第5話 魔剣士


 件の廃村にたどり着いのは、東の空があかつきに染まり始めた頃だった。

 指揮官たる嘉見条殿以外は下馬し、馬を繋いで村内に踏み入った。

 ぐるりと見渡してみるが、当然、住民の姿などない。

 立ち並ぶ家屋は古びてはいるものの、朽ちてはいない。そのどれもに生活臭があり、丁寧に修繕補修された跡が見て取れる。砕け壊れた壁や戸もあるが、その破損は最近のものと見て取れた。

 そして、屋外に並ぶのは農耕具や狩猟具、家畜小屋には鶏や牛馬の姿がある。


 何より問題なのは、集落内にある田畑だ。

 踏み荒らされてはいるものの、収穫前の作物が並んでいる。現に農作が行われていたのは明らかだ。


 野盗や山賊でも、拠点とする場所の修繕はするだろう。大所帯ならば、建物の全てを利用することもあるだろうし、牛馬や鶏を飼うこともあるだろう。


 だが、賊がここまで本格的に農耕に勤しむものか?

 まして、ここに居た賊は二十名ほどだという。なれば、この場所はあまりにも村の体裁を整え過ぎている。


 田畑の緑を汚す鉄臭い色彩、同様の痕跡は至るところにあれど、例えば矢弾を撃ち合ったような、明確な戦闘の痕跡は見当たらない。


 ならば────。


 私は、あの伝令役を見やる。

 ここに至るにつれて動揺を濃くしていた彼は、たどり着いた今は眼に見えて双肩をビクつかせていた。その怯えは、未知の脅威に迫るがゆえと思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。


「ここに居たのは、野盗の一団。そう言うたな……」


「……ハッ、……その……」


 私の問いに、伝令役は更なる動揺をもって口籠もった。

 なるほど、もはや事実は揺るぎない……要するにだ。

 

「……ここに居着いておったのは、流民か」


 嘉見条殿が得心した様子で質せば、伝令役は息を呑みつつ、観念したように深々と頷いて見せた。


 野盗などの賊ではなく、流民。ならば、本来は保護、あるいは行政官の派遣による村興しが原則である。

 それが、なぜ鏖殺おうさつなどということになった?

 武器を持って抗われた様子もない。ここで為されたのは一方的な殲滅と見て取れる。


「こ、この地に住み着いていたのは、旧イガワ領からの流民でした。それゆえ、我ら朝廷軍を敵視しており、言に耳を貸そうとせず……」


 保護はもちろん、こちらからの支援策も拒絶したのだという。

 無理もないと言えば、無理もない。彼らにしてみれば、朝廷は憎い仇なのだから。


 だが、それで放置はできない。

 都周辺の全てを朝廷の管轄下に置くこと……それが此度の勅令ちょくれいである。乱の落人たちであり、さらには朝廷への敵意を抱いているのなら、なおのことに捨て置けぬ。


 交渉は難航し、やがて、部隊長は強硬手段に出たようだ。すなわち、流民たちを反乱分子とみなしての殲滅だ。


「い、いかなる場合も、今回は全ての地区を平定するのが大前提であり、例外は認められないとの命ゆえ……! 我々は────」


 伝令役はしどろもどろに狼狽えながら、説明だか弁明だか判じかねる台詞を並べ立てる。

 遺体を焼き、集落も解体……いっそ同じく焼き払っても、今回の作戦ならば特段疑われもしない。なれば、確かに証拠も残らない。

 参加した部隊の全員が口を割らない限りは……な。

 浅はかな隠蔽工作だ。

 それとも、部隊の総意による偽装ではなく、この伝令役が個人的に、非戦闘員を鏖殺した恥と罪悪感から偽ったのか?

