第3話 負け犬の戯れ事
私の十代目宗主襲名。
それを機に、真結月家の境遇は好転した。
私は、真結月の名をもって多くの御前試合を征し、反乱軍の鎮圧や野盗討伐などの戦働きはもちろん、日々の治安維持の任や雑務にも積極的に参加した。
己の剣を活かせる役目なら、片っ端から引き受けて、ひたすらに遂行し続けたのだ。
その甲斐あって諸侯や旗本衆の覚えを得、再び仕官して禄を得られた。
帝の信頼も取り戻し、指南役の任を取り戻し、弟子たちも戻ってきた。
遂に、真結月封韻流の再興は成ったのだと、それを確信出来たのは、襲名から十年を経た頃のこと。
その折の、とある夜のことである。
真結月家で開いた酒宴の席にて、旗本のひとりが戯れ事を語った。
その旗本の名は
仲違い……ということは、それまでは仲が良かったのである。
かつての真結月冬悟は、希代の剣豪にして勇猛なる武士であった。それは事実である。ゆえに、そんな父を尊敬し、共に帝を守る武士として信頼していたのだという。
しかし、父は
己の役目を放り出し、周囲の信頼を殴り捨て、剣士の誇りをも捨て去った。私が物心ついた時には、すでに父はそのような在り様だった。
だが、なぜそうなったのか……?
「……冬次郎殿は、神仏を信じておるかな?」
嘉見条殿は杯を片手に、赤ら顔を歪めてポツリと呟いた。
神仏……神や仏、信じているかと問われれば、もちろん、信じている。日々に仏を敬い。凶事あれば神に祈り、吉事あれば感謝を捧げよう。祭事を祝い、験も担ぐ。
それは、この国に生きる多くの者がそうであろうと思うが……。
「
神に────。
酒精臭い吐息が混じった呟き。
神に敗北した……とは、どういう意味なのか?
問い返すまでもなく、酔いの回った御仁はつらつらと語ってくれた。
「その身に神を宿した剣士。風のように宙を駆け、雷光を身に纏い、振るう剣風は天を引き裂き、踏み込みは大地を震わせる。鋼鉄の甲冑すら豆腐のように撫で斬る、数多の神通力を操る人ならざる〝魔剣士〟……御父上は、そのような者に出会ったそうだ……」
何を言っているのか、よくわからなかった。
神を宿した魔剣士?
神通力を操る、超常にして人ならざる……文字通りの神?
つまり〝神を信じるか?〟という問いは、信仰の話ではなく、神のような存在……すなわち、尋常ならざる超越者の存在を信じるのか? と、そういう意味のようだった。
「くくく……海の向こうの
「……外つ国?」
「ああ、西海の先、遥か
謁見を終えた帰国の途にて、特使は死亡。
ひとり帰還した父が語った特使の死因が、件の〝魔剣士〟による襲撃であったという。
「……父は、その〝魔剣士〟とやらと立ち合い、敗れたと?」
「いいや、立ち合うどころか、尻尾を巻いて逃げ出したらしい。まったく度し難いと思わぬか? 負けた弁明だけでも潔くあらぬのに、選りに選って、斯様な戯れ事で煙に巻こうなどと……」
嘉見条殿はくぐもった笑声をこぼす。あきれ果てた
当然だろう。
神の力を持つ〝魔剣士〟……だって?
