幽霊の家寿田くん
岩田八千代
第1話
クラスメイトの家(や)寿(す)田(だ)秋人(あきひと)くんが一週間前に交通事故で亡くなった。トラックが歩道に突っ込んできたひどい事故で、家寿田くんは即死だったそうだ。
私、冴(さえ)木(き)叶(かなえ)は家寿田くんとは隣の席で、特別親しくもなかったが言葉を交わすくらいはあったので、事故のことはやはりショックだった。家寿田くんの小さな子どものように無邪気な笑顔はもう見ることはできない。もう会うことはできない。人の死とは、未来にできる思い出の可能性そのものをなくすことなのだと、告別式の日に思った。
若すぎる人が亡くなった式は悲愴で、ご家族のことを思うと辛く参列者は涙する人も多かった。
家寿田くんの机には窓側の後ろの席で、今は花が置かれている。オレンジ色のダリアとカスミソウは家寿田くんの明るさそのものでみんな鼻をすすっていた。
事故の一週間後の朝、私はいつも通りに登校してクラスメイトに挨拶をして自分の席に着くと、カーテンのレースが揺れていた。最初、窓が開いているのかと思った。立ち上がり窓の傍まで来たが、開いてはいなかった。不審に思い、カーテンのレースの上を見上げると、亡くなったはずの家寿田くんと目が合った。
「!?」
「あれ、冴木俺が見えるの?」
家寿田くんはいつもの明るい表情で声を掛けてきた。とても嬉しそうに。
私は素っ頓狂に、
「家寿田くん?!」
と廊下にまで響く悲鳴で彼の名を呼んだ。クラスメイトも他のクラスの子も、みんな私が家寿田くんの死にショックを受けすぎてどうかしたのかと思い、
「冴木もショックだったろうな……」
「叶、家寿田くんと仲良さそうだったからね」
と、口々に同情した。
「…………」
何も言うことができずに腰を抜かしている私に、中を浮いている家寿田くんは、
「お前ここからだとスカートの中見えそうだぞ」
「…………」
家寿田くんは頭をポリポリ掻くと、
「ノーリアクションかよ。あ、もうすぐ始業のチャイムが鳴っちゃうな。昼休みに話そう」
と、生前と同じような会話をしたので、これは夢なのか、それとも悲しみの余り私が妄想を見ているのが、分からなくなった。それでも、返事を待っている家寿田くんに私は、
「うん……」
とだけ返事をした。
「良かった! じゃあ、屋上で待ってるわ」
と明るく答えた家寿田くんは、窓の外に向かってひらりと飛んで行った。ガラスが開いていない、三階の窓から。
青くなった私は卒倒して、そのまま保健室に運ばれた。
お昼休み、屋上にて。
この日の昼は曇り空だった。六月だし、雨が降るかもしれない。空気は湿っていた。
午前の授業を二時間ほど保健室で過ごした私は(最初の一限目は寝ていたが、二限目は今朝見た家寿田くんのことを考えていた)、狐につままれる心境で屋上への階段を昇った。トントントン、と響く足音はこれから良からぬことを予兆させる響きを感じさせた。完全に疑心暗鬼だが。
屋上に着くと家寿田くんはいた。
「おっ、やっと来たか」
「うわー! やっぱり夢幻じゃなかった!」
「何だよその第一声」
「ねえ、これって私が見ている幻覚? 私妄想癖とかそんなにないと思っていたけれど、実は幻覚とか見ちゃう人だった?」
「あのなあ。俺がお前の幻覚だとすると、俺の精神の実感はどうなるんだ。幽霊だと認めろ」
「我思う、故に我ありだね。デカルト好きなの?」
「いや、この状態で普通に会話しようとするな。状況確認から入れ」
「そうだった! 現実を直視したくないあまりについ」
「なんで直視したくないんだよ、俺が幽霊だって」
「だって! 今まで信じていなかったし! 信じちゃったらもう夜怖くて一人で眠れないよー!」
「はあ……」
空中で胡坐をかいている家寿田くんは大きな溜め息を吐いた。
「お前ってそんなキャラだったっけ?」
