第6話 月下の誓約


 帝都周辺の不穏分子討伐を目的とした派兵。

 友好国〝びるしゃな〟からの特使を迎えるにあたり、政治的意図で行われたその作戦は、最後の最後で大問題を引き起こした。


 朝廷軍の一隊、嘉見条かみじょう政孝まさたか以下二百の兵が消えたのだ。


 とある山奥の廃村に派兵された百人隊。その帰隊が遅れていることを懸念した嘉見条政孝が、自ら新たに百人を率いて向かった。


 確かなのはそこまでである。


 当該の廃村には、大規模な火災の跡があり、おそらくは、二百の兵はその火災に巻き込まれて全滅したのだろう────というのが、朝廷の発表した公式見解だった。


「……しかし、いくらデカい火事だからって、二百人からが全員焼け死ぬなんてあるのかね」


 そう言って疑念に首をかしげたのは、浪人風の青年だった。

 酒場の片隅の一席、杯を片手に座した彼に、対面に座した同じく浪人らしき中年男が赤ら顔で応じた。


「それなんだがな……知ってるか? その二百人、家族のとこには骸どころか遺品のひとつも戻ってないらしい」

「は? どういうことだよ」

「骸は焼けて損傷が激しく、遺品は燃え尽きた……ってことらしいが、いかにも怪しいよな。だから、本当は、どっかに逃げたんじゃねえかってのがもっぱらの話だ」

「逃げるって……?」

「鈍いなオメエ、要するに朝廷軍から離反したってことだよ。辺境には朝廷様の威光も中々届かねえからな。こないだのイガワみたいに、謀反企ててるヤツらは居るだろうよ」

「イガワ領の反乱は百姓一揆だろう?」

「うるせえな、揚げ足とんじゃねえよ。とにかく、消えた軍隊の長はあの嘉見条様だ。今回の出兵に乗じて、どこぞの反抗勢力んとこに駆け込んだんだよ。謀反のための逃亡さ。で、特使が来る直前で体裁悪いからって、朝廷は隠してんだ。そうに違いねえ」

「……でも、何で謀反なんか?」

「ああ? だから、嘉見条政孝だぜ? あのイカレ剣聖様の親友だ。イカレの仲間もイカレてたってことだよ。しかも、そのイカレの跡継ぎまで一緒に消えたっていうじゃねえか、なら、何したってオカシイこたあねえだろうよ」

「……そうかな? その推論はずいぶん乱暴で無理矢理なこじつけだと思うぜ。それに、先代の冬悟様はともかく、冬次郎様は立派な武士だよ。謀反になんて加担するとは思えない」

「ハッ! そうかい、腐っても剣聖様ってか。なら、その立派な十代目様は嘉見条の叛意を阻もうとして、消されちまったのかもな!」

「……もうよせよ。こんなの御公儀に聞かれたら、即お縄だぞ」

「…………」


 青年の冷静ないさめに、酔いが回って勢いづいていた中年は、ようやく自身の発言内容に気づいたようで声をひそめる。

 以降は、ふたりともおとなしく杯を重ねるだけだった。

 他の酔客たちも似たり寄ったり、聞き耳を立てていたところで情報は得られそうにない。ならば、ここらが潮時であろう。


 私はゆるりと席を立った。

 勘定を済ませて店を後にする。


「ま、まいど……」


 見送る給仕の声は、やや不審げに濁っていたが無理もない。

 今の私は服装こそ先の浪人ふたりと同様だが、顔にはグルグルに包帯を巻き付けているのだ。

 怪我をしているわけではない、顔を隠すためだ。包帯顔の浪人などいかにも不審ではあるが、素顔をさらすわけにはいかぬ。頭巾や仮面をかぶるのは怪し過ぎる。包帯なら、まだいくらかマシであろう。


 当に日の沈んだ夜の街並みを歩く。

 街の賑わいも、行き交う人々の様子も、特に代わり映えのない。見慣れた都の光景だ。


 何だか、奇妙な違和感がある。


 あのような常軌を逸した怪異に遭遇してしまったせいだろうか?

