第56話 返り咲き
顔を伏せながら廻る過去の記憶が教室の喧噪と混じって現実を汚染した。
冷たい木目に頬をなぞらせながら、レモンのように酸っぱい香りを嗅ぐ。嗅ぐと、胸が締め付けられるように痛くまるで毒のようであった。
――報いって、なんなのだろうか。
咲いた花が枯れるのは自然の摂理だ。だけど、人の手によって引きちぎられるほど花は罪を犯しただろうか。
それが報いというのなら、あまりにも理不尽だ。
けどそれがこの世界というもので、そんな世界が俺は嫌いで。
そんな世界で俺に笑いかけてくれた彼女が嫌いで。
伏せた顔を上げると、そこには醜悪な光景が広がっていた。
まるで昔の俺を映す鏡のように、濡れた楠木が床を拭いている。散らばった花を拾い上げるその様子を遠巻きに何人かの女子が見て嗤っていた。
薄ら寒い光景に拳に力が入る。
いつだってそうだった。
関わらない。人と関わってもロクなことにならない。そう思った矢先には必ず楠木がいる。
昔の俺がいないのも、今の俺がいるのも。全部楠木のおかげだ。
ガタン! と椅子が鳴った。
根底にあるなにかが崩れるような音だった。
「さぼ、やま・・・・・・?」
立ち上がった俺に視線が集まる。楠木の瞳は黒く、濁っていた。青紫に滲んだ唇が震えてなにかを乞うように微かに震えた。
周りは好奇に溢れた視線で俺を見る。なにをするんだと楽しみにすらしている気がした。
俺だって、自分が今なにをしようとしているのかなんて分からない。けど、楠木はあまりにも俺に関わりすぎた。
俺にいくつも残しすぎた。
「なにしてるの・・・・・・佐保山」
床に落ちた花びらを拾い集める。
どうせ使わない体操着を雑巾代わりにして、床を拭いた。
滴を垂らした前髪が視界の隅で戸惑うように揺れる。
悪意はいつか、何倍もの善意になって返ってくる。紫苑はそう言った。今でも覚えているしきっと忘れることのない言葉。素敵な物語というのは、そういうものだからと彼女は言ったのだ。
けど、それは一体どこから沸いてくる? 神様がくれるのか? バカを言え、神様はそんなに優しくはないし慈悲もない。
じゃあ、誰が。誰がその善意を用意するんだ?
悪意に耐えた褒美は誰がくれるというんだ。
「佐保山、いいよ。あたしが拭くから」
申し訳なさそうに水なのか、それとも涙なのか。わけもわからないくしゃくしゃの顔で俺を見る楠木。
この世界は紛れもない、人間でできている。
善意も悪意も、用意するのはいつだって俺たち人間だ。
俺と楠木を指さして嗤うのも人間だ。
転んで額を擦りむいて、手を差し伸べるのも人間だ。
「あたしのために、佐保山がやる必要なんて――」
「必要なんて、ないよな。理由もないし、意味もない。分かる」
全部全部、楠木。お前のせいだ。
お前のお節介が俺を変えた。
お前が仲を戻せとあれほど言った彼女が教えてくれた。
ちょっと腹黒で生意気な後輩にも、好奇心旺盛で頭の可笑しいクラスメイトにも、誰が頼んだわけでもないのに説教にも似た話を聞かされた。
「なにー? あいつら二人揃って。きったねー」
「でもお似合いじゃん。なんか前まで仲良かったみたいだし? 最近は知らないけど」
クスクス。嗤う声が聞こえるたびに楠木が唇を噛んでいる。それは苛立ちなのかそれとも悔しいのか。少なくとも何かしらの感情があるのならぶつければいいのにと思う。
けど、それができない人間がこういう目に合うのかもしれないと考えると妙に納得する。というよりも諦めがつく、と言ったほうが正しい。
「佐保山までこんな目に合う必要なんてないよ」
眼前で、小さな声で楠木が呟く。声は震えているように感じた。
「こんな時にまでよく人の心配できるな」
「・・・・・・佐保山は、強いね」
前にも聞いたことのある言葉だった。楠木はなぜか俺を買いかぶっている節がある。
「慣れてるだけだ」
痛みを感じない人間は強いとは言えない。俺は諦めた人間だからきっと弱い。
こういう世界で逃げ続けることを決めて、どんな仕打ちにもため息をついて呆れてみせた。決して憤りを感じることはない。そういう人間だったのだ、俺は。
「・・・・・・・・・・・・」
普段は明るいくせに、人に指図ばかりして要らない世話を焼くくせに。自分が傷付いた時には何も言わなくなる。
ああ、そうだな。そういう人間をきっと。
「楠木は、弱いな」
「・・・・・・うん」
ギャルだかなんだか知らないが、外見を変えただけじゃ根底は覆らない。変わろうという気持ちは確かに大事なのかもしれないが、精神論に付き合ってくれるほどの暇をこの世界は持っていない。
貧弱で、他人依存の脆い心が、子供がこねる粘土のように歪んで形を変えていた。
「ねぇねぇ柚子っち~」
二人で喋っていると、それを見て我慢ができなくなっていたのかリーダー格である純子が俺たちの近くで屈んで、気味の悪い笑みを浮かべた。
「柚子っちがサボテンのこと好きって噂、ホントなの~?」
「・・・・・・ッ!」
それまで手を止めずに床を拭いていた楠木がピタ、と動きを止める。
「みんな言ってるよ~? 柚子っち、サボテンに妙に優しいし、な~んか乙女みたいな目で見てるし」
俺も、手を止めて楠木を見る。
楠木が、俺のことを・・・・・・?