「動揺のあまり人格も崩壊寸前ですー!」
「そうか……。驚かせて悪かったな」
家寿田くんはすまなそうな顔で胡坐の右膝を立てると、
「どうやら俺は死んでしまったらしい」
と、名探偵が謎解きでもするような口調で語り始めた。
「うん、それは知ってる」
「そうか」
「お葬式にも出席したし」
「そう」
「で」
「うん」
「家寿田くんはなんで私の幻覚になったの?」
「まだ認めないんだな、幽霊だとは」
「信じたくはないし」
「俺の独立した自我をどう説明する」
「それを証明する術はありません」
「おいこれじゃあ話がいつまで経っても平行線じゃないか。まあいいさ、幻覚でも何でもこの際構わない」
「幽霊という主義主張はそんなに軽かったの?」
「お前が頑なだからだろうが。で、だ」
家寿田くんはやっぱり名探偵が犯人を指すみたいに指を突きつけ、
「俺はどうやら心残りがあるらしい」
「ふうん」
「リアクション薄くね?」
「いやあだって、ちょっとは予測できた展開かもしれないね、幽霊なら」
「お前のほうが主義主張の軸がブレブレじゃねーかよ。俺は幽霊でいいのか」
「いや良くありません」
「やっぱり頑なだな」
家寿田くんは立てた右膝を伸ばした。空気椅子に座っている人みたいだ。片足だけで空気椅子。サーカス雑技団みたいだ。
「俺のことはどうやらお前にしか見えないらしい」
「ご家族は?」
「みんなだーれも俺に気付かずに、遺体を荼毘に付した」
「それ見てるの辛かったね……。自分の身体が焼かれちゃうなんて」
「それ言うと俺の遺体の損傷も酷かったから思い出させないでくれ」
「ごめん……」
「で、話を戻すぞ。俺の心残りを一緒に探してくれないか?」
「なんで」
「なんでって……。だって誰も俺に気付かないし、俺はどうやら現実には介入できない状態らしい。誰かの手助けがないと調べ物もできない」
「そんな義理はある?」
「義理って! 薄情な! 先月お前に化学のノート貸しただろ?!」
「あー……」
「それに、お前が弁当忘れたときも見せてやったし!」
「それは単なる嫌がらせじゃない?」
「ともかく、俺に付き合ってください!」
と、家寿田くんは急に地面に立つと(それでも数センチ空中に明日浮いていた)、腰を屈めて右手を私の方に伸ばした。状況と言葉だけじゃあ、告白されたみたいだと思ったがあえて言わなかった。
「うーん、どうしよう……」
「引き受けてくれなかったら、これは不本意だが」
家寿田くんは、咳払いをするとおどろおどろしい顔で、
「祟っちゃうぞ」
「そんな『逮捕しちゃうぞ』みたいに言われても……。祟るって何するの?」
「お前を付きまとう」
「ぎゃー、それは勘弁して! 夜怖くてトイレいけなくなる」
「小学生みたいなこと言うな。とにかくまあ、不本意だが成仏できないとなると、やむを得ないな」
「そんなー」
私は悲痛な声を上げたが、どうやら強制発生イベント回避不可らしい。仕方なく私は、
「分かった。私で何ができるか分からないけれど、家寿田くんに協力しよう」
と、唯々諾々と承諾した。
「良かった! ありがとな、冴木」
と、家寿田くんは生前と同じように微笑むものだから、彼の身体から半分透けて見える今日の青空に彼が本当にいないことを実感してちょっと悲しくなった。
「心残りといえば、やはり最初はご遺族にアプローチだろう」
「自分の家族のことを『ご遺族』って言うのやめない?」
「だって実際そうだし」
空中を漂う家寿田くんと私は、家寿田くんの実家へと向かった。家寿田くんのお家は学校から乗り継ぎなしの駅で、所要時間は四十分くらいかかる。スマートフォン端末で行き先を調べて、駅のホームで待つ。
「結構学校から遠いんだね」
「まあな。でももう慣れた」
「これから大事な家族を失った人たちのところへ行くのは気が重いなあ」
