3.大家さんと買い物帰り
仕事をやめた人間が常に家に引きこもっているとは限らない。どこかへ遊びに行くなど貯金を無駄遣いするような外出をすることはないが、それでも必要最低限の外出はある。
そう、例えば飲み物や食べ物の購入をするための外出などは普通にする。
というわけで近くのスーパーで色々購入してきた俺は両手一杯に荷物を持って自宅の前に立っていた。
「ただいまー」
やっと家に帰れるという安心感か、それとも単なる気疲れなのかは分からないが家に入った瞬間自然と深いため息が出てしまう。
全く最近は暑いし、汗も掻くし、最悪だ。
早く涼しい季節にならないかと荷物を玄関に置いたところでふと玄関の違和感に気付いた。
「何で女性用の靴があるんだ……」
違和感、それは男の一人暮らしのはずなのに女性用の靴が置いてあるというもはや怪奇現象のようなもの。
まさかと恐る恐る部屋に向かうと、そこには湯飲みに入れたお茶を片手に人の部屋で勝手にテレビを見ているこのアパートの大家さんがいた。
人の部屋で何してるの? この人。
「あのー」
咄嗟に声を掛けると彼女はゆっくりとこちらに顔を向ける。
「あら、お帰りなさい。お茶頂いてるわよ」
しかも今彼女が飲んでいるお茶は我が家にあった茶葉を使ったものらしい。本当に何してるの? この人。
「そんな自然な感じで対応されたら逆にこっちが戸惑うんですけど。一応聞きますけどここって俺の部屋ですよね?」
「そうよ、だからそんなに戸惑わなくても良いわ。私のことは貴方の家にあるただのダッチワイフ程度に思ってくれれば構わないから」
「いや、そもそも俺そんなの持ってないですから」
「そう? 普通の成人男性ならダッチワイフの一つや二つ持っていると聞いたことがあるのだけれど」
それは一体どこ情報なのか。きっとろくな情報源じゃないんだろうな。
「それで、何か用事でもあるんですか?」
俺の問いかけに大家さんは少し考えると一言だけ言葉を口にする。
「あると言えばないし、無いと言えばあるわね」
『結局どっちなんですか、それ』という突っ込みは入れるだけ無駄だろう。彼女とこの手のやり取りをするのは愚策だと今までの経験がそう告げている。
だからここでは会話を打ち切って追い出すのが正解。
「用事がないなら帰って下さい。俺は忙しいんです。大家さんに構っている暇なんてありません」
「世の中の暇という暇をかき集めて体現したような貴方が一体何を言っているのかしらね」
「それは……」
おっしゃる通りすぎてぐうの音も出ない。
「そもそも貴方の名字の猫宮って暇を表しているようものじゃない」
流石に猫を暇の象徴にするのはどうかと思いますけど。
「それに貴方って何だか元から全体的に暇そうな雰囲気出てるのよね」
何その偏見。
「さらに言えば貴方って……そう、どことなくあれよね」
いや、何も思い付かないのかよ。
「つまり貴方は暇なのよ、分かった?」
そう得意げに言われましても何も上手く纏まってないし、それに最後の方なんか適当だったし。
でもなんとなく大家さんが言いたいことは分かった。
つまるところ彼女はどうしても俺のことを暇人認定したいのだろう。そうと分かれば彼女の目的が色々と透けて見えてくる。
「大家さん、もしかして俺に何か手伝わせようとしてます?」
大家さんがどうしても俺を暇だと認定したい理由は考えてもこの一つしか思い付かない。
「もしそうだとしたら手伝ってくれるのかしら?」
俺の言葉にどこか満足そうな顔をした大家さんは続けて自分の足元から軍手とゴミ袋を取り出した。
これはもう『やれ』ということなのだろうか。
軍手とゴミ袋を取り出してきたところをみるに手伝って欲しいのは庭の草むしりだろうが。
「あの、一つ良いですか?」
「何かしら?」
「これってバイト代でます?」
「でないわね」
ですよねー。大家さんが俺に頼んで来ようとしている時点でただやってもらう気満々だもん。でもそうか、時給が出ないのか、ただのボランティアなのか。ただでさえ収入がないのにボランティアとはなんというか複雑な気分だ。
お金が出ないと聞いてなんとなく気持ちがブルーになっていると、それを見た大家さんがポンと一つ手を打った。
「そうね、確かに何かご褒美がないとやる気が出ないわよね。分かったわ、今回だけは出血大サービスよ」
「マジですか?」
やっぱり持つべき者は太っ腹な大家さん。一体いくらのバイト代が貰えるんだろうと期待していると大家さんはいきなり正座していた足を崩して靴下を脱ぎ始める。そうして両方の靴下を脱いだ大家さんはそれを俺に差し出してきた。
「はい、これがご褒美よ。前払いなんて私も太っ腹ね」
本気で言ってるんですか、それ。
「えーと大家さん、控えめに言って要らないです」
「……おかしいわね、何がいけなかったのかしら?」
いけないのは大家さん頭の中では?
そう思ったがもちろん口にはしない。
「普通の成人男性は私みたいな可憐な女性の靴下なら泣いて喜ぶと聞いたことがあるのだけれど」
またそれか、一体どこの誰がそんな偏った情報を大家さんに与えているんだ。この人、変なことはスポンジみたいに吸収するから本当に勘弁して欲しい。
「恐らくそれは普通の成人男性ではなく、特殊な成人男性の話だと思います。あとその情報源はもう絶対に信用しないで下さい」
「そう、分かったわ。でも困ったわね、そうなったら私には何もあげられるものがないわ……」
うーん、うちの大家さんのあげるものリストにはお金という選択肢はないのだろうか。お金という概念を知らないわけではないのにリストに無いとは不思議なこともあったものだ。
「あの、普通にバイト代が出れば俺は他に何も──」
「そうよ! うちにスイカがあったわね。それでどうかしら?」
お金の話をしようとすると邪魔されるのってもしかして狙ってやっていることなんでしょうか。どうやら大家さんは意地でも俺にバイト代を払いたくないらしい。
そうだとすればスイカは妥当な線なのか。靴下よりはまともだし。
「……分かりました。仕方ないですがスイカで手を打ちます」
結局俺はスイカを得る代わりに庭の草むしりを手伝うことになってしまった。
まぁ一応食べ物だし、食費が浮いたと思えばバイト代が出たのと同じだろう。たかだが数千円だろうが出ないよりはマシなのだ。そう、出ないよりは──。
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