5.大家さんと氷菓

 夏という季節は得てして人々が浮かれやすい。夏休み然り、夏祭り然り、そして社会人でいえばビアガーデンもその理由に入ってくるだろう。


 しかしその反対に夏というものは人を堕落させるという性質もある。主に暑さ、湿度の高さなどの環境的要因が大きいだろう。だからそれは例えどんな相手だとしても必ず起こる。


 その証拠に今俺の部屋では正座を少し崩した状態で丸テーブルの上にだらんと腕を投げ出し、そのまま顔を突っ伏した大家さんがいた。まるでしばらくの間水を与えられていない草花のようなしおれっぷりである。そして汗で服が張り付いていてちょっとエロい。


「大家さん、どうして俺の部屋で死んでるんですか。しかもまた勝手に入ってきて」

「深い理由はないわ。ただ暑いからよ」


 暑いのに何故この部屋に入ってきた。この部屋にエアコンなんて高価なものが設置されていないことは大家さんだって分かりきっているだろうに。


「この部屋二階ですけど、そんなに風は入って来ないですからね」

「そうだと思ったわ、さっきから髪一つなびかないもの」


 テーブルに顔を突っ伏したままの大家さんが退屈そうにフーッと息を吐くとその息で僅かに彼女の髪が揺れる。そんな今までに見たことがない行動をする大家さんに俺は幼い子供を見ているような、そんな気分になっていた。


「大家さんがそんな子供っぽい行動するなんて珍しいですね」

「そう? わりと自分の部屋ではこういうことするわよ?」


 まぁ子供にしてはいささか体が発達し過ぎているが。主に胸の辺りとか。


「そうそう、冷凍庫に良いものがしまってあるわよ」


 何だろう。冷凍庫にしまうもので良いものといえばアイスくらいしかないが。


「もしかしてアイスでも買ってきてくれたんですか? 大家さんにしては珍しく気が利きますね」

「『私にしては』ってところと、『珍しく』ってところが少し引っ掛かるけど、まぁ良いわ。暑いから許してあげる」


 暑さのためか大家さんが少し優しい。

 それにアイスも買ってきてくれたし、考えようによっては暑いというのもそう悪いことばかりではないのかもしれない。


 せっかく大家さんがアイスを買ってきてくれたのだ。ここでありがたく俺がアイスを食べている姿を大家さんに見せなければ、この炎天下の中スーパーまでアイスを買いに行った彼女の苦労が報われないだろう。


「多分大家さんの分もありますよね。一緒に持ってきますよ」

「よろしくお願いするわ」


 いつになく元気がない大家さんからの返答を聞き、キッチンの横にある冷凍庫を開ける。

 果たしてどんなアイスを買ってきたのか。期待しながら冷凍庫の中を覗くと、そこには厚さにして五センチはあるだろう巨大な氷のプレートが二枚も積まれていた。


 ……いや、確かにアイスだけれども。


 俺の想像していた方のアイスではない。どちらかというとこれはブロックアイスとかそっちの方のやつだ。


 思っていたのと違ったんですがと大家さんの方を見れば、彼女は立ち上がっていて、いつの間にか先程まで彼女が突っ伏していた丸テーブルの上には少し大きめなブロックアイス専用のかき氷機が置かれていた。というかそんな大きいもの今までどこに隠し持ってたの?