「すまんな」
「素直に謝られると、私が極悪人みたいだからやめて」
「お前も情緒不安定だなー」
「誰の所為だと」
ホームで独り言を言っている女子高生は、とても怪しかったらしい。この時間帯でも普段は人が多いが、今日は半径十メートル以内はがら空きだった。おしくらまんじゅうの心配も痴漢の心配もない。
「…………」
「どうした?」
「いや、家寿田くんが守り神様みたいだなって」
「なんだそれ」
私がお気楽なことを言うと、家寿田くんは困ったような顔で歯を見せて笑った。生前もよくしていた表情だった。私は、この家寿田くんの唇からのぞく八重歯が好きだなあと思っていたことを思い出す。子どものように可愛い笑顔は、もうこの世のものではない。
「冴木さんっておっしゃるのね。式にも来てくれてありがとうございます」
閑静な住宅街の一軒家、玄関で出迎えてくれた家寿田くんのお母さんは、色が白く若くて綺麗な人だった。式の時より目の下のクマがさらに増えて腫れた瞼が痛々しく、さらにそれが美しさを果敢なく際立たせていて、私は場違いにドキドキした。
「さあ、上がってください」
「ありがとうございます」
後ろにふよふよ浮いている家寿田くんに小さな声で耳打ちした。
「お母さん綺麗な人ね」
「……痩せたなあ」
家寿田くんの声が心持沈んでいて、非日常的な現実に気が動転していたのだった私も神妙な気持ちをやっと思い出した。
家寿田くんの家の仏壇に手を合わせてお線香をあげさせてもらうと(隣に本人がいるのに、変な感じがした)、家寿田ママが麦茶と焼き菓子を出してくれた。
「ありがとうございます」
家寿田ママは疲れた顔を私に向けて、怪訝なような、私の突然の来訪に若干の戸惑いを覚えている様子だった。
「あの、えっと」
私はなんて話を切り出していいか分からなかった。まさか、家寿田くんの思念が家族に会ってくれと言ってきたなんて言えるわけがない。完全にアイハブノープラン、行き当たりばったりの見切り発車、出たとこ勝負だった。
私のしどろもどろっぷりに、隣の家寿田くんは助け舟を出した。
「生前親交があったから話が聞きたいとかなんとか言ってみろ」
勿論家寿田くんの声は私にしか聞こえない。
「あの、家寿田くんとは仲良くさせていただいていました。だから、家寿田くんのお話を聞かせてもらいたくて……」
しどろもどろにそう言った私を、家寿田ママは大きな瞳を目いっぱい見開き、ポロポロと少女のように大粒の涙を零した。
「…………っ。冴木さんは、秋人のことを……」
「あっ?! いや、その!」
どうやら誤解されているみたいだ。しかしここで誤解を解こうとすると、じゃあなぜうちに来たの? ということになることは考えなしの私でも予想ができた。
私は、
「はい……」
と苦渋の思いで頷いた。
「そうだったの……! あなたみたいな素敵な子が秋人のことを好きでいてくれたの!」
家寿田ママは嬉しそうに悲しそうにポロポロ涙を流す。
「ごめんなさいね、いい大人が泣いてばかりで」
「お察しいたします」
「じゃあ、折角だから、秋人の思い出話を聞いてもらおうかしら」
家寿田ママが大量の写真アルバムと麦茶のおかわりを用意してくれたとき、私は長期戦を覚悟した。
「長話に付き合わせてすまなかったな」
「覚悟はしていたから。でも家寿田くん子どもの頃引っ込み思案だったなんて意外だった。結構思ったこと言う印象あるから」
「あんまり言わないでくれ、黒歴史だ」
「幼稚園の時に活発な女の子に泣かされて帰って来たとかさー」
「黙れ恥ずかしい」
陽もすっかり落ちた帰り道、隣には浮いている家寿田くんがいる。
「でも、心残り的な話は出なかったね」
「ああ。高一だったから、まだ進路も決めてなかったし」
「夢とかないの?」
「夢ねえ……」