 何やらこの平穏で真っ当な光景が、どうにも馴染めないというか、違和感があるのだ。


 街が平穏であることが……ではない。

 その平穏の中に、自分が居ることが……だ。


 思い起こせば、瞬時に百人隊を呑み込んだあの闇の色彩がありありと脳裏に浮かぶ。全てを覆い尽くそうと迫った黒炎の奔流。

 その圧倒的な脅威と、そして、その圧倒的な暗黒を一閃に斬り裂いた白銀の斬光────。


 物思いながら歩いている内に、いつしか街明かりを抜け、人通りは途絶え、微かに水の流れる音が耳に届き始めていた。


 見やれば、川の畔に立つ白い影。

 白い衣をまとい、白い肌に白い髪を流した、白い女。あの暗黒の怪異を一刀に討滅してのけた剣士。


 マキナ・ラクシュマナ。

 

 夜闇の中、その身はあたかも降る月明かりを宿したかの如くに。淡く輝くようなその女は、当にこちらに気づいていたのだろう。

 かぶった白き薄布越し、紅い瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。

 相変わらずの虚ろな瞳に、私は少し気圧されながらも呼び掛ける。


「すまない、待たせてしまったな」


 歩み寄って軽く一礼すれば、彼女はカクリと小首をかしげた。


「なぜ、あやまる? トウジロウは特に刻限を定めはしなかった」

「……いや、そうなのだが。長らく待たせたのは事実だろう」

「問題無い。わたしは待つのは苦ではない」

「……そうか、まあ、気にしていないのなら良い」

「うむ、トウジロウが良いなら、わたしも良い」


 頷くマキナの白い貌は、能面の如く変わらぬまま。

 本当に、妙な女である。

 私は調子を整えるために浅い呼気をひとつ。


「やはり私は、世間では死んだことになっているようだ」


 街の各所で聞き耳を立ててきた限り、そのようだった。とはいえ、先刻の酒場で聞いたような不穏な流言もあるし、朝廷側が真実どのように考えているかはわからぬが、公的には死亡扱いになっている。現に真結月家では、私の葬儀の準備が行われているらしい。


 正直、好都合だった。


 安堵に口の端を緩めた私に、マキナが静かに呼び掛けてきた。


「トウジロウ」


 綺麗に透き通った、笛の音の如き美しい声。美しいが、それだけの無機質な音。


「あなたは、生きている。死の形をだますこと、必要なのか?」


 奏でられることなく、ただ、鳴らされただけの音色のように抑揚なく紡がれた片言の問いに、私は肯定を返した。


「どの道、戻ったところで、此度の責を問われて腹を切ることになる」


〝帝の剣〟を号しながら、守るべき仲間を誰ひとりとして守れなかった。完膚なきまでの大失態だ。


「ましてや、人ならざる〝あやかし〟を前に敗北したなどと……」


「……〝あらざる黒アンダカ〟は、秘すべき災厄。あなたが黙り、わたしも黙れば、良い。あなたは敵と戦った。敵はみな逃げた。味方はみな死した。死した味方はヤカタごと焼いた。それでダメなのか?」


「駄目だ。いずれにせよ、同胞の全てが討ち死にした中で、ひとりおめおめと生き延びたるは、士道にもとる恥じである。死して詫びるべきは変わらぬよ」


 あるいは、私が武士でありたいならば、それで良いのかもしれない。

 先刻の酒場で聞いた、あの浪人の言葉がよみがえる。

 真結月冬次郎は立派な武士である……あの青年はそう言っていたが、それは誤解なのだと、今の私は断言できる。


 私は武士ではない。

 剣士だ。


「私は、武士として誉れに殉ずるのではなく、剣士として剣に身命を懸けたいのだ」


 母上や、真結月流の門下には申し訳もないことだが────。


「剣士と、武士。それはどちらも同じ武人クシャトリヤと、違うのか? 良く、わからないが……」


 マキナはやはり、無表情のままに首をかしげながら、


「あなたは、父君と同じなのだな。トウジロウ」


 続いたその指摘は、私の中の何かを激しくザワつかせた。


 我が父……真結月冬悟。


 人ならざる何かを斬りに行ったであろう父。そして、その父の佩刀を届けに来たマキナ・ラクシュマナ。人ならざる闇を一刀にほふった剣士。


 彼女は、何者なのか?