「じゃあ後はよろしくお願いするわね。使い方は分かるかしら?」

「あの……」

「なに?」

「これってもしかして俺がこのかき氷機でかき氷を作れってことですか?」

「寧ろそれ以外に何があるの?」


 そうですよね、それ以外ないですよ。ブロックアイスとかき氷機が出てくれば目的はただ一つ、かき氷を作る他に目的なんてありませんよね。


 しかし何故この部屋に全て道具を持ってきたのだろう。別に大家さんの部屋でも良かったのではないか。


「でもよく二階のこ部屋までかき氷機と氷を持って来ましたね。女性が一人で運ぶにしては大変そうな感じしますけど」


 というわけで気になって聞いてみれば、大家さんは俺の方に歩きながら質問に答えた。


「そうなのよね、でも仕方ないのよ。こんなに大きなものを私の部屋に置いたら部屋のスペースが無くなってしまうでしょう?」

「それを言ったら俺も同じなんですが……」


 俺の呟きに大家さんはニコッと優しい笑顔を浮かべるとそれから黙ってアイスピックを手渡してくる。


 そうか、そういうことですか。

 つまり大家さんは自分の部屋に置けないなら、俺が住んでいるこの部屋に置いてしまえばいいじゃないというマリー・アントワネット的発想でこの場所を物置として使おうとしているのだろう。実に彼女らしい人の迷惑を考えない作戦だ。


「何かしら?」

「別に何でもないですよ」

「そうかしら、私の目には貴方が不満そうにしているように見えるのだけれど」

「本当に何でもないです。ただ暑いだけですよ」

「そう、だったらもっと暑くなった方がかき氷も美味しく感じるようになるわよね」


 大家さんはそう言って俺の胸に顔を埋めてくる。


 何、何、何!? 何この急展開!?

 ついに大家さんが暑さでやられてしまったのか?

 しかし今はそんな大家さんの心配よりも、俺の鳩尾辺りに当たる二つの柔らかい膨らみの方が気になってしまう。


「ちょ、ちょっと大家さん。流石にこれは不味いですって」

「そんなに照れなくても良いのよ。私と貴方の仲じゃない」

「俺と大家さんの仲はこんな感じじゃないですって」

「そう、だったらこれは良い機会じゃないかしら?」


 良い機会ってなんだ、良い機会って。もしかして大家さんは俺とのそういうことを望んでいるのか。

 だとしたら……。


「大家さん!」


 駄目だ、こんないつも通りじゃない大家さんなんて大家さんじゃない。

 咄嗟にそう感じて大家さんを引き剥がせば、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。


「ごめんなさい、ちょっと調子乗りすぎたわね」

「そうですよ、いくら何でも調子に乗りすぎです」

「そうよね……。でも貴方珍しく怒っていたでしょう?」


 俺が怒っていた?

 別にそんなことはないが、もしかしたらさっきのかき氷機うんぬんの時の態度がそう見えてしまったのかもしれない。


「別に俺は怒ってないですって。第一、こんなことで怒ってたら普段の俺はもっと怒ってます」

「そうよね。……ごめんなさい」

「気にしてませんからそんなに謝らないで下さい」


 なんだか俺の方が申し訳なくなってくるから。


「分かったわ。じゃあかき氷機の件だけどやっぱりそれは……」


 そうだった、元々このやり取りが彼女を変な方向に導いたんだった。仕方ないか……。


「今回だけなら構わないですよ」

「良いの?」

「良くはないですけど、それで大家さんが変なことになるよりはマシです」


 そうだ、もう一度あんな感じで迫られたらもう耐えられないかもしれない。


「そう、悪いけどお願いしても良いかしら?」

「はい、任せて下さい」


 そう俺が言った瞬間だった。大家さんは今までの申し訳なさそうな表情から一転、いつも俺をからかう時に向けるような意地の悪い笑顔にいきなり戻る。


「じゃあ早速かき氷を作っていきましょうか。ちなみにシロップは冷蔵庫にあるわよ」


 あれ、さっきのやり取りは?

 流石に切り替え早すぎじゃない?


 そこまで思ったところで気付いてしまった。

 もしかしてさっきまでのやり取りって……。


「あの大家さん、俺やっぱりこのかき氷機は──」

「本当に助かったわ、まさか自分から引き取りたいって言ってくれるなんてね。やっぱり持つべきものはナッキーね」

「……そうですか」


 そうだった、大家さんはこういう人だった。

 どうやら俺はまんまと彼女にしてやられてしまったらしい。

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