家寿田くんは顎に手を当てて考える。家寿田くんが、推理小説が大好きだという話も家寿田ママから聞いた。探偵役に影響を受けているらしい。
「多分、普通に大学でも受験して、そこそこの大学に入ってから決めようと思っていたからな」
「探偵じゃないの?」
「それは小学校の頃の話だよ」
家寿田くんは頭に手をやっている。照れているらしい。
「ところで家寿田くん、事故当時って朝駅へ向かう道程だったんだよね? 何かしていたとか考えていたとかないの?」
「それがさあ、事故のことってあまりよく覚えてないんだよな」
「そういうものなんだ」
「まあ俺としちゃあ、激痛の瞬間のことを覚えていないってのは、幸いだったかもしれないけれど。なにせ死ぬほどの痛みだから」
「そのときのことが何かヒントになるかもしれないね」
「思い出せってー? うわー、冴木さんスパルタ」
家寿田くんは空を仰ぐ。住宅街とはいえ都心から近いから星はあまり見えない。
「じゃあ明日事故現場行ってみようか、土曜日で学校休みだし」
「ええええ。あまり気乗りしないけれどなあ」
「そう言わないの。現場百篇って言うじゃない」
「百回も行きたくねーな。それに、事故の謎は解けているんだし」
交通事故の原因は、トラックの運転手が運転中に発作を起こして運転操作が不能になってしまいカーブを突っ込み歩道に乗り出したことが原因だった。運転手は、発作を起こした段階で死亡していて、どうしようもなかった。
家寿田くんは数メートルさらに高く浮き上がると、
「じゃあ、今日は解散だな」
「え? 一緒に家来ないの?」
「流石に乙女のご自宅をいきなり上がり込むのは気が引ける」
「家寿田くんにもそんな良心があったのね」
「ひでえ言い草。ま、じゃあな。明日、駅前で」
「うん、また明日」
家寿田くんは片手をあげて空に向かって飛んで行った。
「『また明日』、か……」
家寿田くんと再びこう挨拶することになるなんて、今朝家を出る私は想像もしていなかった。不思議と心が温かい気持ちがする。
家寿田くんともっと話がしたい。家寿田くんの話をもっと聞きたい。そう思った。
翌朝の天気は快晴だった。六月の暑い日で、雨は降らない予報だった。北海道では猛暑を記録する予報らしい。朝のテレビがそう伝えるのをトースト齧りながら聞いていた。地球温暖化について考えさせられる気候だ。家寿田くんは溶けてしまわないだろうか。その考えに私はちょっと笑った。
母に、
「何がおかしいの?」
と、怪訝な顔をされた。どうも最近の私は怪しさ満点だ。
「ううん、なんでもない」
誤魔化す顔も笑っているから信憑性に欠ける。
怪しげな私を母はそれでも普通に送り出してくれた。
駅までの坂道を上る。これから家寿田くんに会えることが嬉しくなる。
「おはよう、家寿田くん」
「おう、おはよ。冴木」
家寿田くんはいつもの制服姿だった。服は着替えないらしい。
家寿田くんは私の姿をまじまじと見て、
「お前私服、可愛いな」
「はえ?!」
「蠅ってなんだよ」
たしかに私は今日、ちょっとおめかしした。今年買ったばかりの小さな花柄のワンピースに、お気に入りの靴。唇にはリップ。
「お前普段からそんなにお洒落さんなのか」
「あんまりツッコまないでくれます? 恥ずかしいから」
「いいじゃねーか。昨日は散々俺の恥ずかしい過去話を聞いたんだから、おあいこだ」
「不可抗力でしょう」
「なんか、デートみたいだな」
「え?! そう?!」
「そんなイチイチ大げさなリアクションするな。恥ずかしい」
私もそれはちょっと意識していた。思念体とはいえ、男の子と出かけるというシチュエーションに私は戸惑いとウキウキを抱えていた。
素直になれない私は、
「そ、そんなことないよ?!」
と言い放った。語尾が裏返っていたことは丸聞こえで、家寿田くんは、
「へえ」
と、ニヤニヤしているだけだった。