そんな無様な戯れ事は、笑い話にしかならぬ。
ならば、そんな戯れ事で失態を誤魔化せるわけがない。まして、
実際、その戯れ事がために、父は全てを失った。〝帝の剣〟とまで讃えられた剣士が犯した大失態。さらに、ふざけた言い訳を並べ立てた罪により、禄を減らされ、
普通なら、極刑に処されて然るべき失態だ。蟄居で済んだのは、それまでの功績と信頼ゆえだろう。
しかし、蟄居の刑期が明けても、父は御役に戻ろうとしなかった。
後は私も知る通りの堕落の一途。登城はおろか、帝の召喚にも応じず、弟子たちを破門にし、剣を取ることもなく、酒に浸る日々。
「……あの男は、気でも触れたのだろう。あるいは〝帝の剣〟という誉れに押し潰されたのやもしれぬ……」
天下無双の剣豪。東方不敗の剣聖。
そのような周囲の期待に、堪えきれずに壊れてしまったのだと……ある者は哀れみ、ある者は嘲った。
身近な者は皆深く落胆した。持ち上げた期待が大きかったがゆえに、その失望もまた大きかったのだ。
嘉見条殿はそこまで語って……不意に口を
「……失礼、ちと、深酒が過ぎたようだな……」
謝罪と共に、視線を伏せた。
確かに、語られた内容は陰口であり、侮蔑となるもの。酒の席で酔うた上とはいえ、武士として
まして、その身内を相手にはなおのこと。
「そうですね……。確かに、私も酔うておるようです……」
で、あれば、今の話は酔いに流して忘れましょうぞ……と、そう言い残して、私は席を立つ。
そのまま、酒宴の間から外に出た。
吹きつけた夜風が冷やりと感じるのは酔いがゆえか、それとも、今し方に聞いた戯れ言がゆえか……。
月明かり照らす回廊を歩みながら、考える。
父が、なぜあのように零落れてしまったのか────。
その経緯は、今まで誰も教えてくれなかった。
同時に、私自身も知ろうとしていなかった。
父は武士として恥ずべき者であり、剣士にあるまじき愚か者。そう認識していた。そうであらねばならなかった。
そうでなければ、私は、私の
父のようには成るものか……と、その反骨のままに剣を振ってきたのだから。
ある意味、それはその通りで、父は失態を戯れ事で誤魔化そうとした、大したウツケ者であったようだ。
しかし────。
見上げれば、淡くもまばゆい月の光。十年前のあの日に同じ月光。
あの日、月明かり差す道場で、父がこぼした落胆。
〝……人の技では、人ならざる神は斬れぬ……〟
ならば────。
「父上、貴方は…………」
父は重圧に押し潰されて絶望し、気が触れたのだろうと、嘉見条殿は言うた。
だが、私には、それは違うように思えた。少なくとも、あの月夜の道場で相対した父に、狂気は感じられなかった。
あの時、睨み合った眼光には、力強い覚悟が込められていた。
あれは武士にあらずとも、確かに剣士のたたずまいだったと思う。
ならば────。
父は何に絶望し、そして、どこに行ったのか?
それはたぶん、考えるまでもなく明らかなことなのだと……そう思いながらも、その推測をこそ否定する。
激しく頭を振って、ふざけた思考を掻き消した。
くだらない。
何が〝人ならざる神〟だ。
何が〝魔剣士〟だ。
そんなものは
私は、大きく深く、吐息をこぼして────。
コン……コン……。
戸を叩く硬い音が、耳朶に届いた。
夜更けの静けさの中、彼方より響く酒宴の賑わいを押し退けて流れた、静としながらもハッキリと響いた打音。
前庭を挟んだ表門。夜分ゆえに硬く閉ざされたそれを、外から叩く者が居るようだ。
コン……コン……。
再度繰り返された打音。
門番についている使用人は……ああ、見れば門扉の横、通用の木戸の内側で、座した若い女中がウトウトと舟を漕いでいる。
やれやれだが、まあ、今宵は酒宴の来賓対応で忙しかったのだろう。
私が傍まで近づいた気配と、繰り返され打音にて、ビクンと身じろぎ眼を覚ました女中は、私の顔を見るなり青くなって平伏した。
「こ、これは御当主様! も、もうしわけも……!」
「良い、以後は気を引き締めよ」
私は苦笑いで言い含める。
コン……コン……。
門を叩く打音が響く。
慌てて木戸に手を伸ばした女中の、その肩をつかんで制止する。
「……? あ、あの……御当主様?」
「良い、私が応じる」
やや強く言い含めた。
少し、不穏な気配を感じていた。
何が? ……と、聞かれれば、明言できないのだが……。
「下がっておれ」
私は続けて言い含めて、木戸に歩み寄る。
女中は困惑しつつも、主の命に物申しはせず、引き下がった。
コン……コン……。
響いた打音。
規則正しく、一定の間と強さで、繰り返される。
さて────。
叩くばかりで、声を上げぬのはいかなることか。
丑三つ時には遠いが、火車でも訪ねてきたのではあるまいな?