 いずれであるにせよ……だ。


 無体な────。


 私は、思わず込み上げたその言葉を、喉元で呑み込んだ。口に出すわけにはいかなかった。

 従わぬ流民たちを殲滅。

 それは確かに無体であり、哀れではあれど、こと、この場合にあっては

 嘉見条殿はそう思っているだろう。居並ぶ他の武士たちも同様だ。


 だから、嘉見条殿が怒りに顔を歪めた理由は、流民を斬り捨てたことではない。


「それが使命であると断じて斬り捨てたなら、惑うな。まして、報を偽るなど、それこそ士道に背く怯懦であるぞ!」


 相手は賊であった……と、偽ったこと。

 それが指揮官の怯懦であれ、この伝令役の怯懦であれ、その一点こそが士道不覚悟であるのだと、嘉見条殿は鋭く言い放った。

 伝令役は、地に額を擦りつけて呻いていた。

 その姿を、私はどこかやり切れぬ思いで見やりながら────。


 武士として重んじるべきは、主筋である朝廷の安寧であり、その直轄たる都の平和だ。


 流民の命と、帝の勅令と、どちらを取るべきか?


 武士として、天秤に乗せるまでもない事柄である。

 武士ならば、しかと心得ている士道の条理である。


 だが────。


 私はそれを心得きれず、哀れみがわき、憤りが込み上げる。

 何も殺すことはなかったではないかと、そう思わずにはいられない。


 愚かしいことだ。


 


 その代案や妙策があるわけでもなしに、感情ばかりが先に立つ。

 不甲斐ない。

 あるいは、私がこの集落に派遣されていたなら、この伝令役と同様に伏して罪悪感に震えていたことだろう。否、むしろ流民を逃がそうと抗い、嘉見条殿に斬り捨てられていたやも知れぬ。


 わかっている。

 頭では、わかっているのだが────。


 ふと、眼を向けた家屋の軒先、血まみれた剣玉が転がっているの見やりながら、思う。


〝武士道とは、死ぬことと見つけたり〟

〝花は桜木、人は武士〟

〝不惜身命〟

〝明鏡止水〟

 士道を語る言葉は数あれど、どれも実に的を射ているものだ。


「……己を死人と思って心を殺さねば、武士は務まらぬか……」


 こぼれ出た呟きは微かなれど、傍らの嘉見条殿には聞こえたろう。

 元より、咎められるのは承知でこぼしたそれに、だが、叱責はおろか、一瞥も向けられることはなかった。


「行くぞ、今はこの地の制圧が最優先である」


 嘉見条殿の静かな下知に、伝令役は顔を上げ、フラつきながらも立ち上がる。居並ぶ武士たちも得物を握る手に闘志を込め、行軍を再開。


 私は、深い息吹をひとつ。


「御意に……」


 短く応じて、同じく足を踏み出した。

 歩みを強く、意識を切り替える。

 ここは戦場いくさば

 嘉見条殿の言通り、惑うている場合ではない。まずは、件の御堂を囲む部隊と合流せねば……。


 歩を進めながら、しかし、私は不穏を感じていた。

 嘉見条殿も、他の武士たちも同様だろう。先行する伝令役に至っては、明白に焦燥を浮かべている。

 規模としてはそう大きくもない集落は、しかし、山林に囲まれているせいで見通しは悪い。ゆえに、ある程度踏み込んだところで、ようやく木々や廃墟群の奥に、ひときわ大きな構えの建物が姿を現した。あれが件の御堂だろう。


 だが────。


「静か過ぎるな……」


 武士のひとりが呟く。

 そう、喧騒が全くない。七十からの兵が居るはずなのに、その気配が伝わってこない。

 皆が息を潜め、身じろぎもせずに待機しているとでも?

 それは〝否〟であろう。

 やがて、木々が開け、御堂の全容を窺える位置まで至れば、そこには人影ひとつない無人の光景が広がっていた。


 誰も居ない。


 漂うのは、油と鉄の臭気。

 私は、眼前の御堂を睨みやる。

 古びてはいるが、その入母屋いりもやづくりに照り屋根を備えた和様の威風は、かつては立派な寺社であったようだ。

 その佇まいは、このような状況でなければ荘厳に感じたことだろう。しかし、今は不穏なおどろおどろしさしか感じない。

 ポッカリと開いた御堂の入口。陰った堂内は、黒々と闇に沈み込んで全く見通せない。照らす朝焼けもまた、陰りを濃くするばかり。


 さて、ここを囲んでいたはずの部隊はどこに消えたのか?