恥ずかしい私は、
「は、早く行こう。そうしよう」
と無理やり急かした。
事故現場近くには、花が供えられていた。ジュースやお菓子も置いてある。
「こういう場面、テレビ以外で見たことなかった」
「あんまり愉快な光景ではないからな」
家寿田くんは事故現場でも冷静だった。もっと動揺したりするかと、心配だったが全然ケロリとしている。
「だって、全然覚えてないから実感もなくて」
家寿田くんが足元の供えられた花に触れようとしている。半透明な指は花弁をすり抜けてしまう。
「なんか、最近花ばかり見ている気がするな。葬式にも菊の花目白押しだったし」
「そう」
「そういえばさ。お前、朝に花を飾っていたことなかったか?」
「え、どうしてそんなこと知っているの?」
「たまたま見かけたんだ。花が好きなのかなって思った」
「うん、花は好きだよ。お母さんが好きだから植えたりしているから、それを分けてもらって、教室に持って行ったりした」
「女子らしい一面だな」
「一応女子だよ?」
「そうだった」
私たちが笑い話をしていると、怪訝な表情で見つめてくる女の子がいた。紺色のセーラー服はこの近くのお嬢様中学校メルローズ学院中等部のもので、黒髪の前髪はパッツンと切りそろえられている。大きな瞳は真っ赤で、目頭をハンカチで抑えていた。
「あの……」
「ああ、ごめんなさい。うるさかったですか?」
「いえ……」
事故現場で独り言を言っている女子高生は、同情される余地があるのだろう。彼女も気の毒そうな顔を私に向けていた。
「あの?」
「あなたは、秋人お兄ちゃんと知合いですか?」
「ええ、クラスメイトです。……?」
「私は、近所に住んでいて、子どもの頃一緒に遊んでもらっていました」
「そうなんですか」
年下とはいえ面識のない子に対して敬語で話した。
家寿田くんの顔を見てみたら、驚いた顔をしている。少女は涙を流しながら、しゃがみ込んでしまった。
「あ、あの」
私が戸惑って彼女の肩に手をやる。
少女はいつまでも泣いて何も言わないので、私は、
「場所を変えようか」
と提案して少女とすぐ近くの公園に入りベンチに座った。
彼女にペットボトルの水を差し出すと、
「ありがとうございます……」
と控えめにお礼を言ってくれた。
「あなたは、家寿田くんと面識があるって言っていましたね。親しかったの?」
そう聞くと、彼女はさらにブワッと涙を零し、
「私、お兄ちゃんのことが好きだったんです。高校に行ったら、想いを伝えようと思っていたのに、突然こんな……!」
堰を切ったように急に想いを打ち明けた少女も、情緒不安定だった。無理もない。好きな人が亡くなってしまったのだから。
家寿田くんのいる方を見やる。家寿田くんはすごく困ったような悲しそうな顔をして、少女を見つめていた。
少女の名前は、琴平(ことひら)朱音(あやね)さんというそうだ。泣いている彼女にやっと聞き出した。美術部に所属しているらしい。朱音さんは、幼稚園の頃から家寿田くんと面識があること、家寿田くんのことをお兄ちゃんと呼んで慕っていたこと、家寿田くんは控えめな男の子だったけれど朱音さんとは打ち解けてよく一緒に遊んだことを切々と語った。絵をほめてくれた話、一緒におままごとをした話、年上の男の子たちに絡まれた時には控えめなお兄ちゃんが勇敢に立ち向かってくれた話、その年上のいじめっ子に泣かされた話。昨日から家寿田くんの人生を振り返る話をよく聞くなあと私は思っていた。
家寿田くんの話を聞いていると、私もどんどん家寿田くんのことに詳しくなり、彼の人生の一部を知ったような気持ちになる。彼とは実際は二ヶ月程度の付き合いだ。彼がこんなことにならなかったら、彼の幼いころの話もまず聞くことはなかっただろう。それはそれで切ない。
「秋人お兄ちゃんの絵を描かせてもらいたかったな……」
