第57話 木漏れ日

 これだけの視線を受けながら、どうして保身に全力を注げない。どこにそんな散漫になれる余裕がある。


 立ち向かう理由はなんだ。自分自身傷つくことを知っていながら茨をかきわけられる強固さはなにを呼ぶ。手繰り寄せたその先で、お前が得することはなんだ。ないだろう。


 無為徒食でしかないお前の行動で、誰が喜ぶ。誰が救われる。たった一人無傷で生還できたとして、それでいいと思えるのか。


「佐保山のこと、何も知らないくせに、そんなこと言わないで!」


 床に視線を落としていた楠木が立ち上がる。この時、はじめてその視線は交差した。鋭く剥かれた目の奥には、青黒い小さな炎が宿るように淡い光を宿している。相手もそれには驚いたらしく、たじろぐような素振りを一瞬見せる。


 が、こいつもこいつで、いらない強靭さを持ち合わせていた。一歩下がれば取り巻きに飲まれる。背後を気にした直後、踵が捻じれるように床を踏んで楠木の前に立ちはだかった。


「なに? ならあんたはこいつのことうちらよりわかるって?」


 頷いても首を横に振っても、おそらく負けるのは楠木だ。包囲するような功名な手口に、俺は吐き気を覚えた。これは、慣れている人間の事の運び方だ。


 勢いよく噴き出る炎にバケツ一杯ひっくり返したような異臭が辺りを漂う。楠木は唇を噛んだのち、小さな手に爪を立てて握りしめた。


 否定すれば、その穴を広げるようにきっと蛆虫たちが群がってくる。だから楠木はその首を縦に振るしかない。


 整然とした理由なんてない。正しい理屈や、寄り添った口論などここには存在しないのだ。数の暴力と、空気の圧力。見えるものと見えないものが渦巻く最中で身が削り取られるのを待つしかない。