 逃げ出した……のであれば、まだ良い。

 武士として恥ずべきであっても、状況として良だ。


 だが、そうではないと思われた。


 見やった入口、四角い闇色の穴、そこから滲み出た何かが、御堂を囲む切り目縁を流れ落ち、地面に広がっている。焼却のために撒かれたのであろう油の色彩と臭気を上書いて、ゆるゆると流れ出ている赤黒いヌメリ。

 朝陽に朱を強く照り返すそれは、死臭を伴って周囲を禍々しい不穏に染め上げていた。


 流民が二十余名、呑まれた兵が三十余名、そして残りの七十の兵も堂内であるならば……。さて、流れ出ている血は、骸の数に比して多いのか少ないのか、にわかには判じかねるな。


 一同、言い知れぬ戦慄に息を呑みながら、広がる朱色を前に、しばし、呆然と────。


「……やはり、後詰めを待った方がよろしいのでは?」


 私のすぐ後に続いている武士が、息を呑みつつ進言してきた。

 一理ある意見だ。

 伝令役から報を受けた時点で、別の伝令を都に走らせている。ならば、さらなる増援を待った上で臨むのがより上策だろう。


 増援を待つ暇があるならば……の、話だがな。


 周囲には戦闘の痕跡は無い。

 御堂には油が撒かれているが、火を放った形跡は無い。

 ここで待機していた七十の兵が、逃げ出したのならまだ良い。だが、そうでないならば、何が起きたのか?


 火を放つことなく一斉に踏み込んだのか?

 そんなわけはないだろう。


 ならば、火を放つ間もなく、呑み込まれたのではないのか?


 今、新たに率いてきた兵は百に満たない。

 果たして、この御堂に潜んでいるものに対して充分な兵力だとは言えまい。現に、すでにして百人隊が姿を消しているのだ。


「……嘉見条殿、いったん退きましょう」


 私は御堂を睨んだままに進言する。


「状況が不明に過ぎます。百の兵が返り討たれた場に、それ以下で望むのは下策です。増援を待つにしても、この場に留まるのは危険だ」


 ここに居ては、いつ、御堂の中のに引き込まれるかもわからぬ。潜んでいるのがもわからぬ以上、せめて、集落の外まで下がるべきだ。


 それが上策だ。無闇無謀に挑んで、兵を危険にさらすことはない。

 だが────。


「……臆したか真結月。この集落にどれほどの敵が居ったにせよ、踏み込んだ百人隊が一矢も報えなんだはずはない。少なからぬ敵を討ち取っているは必定。ならば、全滅した百人隊の死を誉れとするためにも、ここで我らが逃げ出す道はない!」


 馬上の嘉見条殿は、眼を剥いてそう断じた。


 何を……言っている?


「御浅慮な! この伝令役の言を聞いたでありましょう! 覗き込んだ兵を呑み込み、三十の兵を瞬時に黙らせるがいるのです! ここは報復の怒りに逸ることなく、冷静なる御判断を……」


……とは、よもやである……などと言うのではあるまいな」


 文字通りに見下してくる眼光に、私は息を呑んだ。

 嘉見条殿は口の端を微かに歪めて、冷笑する。


「浅慮なるはどちらぞ。兵が一瞬で闇に呑まれ、三十の兵が瞬時に仕留められただと? 馬鹿を申すな! 何をどうすればその様にできるというのだ? 有り得ぬ! ならば、その伝令が嘘を吐いたか、あるいは、怯懦に駆られて夢幻に惑うたかであろうよ。この者は、そもそもからして流民斬り捨ての報を、野盗討伐であると偽った臆病者すくたれぞ! その言を頭から信じる方がどうかしておるわ!」


 馬上からの鋭い威圧に、伝令役の武士は言葉を詰まらせ身を震わせる。それは果たして、嘘ではないと憤っているのか、図星をつかれて狼狽えているものか……。


「百の兵が、何の痕跡もなく瞬時にほふられるわけがない。なれば、ここには流民以外の脅威が潜んでいたのだろう。この伝令は、ひとり逃げ出した怯懦を誤魔化すために、戯れ言を並べた……そんなところだろうよ」


 嘉見条殿は朗々と声を張り上げる。

 正論……というなら、正論だ。

 百の兵を跡形なく瞬殺する脅威など有り得ぬ。


 だが、ならば百人の兵はどこに消えたのか?

 逃げ出した? あるいは、森に逃れた敵を追った?