と、寂しそうに語る朱音さんは恋する少女の横顔だった。
朱音さんの隣で、家寿田くんは、
「昨日から恥ずかしいことばかりだな」
と、顔を真っ赤にして呟いていた。
涙が落ち着いた朱音さんは、
「高校での秋人お兄ちゃんの話を聞かせてください」
と聞かれたので、私は私が知っている限り二ヶ月くらいしかない家寿田くんの時間を話した。朱音さんは嬉しそうに聞いていた。でも、瞳は切なく揺れていた。
「秋人お兄ちゃんは、好きな人いたんでしょうか……?」
呟くような問いかけに、私は斜め上にいる家寿田くんを見つめたら、俺に振るな! と、首を横に振りジェスチャーで伝えてきた。
「私も、そこまで親しくなかったからなあ。どうだろう」
「お姉さんは、秋人お兄ちゃんのこと――」
「え?! どうも思ってないよ?!」
家寿田くんは明らかに傷ついた顔をしていた。
「そんな全力で否定せんでも」
家寿田くんの声がいかにも可哀想で、私は、
「ごめん……」
「?」
朱音さんは不思議そうに首を傾げた。
朱音さんと別れて帰り道、私は家寿田くんに訊ねた。
「家寿田くんは、朱音さんのこと好きだったの?」
「そんなんじゃねーよ。朱音ちゃんのことは妹みたいだと思っていた」
『朱音ちゃん』と呼んでいたのか。
「『妹みたい』ってクズ男の定番の台詞だね」
「クズ?!」
「クズ男の定番台詞って言っているのであって、誰も家寿田くんがクズだなんて言ってないでしょう」
「言ってるようなもんだったろ今のは?!」
「怒んない怒んない、血圧上がるよ」
「死んでるから、血圧もねーよ」
家寿田くんはむすくれた。ふよふよ浮いている脚の姿勢も悪く、骨盤曲がるよと言ってあげたかったが、血圧と同じことを言われそうだと思い直した。
「で、冗談はさておき、ホントに朱音さんのことは妹みたいにしか思っていなかったんだ」
「うん、そうだな」
「じゃあ、朱音さんを残して逝くことに関して未練があるとかじゃなかったの?」
「そうだな、朱音ちゃんのことは心配だけれど、それとは違うみたいだ」
「他に心当たりはない?」
「うーん……」
家寿田くんが考え込んでしまった。そもそも、事故現場に行ったのも行き当たりばったりだった。
私は、思いついて口に出した。
「時間が経ったら何か思い出すとかはないのかな」
「いや、四十九日にはこの世にはいられなくなるし」
「やっぱりそういうシステムなんだ」
「俺もよく分からん。生前自分が信じていた世界に行くっぽい」
「ふうん」
この話題は嫌だなあ、と私は思っていた。家寿田くんが別の世界の人間みたいじゃないか。
家寿田くんは、伸びをひとつする。本当に授業終わりみたいに自然な仕草で。
「今日も遅いから、解散だな」
「うん、またね」
『またね』と言う私に、家寿田くんの顔は切なく歪んだ。
「生きてるうちにもっとこういう会話しときたかったな」
今、そんなこと言うなんて。
「そんな悲しいこと言わないでよ」
「すまん。感傷的になった」
分かっている。傷つけあいたい訳じゃないことも。
「あー、その」
困ったときに首に手をやるのは、生きている頃そのもので。私も感傷的になる。
「じゃ、また明日」
「うん、またね」
私は軽く右手を振ると、家寿田くんは振り向いて空気に溶けるように消えていった。もっと生きているうちにたくさん話しておけばよかった。こんなこと思ってもどうしようもないのに。
この感傷は、私を深く傷つける。
その日の夜、お風呂に入りながら私はちょっと泣いた。家寿田くんが死んで初めて泣いたのだった。
静かな夜に、お湯に涙が染み入る。
死んだときは、涙も出なかった。驚いたし、周りもバタバタしていたから泣くどころではなかった、私の心情が。
お葬式の時、同級生の女の子たちが泣いているのを、遠い心持で眺めていたことを思い出す。何というのだろう、あの喪失感。家寿田くんと過ごすであろう未来が失われたと感じたこと。
