もちろん」


 物置の整理もついでだ。オーケー、手伝いましょう。


「あとこれは単なる興味本位なんだけれど私、一度貴方の女装姿も見てみたいのよ。だから来週のハロウィンで女装してくれないかしら?」


 女装か。ん……女装? 何か変なお願いをされている気もするが、まぁなんとかなるだろう。オーケー、バッチ来い。


「良いですよ。全部引き受けます」

「そう、ありがとう。じゃあ全てナッキーにお願いするわね」

「はい分かりました……」

「楽しみにしているわ、約束よ?」


 大家さんのその言葉を最後に俺は心地よく意識を失った。お休み。

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