 であれば、御堂から流れ出る大量の血は何なのか?

 もし、百人隊の遺体がこの御堂の中にあるというなら、誰がそれを運び込んだというのだ? 野盗か? 落人か? ならば、なぜ運び込んだままに放置して去った? それならば最初から放っておけば良いだろう。


 不条理な疑念はいくらでもある。

 だが、前提として、脅威の正体を断定できない以上、戯れ言だと伏されても抗えない。


「嘉見条殿……!」


 それでも! ……それでもだ。

 わからぬ以上、ウカツに攻め入るのは愚策であると、私はなおも進言しようとして────。


「控えよ真結月冬次郎、黙して剣に懸けるのが封韻ほういんりゅうであろう。貴様も、あの男のように〝帝の剣〟たる誉れを穢すのか?」


 静かな叱責は、深々と刺さった。

 封韻流の剣名を、剣聖の誉れを貶めた我が父……真結月冬悟。

 人ならざる魔剣士に出逢うたと、超常異能の前に敗北したのだと、戯れ言を宣ったあの痴れ者。


 神通力を操る剣士。

 

 百の兵を瞬殺する脅威。


 そのような戯れ言を真に受けて退くのは、どちらも同じく、武士の誉れを貶める愚行である。


「火を放て。堂内に敵が居るならば、逃げ出てくるを迎え撃つ。然る後、焼け跡と周辺の森を検める。いずれ、何らかの痕跡が残っていよう」


 馬上からの静かな命令に、気を取り直した武士たちはすぐに動き出す。

 もう誰も怯えていない。怯んでもいない。

 未知の脅威に尻込みしていた怖じ気は、嘉見条殿の檄により吹き飛ばされていた。


 なれば、武士として、この場でどうあるべきかは、明白なのだろう。


 私は喉元に迫り上がっていた感情を呑み込み、腹の底にわだかまる何かをねじ伏せて、腰の差料に左手を添える。

 大刀の鞘口をグッと握り締めながら、御堂の前に立つ。

 黒く沈んだ入口に対峙して、右手を柄に添えた。


 ゆるりと鯉口を切り、左足を一歩前へ。

 右手で大刀を抜き放つ。剣尖が鯉口を過ぎたところで右手を止め、鞘から離した左手の甲を、刃の峰に添え、そのまま前に押し出した。


 封韻流迎撃の型〝綾蜘蛛あやぐも〟────。


 左半身、右側頭に柄の握りを並べ、斜めに垂らした刀身を、突き出した左手甲に乗せたそれは、迫る攻め手を見切り受け流し、後の先を取ることに特化した構え。


 刃の斜線越し、御堂の闇を睨み据える。

 蜘蛛が糸を張りて獲物を待つが如く、呼吸と鼓動の拍子を整え、静かに意を研ぎ澄ます。

 封韻流の太刀筋は輝閃の如く。

 御堂に潜んでいるのが何であれ、飛び出してきたならば、刹那に斬り伏せてみせようぞ。


 剣に懸ける。


 それこそが、剣をもって仕える士の誉れなれば!


 数名の武士が、手に手に松明を持って歩み出る。

 残りの者はやや遠巻きに、それぞれ武器を手に身構えて、御堂を円陣に取り囲んだ。


 馬上の嘉見条殿が片手を上げる。


「放て」


 短い号令。

 松明が投げられ、撒かれた油に引火する。火勢はすぐに猛り、御堂は瞬く間に炎に包まれた。

 朝焼けの中、紅い炎は金色に煌めき燃え上がる。


 


 圧倒的な闇色が、炎の奥からあふれ出してきた!


 御堂の入口から覗いていた闇の色が、闇その物が形を成したかの如く、襲い掛かってくる!