私は両方の祖父母は健在で、人の死に立ち会ったことがなかった。初めてのお葬式が同級生だった。
死は身近なんだ、と思った。むしろ、生きていることの方が奇蹟なんだと。
人はいつか死ぬ。今まで死ななかった人はいないし、これからも多分いない。
皆、若すぎる死を悼んでいた。
幽霊の家寿田くんと出会って、私は本来の日常を忘れていた。
家寿田くんは、本当はもういない人なんだ。今のほうが非日常で、異常とも言える。いや、奇蹟とも言える。
きっと、神様がくれたきまぐれ。それが、あの空中を浮いている家寿田くん。
神様がくれた、優しい思し召し。
当たり前のように話をして、そっちが日常だと勘違いしてしまう。
「あと、どのくらい話ができるかな」
私は呟いた後、湯船に目の下まで浸かった。暖かいお湯が、安らぎを与えてくれる。悲しい現実から束の間、私を癒してほしい。
別れの朝は出会いの時のように、突然だった。六月にしてはよく晴れた朝。空気は乾いていて、清々しくて。
「冴木。俺、もう行かなくちゃいけないみたいだ」
家寿田くんは笑っていた。いつもの、陽光のような笑顔で。
「行くってどこへ?」
私は分かっているのに訊いた。認めたくなくて、訊いていた。
「ここじゃない場所に」
「もう会えない?」
私の声は涙声だった。油断していると、涙が零れそうになる。
「俺さあ、お前のこと好きだったみたいだ」
「え?」
「最初は思い出せなかった。でも、お前といるうちに好きだったこと思い出した」
もう会えないのにそんなこと言わないでよ。離れたくないじゃない。
「お前が俺のこと話すとき、過去形じゃなかったのが嬉しかった」
家寿田くんが過去形で話しているじゃない。何なの。
「お前を置いてくのに、こんなこと言うのは卑怯だって分かってるけれど、」
分かっているなら。
「お前のこと好きだわ」
「家寿田くん……、私」
「お前は幸せになってくれ」
「家寿田くん」
声に出す言葉は意味をなさない。
「いつかまた会えるかもしれないし、会えないかもしれない。それは俺も分からない。でも、俺がお前を好きな気持ちは本当だし、この事実は変わらない」
涙が零れて止まらない。抑えられなかった。
「俺はこの想いがあれば、充分だ」
「家寿田くんっ」
「じゃあな。元気でな」
「家寿田くん!
家寿田くんは振り返らずに光りに向かって歩いていく。
せめて家寿田くんが行く道に、安らぎがありますように。穏やかな眠りと、優しさに満ち溢れている世界がありますように。
いつもの日常が戻る。家寿田くんのいない世界に。
奇跡が起きるわけでもなく、家寿田くんはいない。
教室のカーテンが風に揺れるのを見つめていると、家寿田くんが幽霊として現れた日のことを思い出す。
あの日確信したのだ。
私は家寿田くんのことが好きだった、と。
生きているうちに想いに気付き、伝えられていれば何か変わっただろうか。何も変わらなかっただろうか。それは分からない。
残ったのは、切ない胸の痛み。
失った後に気付くなんて、私は間抜けだ。
でも、気付けて良かった。
家寿田くんの来訪は、私自身が想いに気付くためのイニシエーションだったのかもしれない。
来てくれてよかった。気付かないより、ずっといい。
暫くは、彼のことを思い出すと胸が痛むだろう。写真も見ることができないかもしれない。会話を思い出すたびに、泣いてしまうかもしれない。
でも、今のほうがずっといい。
この痛みを抱えたまま、私は生きていく。
いつか家寿田くんに会えるその日まで。
おわり
幽霊の家寿田くん 岩田八千代 @ulalume3939
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