 言動や、そのイデタチや名の響き、おそらくは西海の向こう……つ国の者なのだとは思う。ならば、此度の〝びるしゃな〟からの特使に関わりある者であるのかもしれない。

 子細はわからない。問い質してもいない。

 無様にくずおれていたところを救われた私が、恩人である彼女に訊ねているのはひとつだけ────。


「オマエは、何者なのだ?」


 もう何度目かの問いに、マキナは微かに吐息をこぼした。


「本当に、あなたは、何度も、同じ事を問う。けれど、そうだな。何度も問うということは、わたしは、その問いに、正しく答えていないのだな」


 真っ直ぐにこちらに正対し、真っ直ぐにこちらの眼を見据えて、白い女はゆるりと首元に片手を添えた。

 そこにあるのは、白い姿の中でなお白く輝く銀色の首飾り。片手に収まる大きさのそれは、狼だろうか? 牙を剥く獣の貌を象ったそれを小さく掲げて、告げる。


「わたしは、マキナ・ラクシュマナだ。リタのヴェーダに連なりしヴァルマン〝ユイ〟より、白光しかりのルドラを賜りしアヴァターラ。あなたの父君に望まれ、戦った。そして、父君を斬った者だ」


 淡々と語られた内容は、ハッキリ言って何のことやらであった。

 わかったのは後半の〝父と戦った〟というところだけ……だが、知りたいことはそれで充分だった。


 私は、腰の刀に手を添える。

 市井を探る傍らで新たに調達してきたものだ。数打ちの無銘刀なれど、現状にあっては得られただけでも幸いであろう。


 剣士が剣を携えぬままに、為せる何事もありはしないのだ。


「マキナ・ラクシュマナ……どうか、私と尋常なる手合わせを所望する」


 剣気を込めて求めれば、マキナは不思議そうに小首をかしげながらも、しかし、意図は伝わったのだろう。


「父君の、仇討ち……望むのか?」


 意図は伝わった。しかし、誤解があるようだ。


「仇討ちではない。むしろ、その逆だ。私は、父を斬り伏せた者を討ち倒すことで、父を殺したいのだ」


「……………………」


 マキナの紅い瞳が微かに揺れる。

 表情が無いので判じ難いが、困惑しているのだろうか? 外つ国人たる彼女には、言葉と言い回しが難しかったのかも知れぬ。

 私は息吹をひとつ。

 改めて、我が意を砕いて投げ掛ける。


「私は剣士だ。剣士とは、剣をもって世界に挑む者だ。なれば、己より強い剣を振るう者を前にして、それに挑まずにはいられない」


「……ああ、わかった。あなたたちは、強くあることをヴラタとするのか……だから、あなたの父君も、わたしに挑んだか……。我らアヴァターラが〝あらざる黒アンダカ〟を狩るのと同じ……なら、そのような衝動を、わたしは好ましく思う」


 そう言ったマキナは無表情のまま、声音も淡々と。ただ、その紅い双眸だけが、微かに細められた気がした。


「剣で挑むあなたを、わたしは受け入れよう……」


 マキナの白い右手が、白い左手にある白刀の柄に伸びた。


 私はゆるりと身構える。身を低く、牙剥く獣の如く伏せたそれは封韻流〝靱狼じんろう〟の構え。

 抜き打ちの一刀に剣気を漲らせながら、私は眼前に立つ白い女を……その姿を、四肢の形を、立つ位置を、息づかいを、視線を、五感に流れ込み読み取れる全てを脳裏に展開する。


 対峙した相手が、その身で、その得物で、この場所で、この私に対し、どのように動き得るのかを、想定し、計算する。


 向き合うマキナは、ふと、微かに視線を上向けた。

 降る月光に思いを馳せるかのような、ほんの微かな視線の動き。果たしてそれはこちらの攻めを誘うものか? 否、どうやら、純粋に月夜を垣間見ただけなのだろう。

 彼女は、すぐに視線を戻した。


「剣に生きる者が、剣士。ならば、わたしが剣にてあなたを倒したなら、あなたをどうすることも、わたしの自由……か?」


 再び視線を重ねた紅い瞳は、妖しげな光を宿して問うて来た。こちらの心の臓をわしづかんでくるような、鋭くも熱い眼光。

 上等だ。

 元より、負ければ命は無いものと心得ている。

 

「好きにするがいい」

「わかった。好きにする」


 微かに声音が弾み、人形の如き白面が小さくほころんんだ。

 微笑んだ……のか?