 眼前に迫る闇の渦。

 私は、咄嗟にひるがえした刃で斬り上げた。

 深々と斬り込んだはずの手応えは、しかし、水面を斬りつけたかのような不確かなもの。だが、闇の奔流は確かに斬り払われて激しくのたうつ。


「なん……!」


 何なのだ!? と、叫ぶ間もなく、さらに周囲を取り囲むように伸びて暴れる闇色の渦。さながら漆黒に染まった大蛇の群れのごとく、私を押し潰そうと全方位から迫りくる。


 私は瞬時に上体を左に捩り、右手の大刀を左脇下に振りかぶる。

 左足を全力で踏み締めて右回しの旋転、その回転力に乗せて大刀を振り放った。


 一回転の薙ぎ払いが、迫る闇色を一閃に斬り払う。


 しかし、さらなる闇の奔流が重ねて迫る。


 ならば、こちらの斬撃も止まらない。


 両脚を踏み締め、右回転で捩れた全身の反動をもって、立て続けに左に旋転する。それと同時に、刀を握る手を刹那に開き、逆手に握り直して神速に斬り返した。

 右回転から左回転へ、瞬に巻き返す二重ふたえの円月輪。


 封韻流撃剣術〝累荒鷹かさねあらたか〟────。


 猛禽が双翼をひるがえすが如く、疾風迅雷の薙ぎ払いを連ね重ねて振り回す。多勢を相手取るを旨とした剛の剣技。

 圧をもって迫っていた無数の闇の鎌首は、そのことごとくが引き裂かれて、大きく仰け反るように後退した。


 ただし、それはほんの一瞬だけのこと、闇色はすぐに猛威を取り戻し、雪崩のごとく盛り返してくる。


 それでも、その一瞬に私は全力で地を蹴りつけ、転がるように飛び退いて闇雪崩の中心から逃れ出た。

 可能な限り間合いを離し、身を起こし様に刀を構え、そして、周囲を取り囲む闇色の光景に絶句する。


 闇が、周囲の全てを埋め尽くしてうごめいていた。


 まるで闇の炎だ。ゆらめき、燃え上がる漆黒の火炎。

 右も、左も、後ろも、どちらを向いても壁のように高く燃え上がり蠢く黒炎に覆われている。

 寸前まで、木々に囲まれ、百の兵たちが陣取っていたこの場所が、今はもう、私の立つ半径二間ほどの地面を残して、黒炎の奔流に呑み込まれてしまっている。

 御堂はどこに消えた?

 兵はどこに行った?

 嘉見条殿は……?


「……何……だ……? 何が起きている……!?」


 呆然と呻きをこぼしながら、私は前方を見やった。


 前方……だと思う。


 ぐるりと黒炎に取り囲まれているので、どちらがどちらかなどわからないが、そちらには、少しだけ紅い炎の残滓がくすぶっていた。

 紅く燃え上がる御堂を、闇は黒く燃え上がるままに呑み込んだのだろう。あるいは、内側から喰い尽くしたのか?

 わからない。

 何がどうなっているのかわからない。


 そもそも────。


「何なのだ? これは…………」


 周囲を取り囲む、闇の色。

 水の如く流れ、泥の如く蠢き、肉の如く脈打ちながら、黒く黒く燃え上がっている暗黒の


 ゾワリと、周囲の闇が不吉に震えた。


 手にした刀を構えたのは、ただの反射だった。

 何をどう察し、どう備えようとも思えなかった。

 ただ、長年この身に刻み込んだ剣士の習性が、勝手に反応したに過ぎなかった。


 腰だめから斬り上げた一閃。

 私を呑み込もうと迫る闇色に、迎え撃ち斬り込んだ一刀。さっきに同じく手応えも柔く斬り抜いて、黒炎まとう闇をわずかにだが押し払った。


 効いている……のか?

 だとしても、刀でどうにかできるとは思えん。


 あまりに現実感のない状況に、思わず口の端がつり上がる。

 直後に、闇夜の荒海の如く盛り上がった周囲の暗黒。

 私は太刀を両手に握り締め、大上段に振り上げて身構える。


 だが────。


 ボロリ……と、何かがこぼれ落ちた。

 木の葉が舞い散るように、上から降ってきた。この錆色の欠片は、いったい何なのか……。

 確認するまでもなく、理解していた。

 振り上げた刀が軽過ぎる。

 おそらくは、刀身が錆び朽ちて崩れ落ちたのだろう。


 どうやら、この闇に触れるということは、そういうことらしい。


 ……さて、


「どうやら、絶体絶命……ということだな」


 剣士が剣を失えば、為せる何事のあるものか────。


 込み上げたのは滑稽なまでに情け無い自嘲。

 この期に及んで、妙に冷静なものだ……と、自分の心情に自分でもあきれ果てながら────。


「剣士か……。私は、剣士として何を為したというのだろう……」


 剣聖の子に生まれたから、剣士になった。

 剣の才があったから、そのまま剣名を得られた。


 けれど────。


 それで、だから、私はそのことについて、どうだというのだ?