「そ、それは・・・・・・」
「別に隠さなくてもいいじゃ~ん。ね? 教えてよ~、柚子っち」
楠木と目が合う。その瞳はひどいくらいに汚く、濁っていた。まるで嵐の空模様。雑多に混同した感情が逆巻いている。
青白かった頬が、徐々に朱に染まっていく。
こんな状況だというのに楠木は恥ずかしそうに俯いた。
「ち、違うよ。勘違いだよ、あはは」
乾いた笑いで、けれど誤魔化すように息を吐いているのが俺でも分かった。
あはは、と何かを上塗りするように、笑顔に頼る。それが勘に触ったのか、純子はこめかみをピク、と動かして、そのあと何か面白いことを思いついたとでも言うように口元を歪に曲げた。
「そっか~! そうだよね~! こんな陰キャ、好きになるわけないよね~。ウチらの勘違いだよね~」
言って、手を叩いてギャハハと嗤う。悪鬼のような形相の純子を取り巻く女達も、釣られて嗤う。悪夢のような光景だったが、現実だ。
純子は楠木の顔の横で囁くように言う。
「じゃあここで言ってよ。サボテンとかキモいし嫌いですって」
「えっ」
三日月のような口で、純子が耳打ちして楠木が背筋を張る。染めかかった頬は再び血の気が引いて青白く冷めていく。まるで死人のようだった。
助けを乞うように楠木が俺を見て、そのあと申し訳なさそうに眉をひそめる。
「そしたらさ、この床拭くのはサボテンに任せてウチらはいつも通り一緒に遊ぼ? 仲直りしようよ。ウチら友達じゃん? ねっ、柚子っち」
優しい言葉が気味の悪い。悪魔の誘いのようだった。
「・・・・・・」
何を迷うことがある。楠木。
お前は俺のことが嫌いだと、昔そう言ったはずだ。
俺の告白をクラスメイトの前で振ったはずだ。
お前には救いの道が与えられた。それは俺にはない、今まで築き上げてきたものがあるからだ。手を差し伸べて、選択肢を与えてくれる存在がいてくれてよかったじゃないか。それは確実に楠木自身の功績だ。後ろめたいことなどない、俺なんておいて助かればいい。
「ほら、早く言いなよ柚子っち」
口を噤んだままの楠木に苛立ちを覚えたのか純子の声色が低くなる。空気が途端に重くなったようで、周りの取り巻きもその様子に緊張の面持ちだった。
「こんなオタクで陰キャのなんの役にも立たない、生まれてきた意味も分からない雑草みたいなやつ全然好きじゃありませんって。言えば全部許してあげるからさ。これからも仲良くするよ? 柚子っち」
「あ、あたし・・・・・・」
「うんうん」
「佐保山のことなんて・・・・・・」
言え。
言えよ。
口を動かせ。
俺のことなんて見るな。そんな。
なんだ、その目は。
楠木の瞳は、今までに見たことのないような色をしていた。
嵐に落ちる、雷鳴が轟いているようで。
吸い込まれるように、俺も目を合わせたまま動けない。
「言えよ、ほら」
言えよ。
「言えってんだよ、サボテンなんて花も咲かねぇ、見かけ倒しの棘だけひけらかしてなんの取り柄もない小バエがたかるような雑草、クラスにいるだけで邪魔だって、言えよ」
言えよ、楠木。そいつの言うことは正解だ。
そしてそっちが、楠木。お前が助かる道だ。
俺は慣れてる。けどお前は、お前は違うだろう。
お前はこんな俺なんかを嫌いになって、突き放した。突き放して、優しくしてくれた。
一緒に服を買いに行ってくれた。慣れない場所で弱りきっていた俺の手を引いてくれた。
美味い弁当を毎日食べさせてくれた。俺をいつも褒めてくれた。俺でも知らない俺のことをたくさん教えてくれた。
紫苑との仲を取り持ってくれた。きっと大丈夫だと勇気をくれた。
自分のことなんてほったらかしで、人のことばかり気にするお前は。誰よりも思いやりのあるお前は・・・・・・俺を嫌いなくせに俺を助けてくれた、お前は・・・・・・。
楠木、お前はいつだって俺のそばにいてくれた。
確かに過去、俺は嫌な思い出のなかに楠木を見たこともある。けど、そんなことを帳消しにするくらいお前は善意を振り撒いた。
鬱屈に生きていた俺に歩き方を教えてくれた。報いも報酬もなにも求めず、ただ俺のことを考えて。
・・・・・・なぁ、楠木。お前は本当に弱いのか?
「こいつなんか生きてるだけで――!」
隠していた苛立ちを表に出して、鬼面のような形相の純子が叫ぶ。
違う。
楠木。お前、本当は。
「——こいつなんかって言わないで!!」
・・・・・・強いんじゃないのか。
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