 命のやり取りに笑う。どうやら、外つ国の剣士も、同じく度し難い生き物であるようだ。


「さあ、始めようトウジロウ」


 声音は静かに、紅い眼光が真っ直ぐに私を見据えて開戦を告げる。

 しゃらん────♪ と、鈴の音のような鍔音が夜気を裂く。

 抜刀したマキナ。抜き放たれた白銀の刃が、月明かりよりもなお澄んだ光を返して大上段に掲げ上げられた。

 私もまた鯉口を切り、踏み込む足に全霊を込めた。


 ……いざ!


 互いの初撃は、瞬に重なって夜気を裂く。


 抜き打ちに薙いだ我が一刀と、迎え撃つマキナの一刀。

 弧を描いた二閃の斬光が交錯し、互いの身を紙一重に行き過ぎた。

 私はすぐに身をひるがえし、旋転するように二薙ぎ目を放つ。振り向き様に斬り払った空間には、しかし、白い女の姿は影も形も無かった。


「速いな、トウジロウ。あなたは、本当にヒトの子か?」


 静かな囁きは頭上から降ってきた。

 見上げれば、月光を背負って宙に舞うマキナの姿。一瞬で頭上を宙返ったその俊足に瞠目するよりも、宙にある今こそ好機と、私は直ぐさまに斬撃を振り上げた。


 轟と閃いた剣風。

 踏み締める足場の無い空中のマキナは、かわしようがない。ならば刃で防ぐしかない。


 そうするしか無いのなら、させはしない。


 私は斬り上げの最中にて、剣柄を握る両手を己に引き寄せた。さながら天井から垂れた荒縄を引っこ抜くかのように、ぐるりと上体をねじって屈み込み、握り締めた刀を腰だめに構える。

 柄を右腰に、剣尖を頭上に、身を伏せたわめた反動に地を踏み締めて、立ち上がり様に刃を突き上げた。


 封韻流撃剣術〝雷電光らいでんこう〟────。


 斬り払う勢いを、そのまま身をねじり撓める動きに転じて刺突に放つ。

払いから刺突、線から点への稲妻の如き変則軌道に、すでに受けに構えた空中のマキナは抗いようも無いだろう。


 斜めに走った刃の穿光。

 見上げた視界に、光の花弁が舞い散るのが見えた。直後、天を衝く勢いで放った私の刺突は、文字通りに天だけを衝き上げた。


「……なッ!?」


 必中と信じた刺突の空振り。刃は受けられたわけでも、弾かれたわけでもない。目標を失った純然たる空振りだった。


 見上げた視界の端、長い銀髪が夜空に流線を描き、月明かりを透かした白布が夜風に踊る。


「速く、鋭い。トウジロウ、あなたは、とても良い」


 上空から降った囁き、マキナの囁き、寸前まで頭上に居たはずの彼女の姿は、斜め右手にあった。

 地上ではなくの斜め右手だ。


 なぜ!?