 そんな終わりを見てしまえば、人はみな目を瞑り、すべてを受け入れる。受け入れるという体で、諦める。視界を閉ざすとはそういうことだった。


「わかるよ」


 楠木は再び一歩前に出る。


「ずっと見てたもん。誰よりも遠くから」


 遠いというのは、おそらく距離のことではないのだろう。同じ教室で過ごす以上、その物理的な間隔が縮まることはない。


 不変の距離を捻じ曲げ、突き放したのは俺だ。


「ご飯だって一緒に食べたし、遊んだし、たくさんの時間を過ごした」


 俺の前に立つ楠木の背中は、あの日の景色に似ていた。


 額に傷を負って無様に地に伏せている俺に差し伸べてくれたあの手は、惨たらしい現実とは裏腹に輝かしい光を放つ太陽に似ていた。


「・・・・・・昔、ひどいことも言った」


 楠木の言葉に、肩が震える。


 思い出したのか、それともずっと覚えていたのか。それは分からない。ただ、楠木の中で、あの時の件がどういう形で思い描かれているのか。その声色から伝わってくる。


 それは俺の求めた贖罪に近いものだ。けれどそれは、さっぱりこのくすんだ心を埋めてはくれない。


「あんたたちより、ずっと佐保山のこと知ってるよ。少なくとも佐保山は、あたしと、あんたたちに悪く言われるような人じゃない」


 楠木、お前・・・・・・。


「あたしたちみたいに捻じ曲がった人じゃない。佐保山はずっと真っ直ぐで、純粋な・・・・・・優しい人だ」

「はっ、どんだけこいつの肩持つの? ちょっと面白そうだからイジっただけじゃん。本気になりすぎ。やっぱさ、柚子がサボテンのこと好きって噂ホントなんじゃん?」


 純子はあえて声を張り上げてこの教室にいる全員に聞こえるように言った。


 すると取り巻きは呼応するように囃し立て、乾いた嗤い声が一層大きくなった。一瞬、恵と目が合う。揺れた網膜が反射した蛍光灯を揺らしていた。


 殺伐としていた空気が一気に黄色い声ばかりに変わる。けどそれは事態の収束ではない。彼女らが作り出した、皮肉の嵐だった。


 もう、勘弁してくれ。


 俺は別に、争いを加速させるためにここにきたわけじゃない。


 ただ面倒だったんだ。


 目の前で起こるすべてがしょうもなくて、バカバカしくて。おもちゃみたいなナイフで出来る作り物の傷を見るのが嫌だったんだ。


 楠木も楠木だ。


 その強さは立ち向かう時にしか役に立たない。自分を守る強さは、もっと別のところにある。


 反発するだけ跳ね返ってくるものがあるように、一矢報いればそれ相応の逆襲が待っている。そのへんでやめておけ。


 こっちが折れれば済む話だろう。


 俺は自分が悪いとも、楠木が悪いとも思っていない。ただそういう答え合わせがしたいんじゃなくて、嫌いなんだ。


 人間の感情が交差するこの瞬間が。俺は昔から。


 嫌いなんだ。


「好きだよ」


 自分の耳を疑った。


「あたしは佐保山のことが好きだよ。だから、なに?」

「うそ」


 純子は心底驚いたように目を丸くした。そして。


「ギャハハハ! マジで!? いやゴメンホントだとは思わなくて、うわ、ハハ」


 純子は腹を抱えて大嗤いした。闇夜に轟く獣のような声だった。


 しかし俺も、純子と同じような顔で楠木を見ざるを得なかった。


 楠木・・・・・・お前、何を言ってるんだ?


 もしそれがこの場を収めるためのウソだとするのなら、ああ。それはいい策だ。


 反発を生むよりも、道化を演じたほうがまだマシだ。傷口は深くなるかもしれないが、それでも、拷問の時間は短縮される。苦痛を免れるのなら、相手に合わせた虚言は有効な手段だ。


 ならそれ以上の深追いは不要だろう。


「純子。あんたもさ、あたしと同じだよ」

「は?」

「あたしも、そうやって誰かの好意を無碍にした。誰よりも、自分が大事だった」


 戻れよ。


 なんでお前は、また前に出る。


「そりゃあさ、その時はいいよ。でも純子。それは一生の後悔を生むんだよ」

「なに言ってんのお前」

「恵」


 楠木は次いで、後ろの恵に目をやった。


「恵、前に道に咲いてる花を見てかわいいって言ってたよね。あたし知ってるよ。恵が花を好きなこと」

「バカじゃん。その恵が、目の前でその花ちぎってんだよ」

「言うこと聞くしかなかったんだよね」

「無視すんなよ」

「ね、恵」

「おい!」


 純子が楠木の肩を掴む。しかし楠木は恵を見たまま視線を動かさない。


 恵は、楠木の視線を受けて何も言えないでいた。ただ目を泳がせて、一瞬口を開きかけたようだったが、すぐに閉じた。


 楠木は半ば胸倉を掴まれたような体勢のまま、純子を見る。


「純子も、かわいそうだね」

「はあ?」

「純子も、あたしと同じだ。一生、後悔して生きていきなよ。すっごく苦しいよ。全部自分が悪いのに、それなのに悲しい気持ちが生まれて、流れる涙がとてつもなく自己中心的で、そのどうしようもなさに一生、背中を追われて生きていくんだよ」

「ふざけんな!」


 純子が楠木を黒板に叩きつけると、器具が外れたような大きな音が鳴りチョークが床に散らばった。


「誰がかわいそうだって?」

「純子、あんただよ」

「よくそんなことが言えるわ。どうなるかわかってんの? マトモに学校生活送れないようにしてやってもいいんだけど」

「うん。でも、決めたから」

「なんだよ、決めたって」 


 楠木は黒板に押し付けられ、黄色の髪が石灰で汚れる。苦しそうなほどに締められた首元から軋むような音がこちらにまで聞こえてくる。


 楠木は一瞬、俺を見て、それから純子に視線を戻しはっきりと言った。


「誰かを犠牲にして自分だけ助かるなんて真似、もうしたくないの」


 瞬間、純子の手が大きく振り上げられた。


 数秒後のことは簡単に想像ができた。


 映像ばかりで、そこへ至る劇的なドラマや、人物の葛藤など存在しない。ただ真っ直ぐで、無骨な暴力。


 虐めというのは、そういうものだ。俺はそれをよく知っている。


 意味がわからない。なにが気に入らない。


 どうして俺なんだ。


 そこまですることか。


 何度も思った。


 けれど事態は悪化するばかりだ。


 一度聞いてみたこともある。


 虐めっ子は言った。


『知らねえよ』


 俺は笑った。


 理由なんてないのか。


 なら、いいか。


 腐った世の中が絞り出した、異物が俺たちなのだとしたら、甘んじて腐り落ちていこう。そう思って、俺は意味不明目的皆無の、終わることのない虐めに耐え続けた。


 暴力は、ただのはじまりにしか過ぎない。


 それが今、俺の目の前で行われようとしている。


 楠木・・・・・・。


 でも、違うよな。


 お前は、俺とは違う。


 楠木は、俺が持っていないものを持っている。


 そうだろ。


 俺と違ってただ陰湿に生きてきたわけじゃないだろ。


「せんぱぁい、暴力はダメですよー」


 聞こえた声はあまりに幼く、場違いなほどに甘々しいものだった。


「ね? 穏便にいきましょうよ」


 今にも振り下ろそうとした腕を掴んでいたのは、鬼灯だった。

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