 武士の道などわからぬくせに、武士を気取って戦場に立ち、今、こうして死に呑まれようという瀬戸際で、今さらに考える。


 真結月の家名を再興した。

 若き剣聖と讃えられた。

〝帝の剣〟の号も呼ばわった。


 だが、それはただ、父が手放したものを、取り戻しただけに過ぎないのだと……。


 ならば、私は……私自身の望みは何だったのだ?

 

 わからなかった。

 何も思うところがなかった。

 やり遂げたと思うこともなく、やり残したと思うこともない。


 周囲に迫る闇色が、やけにゆっくりだ。


 死の瞬間というのは、やはり、そういうものなのだな……。


 しかし、走馬灯とやらが浮かぶわけでもない……。


 眼に見える光景は、迫る闇の炎。

 脳裏に浮かぶのは、失望のままに立ち去る誰かの背中。


 ああ、そうだな。


 ひとつだけ、思い残したことがある。


 そう、ただ、ひとつだけ────。



 ────。



 だから────。


 握り締めた剣柄けんぺいが、ギリリと軋む。


 私は、腹の底からの叫声を張り上げ、天を仰ぐ。


 闇色に囲まれた光景に、ポッカリと覗く円形の空。


 押し迫るドス黒い脅威の中で見上げているせいだろうか?

 朝陽に照らされたその晴天が、まるで、太陽その物を垣間見たように、輝かしくも眩しくて────。


『……白光しかり咆吼ルドラ……月詠つくよみ蓮華輝れんげき……』


 どこかで聞いた無機質な声が、微かに響いた。


 背後で空気が震える。


 鳴り響いたのは、鋭い刃が閃く音。


 斬撃音?


 後ろから迫ってきた何かが、私のすぐ右側を走り抜けた。


 白い、真白く輝く何かが、高らかに澄み渡る音色を奏でて駆け抜けた。


 それは、斬撃の音であるはずだった。


 剣士であれば、聞き違えるなど有り得ない。

 真芯を捉えた太刀筋が奏でる、美しき刃の歌声。剣心を恋い焦がすその音色を、それでもそうであると信じられなかったのは、その斬撃が、あまりにも理解を超えていたからだ。


 闇が断たれていた。


 今にも私を呑み込もうとしていた巨大な暗黒の世界が、真っぷたつに斬り裂かれて左右に割れていた。

 黒い海原が割れるかの如き壮大なる異様。

 斬り上げたのか? 斬り下ろしたのか?

 わからない!

 どんな刃をもってすれば、斯様な斬撃が放てるのか、想像もできない!

 それなのに、それが斬撃であるということだけは、私の中の、剣士の魂が声高に叫んでいた。


 光の雨が降り注ぐ。

 光の雨……否、それは輝き煌めく花弁だ。光の花吹雪が舞い落ちてくる中で、私は睨む。


 前方に立つ、その者を、


 背後から駆け抜けてきた、その者を、


 世界を斬り裂いた、その者を、


 白銀に輝く一刀を手にした、その者を、


 私は真っ直ぐに睨んで、問い質した。


「……オマエは、何なのだ……!?」


 濁り掠れた声音はいかにも力無かったが、そんな弱々しい誰何に対しても、その白い後ろ姿は立ち去ることなく、ゆるりと振り向いてくれた。

 白い衣を纏い、千早の如き薄布を頭から背に流した、白い女。振り返る動きに薄布がゆらめき、その下に透けた白い長髪が、照りつける陽光を弾いてキラキラと流れ舞う。


「……あなたは、同じ事を、たくさん、問うのだな、トウジロウ……」


 白い美貌をカクリと傾ける。

 人形のように無表情で、人形のように無機質な仕種。


「……わたしはマキナ。マキナ・ラクシュマナだ……」


 白く白く彩られた中で、ただひとつの異彩たる鮮やかな紅い瞳が、真っ直ぐに虚ろに、こちらを見つめていた。




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