 そう疑念に惑う間など与えられぬまま、トンと乾いた音が響く。

 跳躍に地を蹴りつけるような、乾いた足音。

 空中のマキナが、空中にあるままに何かを蹴った音。

 踏みつけたその空間で、光の華が咲き開き、瞬に弾けて舞い散った。

 何も無い空中に咲いた光華、マキナはそれを踏み締め、蹴りつけているようだった。


 光の華────。


 それはこれまでも幾度か彼女の周囲に垣間見た光輝だ。 

 その光の華が何なのかなどわからない。欠片も理解できない。困惑と混乱に駆り立てられながらも、私は剣を〝綾蜘蛛あやぐも〟に構えて、迫る白い女を迎え撃つ。


 月光を背負ったマキナが、白刀を振り上げる。

 斬り下ろされる太刀筋を読み、私は斜めに半身を踏み出しながら剣閃を返した。回避と攻撃を重ねた一挙動の斬撃は、しかし、またもむなしく風だけを斬る。


 光が舞い散っていた。

 寸前で光華を蹴って身をひるがえしたマキナ。夜のとばりの中で、月光を浴びた彼女はなお蒼白く、淡光をたなびかせて傍らに降り立っていた。

 身を伏せて剣を構えたマキナに、剣を振り切った姿勢の私は戦慄しながらも全速で身構え直そうとして────。


『……白光しかり咆吼ルドラ……月詠つくよみ蓮華輝れんげき……』


 マキナの唇が何かを唱えた。

 異国の言葉であるそれは、だが、耳に届いた途端に意味を響かせる。意識に、あるいは魂魄に染み入るようなその不思議な音色に、私は思わず動きを止めてしまった。


 致命的なスキ……なれど、果たして動いていたところで、何が変わったわけでもなかっただろう。


 マキナの右手が閃き、白い刀身が弧を描く。

 直後に弾けた白銀の光輝。それはあたかも大輪が咲き開くかのように大きく弾けて、私の視界を覆い尽くす。

 舞い上がる花吹雪が、まばゆい暴風となって私をね飛ばした。


 川原に叩きつけられた私は、すぐに身を起こす。

 しかし、踏み締めた足が、身構えようとした腕が、夜気を裂き舞い踊る白光の花吹雪に流々りゅうりゅうと薙ぎ払われる。

 見た目の優美さとは裏腹な激しい衝撃に、私はさんざんに打ちのめされる。立て続けの激震に呼吸が詰まり、膝が笑い、意識が揺れ、ついには握り締めていた剣柄を手放して、地面に叩き伏せられてしまった。


 何が、どうなっているのだ……!?


 張り上げた疑念は、呻きにすらならずに喉元で掻き消えた。


 わからない!

 何をされたのかわからない!

 煌めき舞った白き光の花吹雪……あれは何なのだ!?

 わかっているのは、その全てが、あのマキナの振るった斬撃によってもたらされたものだという事実だけ。


 ザリッと、地を踏み締める気配。

 倒れ伏した私のそばに歩み寄るマキナの気配。

 私は懸命に首をねじり、敗者を見下ろしてくる紅い瞳を睨み上げた。もはや、それぐらいしかできなかった。

 手も足も出ぬとは、正にこのことだ。

 

 人ならざる者。

 神威の魔剣士。

 そう表する以外にはない、超常の剣閃。


 ……ああ、だから、そういうことなのだ。


 父は……真結月冬悟は、戯れ言に逃げていたのではない。

 武士として、嘘偽りでの弁明を善しとせず、信を得られぬを承知で事実を述べただけのこと。

 剣士として、己の力及ばぬ事実に絶望し、くずおれていただけのことだったのだ。


 そして、絶望に沈んでいた父は、その絶望から最後に這い上がろうと足掻いた果てに、この白い女に挑んだのだと────。


 女の右手が、白刀をひるがえす。

 弧を描いた刃光。トドメに振り下ろされるそれから、せめて、眼を逸らすことだけはなるものかと、私は両の眼を見開いた。


 だが────。


 刃は振り下ろされることなく、白鞘の中に消える。澄んだ鍔鳴りが、伏した私の耳朶じだを射抜いた。


「……なぜ……?」


 疑念の呻きに、マキナは微かに首をかしげる。


「なぜ……とは? 約束を、忘れたか?」


 ふわりと膝をついた彼女は、その双手で私の顔を挟み持って、半ば無理矢理に引き起こした。四肢が言うことを聞かぬ私は、わずかにも抵抗できぬままに、ただ、ただ、彼女を睨んで問い返すしか術がない。


「……約束……だと?」

「そうだ。剣を持ったあなたを、わたしは、剣を持って倒した」


 間近に覗き込んできた瞳。その深紅の色彩が、円らに見開かれて真っ直ぐに見つめてくる。


「だから、あなたは……わたしのものだ。トウジロウ」


 抑揚の無い宣告。人形のような女は、能面のような無表情のまま、それでも、その頬を微かに朱に染めたように見えた。



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