2.大家さんと銭湯

 夕方、俺はタオルとその他諸々のお風呂セットを持って家を出る。

 手持ちから分かるようにこれから向かうのは近所の銭湯。残念ながらこのアパートは家賃の安さが売りの風呂無し1Kのボロアパートなのだ。というわけで毎日夕方になるとこうして家を出るわけだが……。


「あら、今日も奇遇ね」

「そうですね、奇遇ですね。まるで俺の部屋に監視カメラでも仕掛けられているんじゃないかと思っちゃうほどのタイミングの良さですよ、毎回」


 大抵、というか必ずうちのアパートの大家さんと行くことになる。

 本当にどういうことなのかしら? 毎回毎回タイミング良すぎるわよ。うちの大家さん。


「何を冗談言っているの。貴方の部屋なんかにカメラなんて仕掛けるわけがないじゃない。私の目の毒よ」

「そうですよね……ってさらっと俺のことを傷つけますね」

「ごめんなさいね、別に傷つけるつもりはなかったのよ」


 大家さんはそう言って軽く微笑む。恐らくこれは許してくれという意味なのだろう。大家さんは自分の武器を良く分かっていらっしゃる。


「そうですか」

「ただ貴方の心を弄ぶ気しかなかったわ」

「……そうですか」


 大変素晴らしいご趣味をお持ちのようで。


「ところで貴方にお願いしたいことがあるのだけれど良いかしら?」

「はい?」


 何だ突然、大家さんが畏まるなんてちょっと怖い。

 恐る恐る彼女の方を見れば、彼女は今までに見たことないくらい優しい表情を浮かべていた。何この表情、本当に怖いんですけど。


 恐怖しながら言葉の続きを待っていると、彼女の細くしなやかな白い手がいきなり俺の手を掴む。


「ほら、最近物騒でしょう? 日が沈む時間にこんな可憐な女性が一人で外を出歩くっていうのはどうかと思っていたの。だから今度から銭湯に行くときはちゃんと私も一緒に連れて行ってくれないかしら?」

「それがお願いですか?」

「そうね」


 本当にそうなのか?

 俺はもっとメチャクチャなお願い、例えば『貴方の部屋にあるものをフリマアプリで売っても良いかしら?』とか、『今度から今の家賃の二倍を払ってくれないかしら?』みたいなお願いをされると思っていたのだが、これではなんというか普通過ぎて怖い。

 いや、俺も相手が大家さんでなかったら素直に信じていただろう。しかし、今回の相手は残念ながら大家さんなのだ。


「あの、本当にそれだけなんですか?」

「何よ、一体私を何だと思っているの?」


 鬼畜で容赦がない大家さんですね。あと頭もおかしい。


「それとももっと私のお願いを聞きたいということなのかしら。だったら……」

「い、いや! 違います! ただ大家さんなら何か裏があるんじゃないかと思いまして」

「それはつまり私のお腹の中が真っ黒だと言いたいのかしら。ナッキーって結構酷いことを言うのね」

「そのあだ名はもういいですから、何でちょっと定着させようとしてくるんですか。それと酷いことを言う能力なら大家さんの右に出る人はいないですよ」

「あらそう? 褒めても何も出てこないわよ?」

「一応言っておきますけど褒めてないですからね」


 気付けば俺はため息を吐いていた。どうしてこの人と一緒にいるとこんなにも疲れるのか。早く家に帰って引きこもりたい。


 それから大家さんと色々会話をしているうちにいつの間にか近所の銭湯へとたどり着く。


「着いたわね」

「そうですね」


 家から歩いて十分ほどのところにある銭湯からは昔懐かしい銭湯独特の良い香りがした。これこそ、銭湯だ。


「じゃあ終わったら俺はフロントで待ってますので。ゆっくりしてきて下さい」

「そう、分かったわ。またね」


 銭湯の中に入ってすぐのちょっとしたフロントで大家さんと別れた後は暇そうにテレビを見ている番台のおじさんにお金を払い、男湯の暖簾を潜る。

 今日は比較的に空いている方か。


「おー兄ちゃん! 今日も偉いべっぴんさん連れてたな!」


 暖簾を潜ってすぐにいきなり威勢の良い声で呼び止められ、声を辿るように視線を移動させるとそこにはこの銭湯で知り合った顔見知りのおじさんがいた。

 そしていつも思うがこの人は無駄に声が大きい。喉に拡声器でも埋め込んでいるのだろうか。


「おじさん、前にも言ったと思いますがあの人とはそういう関係じゃないですからね」

「またまた、兄ちゃんがあのべっぴんさんと親しげに話してたのおじさんいつも見てるんだからなー」


 このこのー、と肘で俺を小突いて来るおじさん。

 このこのーじゃないんだよ、おじさんよ。


 確かに俺がこのおじさんと同じ立場だったら同じようにそういう関係だと勘違いもしていた。

 でも違うのだ。現実は実に非情で残酷なものなのである。

 彼女は自分が楽しむために日々俺のことを手のひらの上で転がし続ける悪魔のような存在。こんなことを言ってもきっと誰にも信じてもらえないだろうがこれが事実なのだ。


 しかし、それは赤の他人であるおじさんには知る由もないこと。別におじさんが皮肉を言いたかったわけではなく、ただ俺と会話のキャッチボールをしたかっただけだというのは分かっている。

 そうだ、彼に悪気があるわけではないのだ。だからこそタチが悪い。いっそのこと悪気があった方が気持ち良く無視することも出来たというのに。


 一先ず悪気がない彼にはこの言葉を送るとしよう。


「おじさん、そんなことより早くお風呂に入りましょうよ」


 訳 : 無駄話してないでさっさと風呂に入れや。


 そう笑顔でおじさんにこの言葉を送れば、彼にも流石に大人としての弁えはあるのか、これ以上は追及してこなくなる。


「おー、そうだな兄ちゃん! さっさと風呂にはいっちまうか!」


 こうしていつものようにおじさんの追及から逃れた俺はそれから衣服を脱いで彼と共に浴場へと向かった。



 浴場でさっさと用事を済ませフロントで涼んでいると、女湯の暖簾から一人の女性が出てくるのが見えた。


「あらナッキー、ちゃんと偉いべっぴんさんを待っていてくれたのね」

「聞こえていたんですね」

「あの声で聞こえていないはずがないわ」


 そうですよね。人間拡声器ですもんね、彼。


「じゃあ帰りますよ」

「そうね」


 銭湯を出ると日は既に沈んでおり、辺りを見渡せば街灯の光が多く目に付く。


「明るい道で帰りますからね」

「分かったわ」


 季節はもうすぐ夏、だからだろうか辺りからはひぐらしの鳴き声が聞こえた気がした。

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