第六章
第55話 確かに好きだったんだ
自分は特別な存在なんだと思っていた。
才にあふれ、能力に秀でて、誰もが一目置くような存在で、いつだって先頭に立って輝く存在。そう思っていた。
運動はできて、頭も良かった。容姿もそこそこに、これといった欠点もなく。強いて言えば口数が少ない程度の非常に健全な一人の人間。
だけど、それだけだった。
アニメや漫画のような、俺の思い描いた特別な展開など何一つ起こることもなく平坦な日常が過ぎていった。
周りを見てみれば、俺より優秀な人材など星の数ほどいた。化け物みたいに速く走れる同学年の男子や、俺よりも頭のいい生徒。もっと面白くてクラス全員に慕われているようなリーダー。
俺の上位互換である存在がそこら中に転がっていたのだ。
――なら、俺は一体何者なんだ。
気付いてみれば、自分にきっとあると信じて疑わなかった才も無く、能力も平凡で勉強にはいつのまにかついていけなくなっていた。
右に倣えで生きる自我を持たない有象無象のモブ。そう思っていた奴らは、いつも楽しそうに、何かを目指して、心を燃やすように目を滾らせていた。
脇役の癖に、何をそんなに躍起になっているんだと思う俺は気付いたらそいつら以下の存在になっていた。
周りとは違うことをしようと生きていたはずが、いつのまにか周りと同じことすらできなくなっていた。
俺は、一体なんの為に生まれてきたのだろう。
自信も生きる意味も失った俺は独りになっていた。
俺なんかが、誰かと笑い合って手を繋いで、人生を謳歌するなんて烏滸がましかったのだ。
凡人以下の非生産的でどうしようもなく無価値な塵屑。
俺は、主人公なんかじゃなかった。
特別な存在なんかじゃなく、特別な存在になろうとしていただけの哀れな脇役。
これまで地球上に何億と存在してきた人間と同じように生きて、同じように死ぬだけの、生ごみに集る無数の羽虫と同列の存在。
生まれて消えるを繰り返すその工程の中の一部、それだけだったのだ。
「佐保山って、パソコン打つの早いよね。すごいなー」
そのはずなのに。
「うん? えー!? すごいよ! あたしなんて全然ダメダメだもん! えんたー? とか言われてもどこかわかんないレベルだし!」
俺なんかを称えてくれる人がいた。
「あ、そうだっ! 今度授業でタイピングのテストするでしょ? みんなどうも苦戦してるみたいで、良かったら教えてあげてくれないかな」
俺なんかを、必要としてくれる人がいた。
「なんて、ほんとは私がただご教授してもらいたいだけなんだけどね。あはは」
俺なんかに、笑いかけてくれる人がいたのだ。
「え? クラスの人と話せない? 恥ずかしくて? コミュ、障? うーんと、よくわかんないけど」
とても可愛くて、優しくて、笑った顔が素敵だった。
「お節介かもしれないから、嫌だったら断ってね? あのね? そしたらあたしと、お話できるように練習、しない?」
差し伸べてくれた手はとても細くて、重いものなんてきっと持てない華奢な腕。だけど、その手は重く、とても重くずっしりと岩のようになった俺を引っ張り上げて、彼女は言う。
「そうしたら、もっと楽しくなるはずだから!」
あまりにも眩しいその言葉に俺が重ねたのは、闇に塗れた後ろ向きなものだった。
――俺なんかが。
それは何年も、何年も思ってきたこと。
なんの取柄もない、蛆虫のような俺なんかが。他者を見下して自分を正当化していた性根の腐った俺なんかが。
「佐保山、授業中はいっつも寝てるのに、テストの点数は悪くないの知ってるよ。でも、体育は苦手みたいだね。前に跳び箱にダイブしてるの見ちゃった、ひひっ。あ、あと牛乳嫌い? よく残してるよね。それに・・・・・・あ、佐保山ってまつ毛長いんだね、羨ましいなぁ」
きっと俺が欲しいのは、承諾の印鑑と声明なのだ。
「・・・・・・佐保山は、私からしてみれば、すごく」
だからその言葉は。
「特別な存在だよ」
鉄格子を開ける鍵で、暗黒に閉ざされた世界に一筋の光が射したのだ。
「だから、俺なんかが、なんて。言っちゃダメ」
俺の唇に当てられた彼女の人差し指は、とても温かい。
「じゃあ、今日から。一緒に頑張ろうねっ」
この教室という狭い世界で、俺は確かに受肉を果たした。
何かを産むわけでもない。歴史に名を残すわけでもない。狭い狭い、井戸の中の蛙だけど。そんな世界でも、人知れず終える小さな命であっても。
俺という存在を彼女が肯定してくれたことで、何かが変わった、そんな気がしたのだ。
隣の席の、初めて話した女の子。
最初は憧れだった。
すごい、きっと彼女みたいな子こそ主役になれるような存在なんだろうなと思った。
あとは単純な男子小学生の形成途中の心なら、そう時間はかからない。
翼を持たない人々が空に恋い焦がれたように、俺もまた、太陽のように眩しい彼女の笑顔に恋をした。
それが、俺の初恋。
誰かを好きになった原初の記憶である。
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