内心でそう茶化しつつも、私は緊張に息を呑む。右手は脇差しの柄に添えつつ、左手で木戸をわずかに開けた。
「どちら様か?」
隙間から外に呼び掛ける。
「……夜、失礼だ。ここ、マユヅキの場所か?」
返ったのは、女の声。
だが、何だ? やけに無機質で、
「どちらの者なのか? ……と、問うている」
「…………」
警戒のままに問い質せば、しばしの沈黙。それは、どうやら言葉の意味を吟味している間であったのだろう。
「……誰だ? の、意味か? わたしはマキナ……ラクシュマナのマキナ。あなたは、マユヅキか?」
淡々と紡がれた片言の台詞。
名の響きといい、どうやら
「いかにも、私が当家の主、真結月冬次郎である」
「……トウジロウ……トウジロウか……なら、わたしは、届ける物を、トウジロウに、持ってきた」
届け物?
どちらかの使いの者か?
だが、外つ国人を使いに寄越すような相手に、心当たりはない。
不審ではあるが、敵意のようなものは感じない。ならば、ひとまず相手の姿を認めようと、木戸を開け放った。
瞬間、息が詰まったように感じた。
まず、最初に垣間見えたのは銀色だった。
月明かりを弾いて煌めく銀色の流線。長い髪が夜風に揺れているのだと気づいた時、佇むその女は、その能面のような無表情を微かにかしげた。
天女……という者が居るのならば、このような姿をしているものか?
女の姿を認めた私の、率直な感想だった。
だが、それは天女のように美しいという意味ではない。
確かに、姿が見目麗しいのは事実だろう。新雪の如き白い肌に、色素の薄い唇。純白の衣の上に羽織るのは、同じく白い外套。薄く透けた別珍の如き白布を頭から被り、ふわりと足下まで流したイデタチは、
そんな神秘的なまでに白い色彩の中で、その双眸だけが深紅の輝きを宿して、こちらを見つめている。
紅い瞳。
血のように紅いそれが、白布の
そこに敵意はない。殺気もない。
代わりに、友好も敬意も、何もない。
心がない人形が、動き、口を利いたなら、きっとこのような空虚なモノが出来上がるのではないだろうか?
美しく小綺麗に人の形を象った、人ではない何か────。
この世のモノではない、
「……オマエは、何だ……!?」
怖気を抱きながら、私は問うた。
「……? わたしはマキナ……マキナ・ラクシュマナだ……」
不思議そうに、女は首をかしげた。
違う。
名を問うているのではない。
だが、再度その存在を問うよりも前に、女は……マキナ・ラクシュマナは、その手にしていた物をツイと差し出してきた。
白くしなやかな五指に握られたそれは、ひと振りの刀。
厚革に鎧われた黒鞘に収まった、腰反りの革包太刀……儀仗用の飾太刀でありながら、実戦刀として拵えられたそれは、多く帝室の近衛たちが佩いている物と同様であるが……。
だが、これは……この太刀には見覚えがある。
十年前の月明かりに照らされた記憶が、今、この時の月明かりの中に重なりよみがえる。
私は、無意識に手を伸ばしていたのだろうか?
ふと、気がつけば、両の手で差し上げるようにして、その太刀を受け取っていた。
「眠るのは……家族の元へ。〝ヴィローシャナ〟と〝ヒジュラ〟……国は違う。しかし……死者を想う……同じ心……」
途切れ途切れの言葉は、どこか祈るように厳かに。
見返せば、マキナは無表情のままに頷いた。
「刀は、
淡々と言い切り、白い女はきびすを返した。
ふわりと流れた長い銀髪。その輝きを彩るように舞った光輝の破片。光の花弁の如きそれに眼を奪われる間もあればこそ、女の後ろ姿はふわりと夜気に溶けた。
比喩ではない。
忽然と消えたのだ。
まるで、そこには始めから誰も居なかったかのように、影も形も見当たらない。光の破片も掻き消えた。
だが、微かに流れる白檀の如き残り香と、この手に握り締めた太刀が、夢でも幻でもなかったのだと告げている。
私は────。
取り残された私は、ただ、呆然と、受け取った太刀を睨んでいた。
見覚えのあるその太刀を、遠い記憶に刻み込まれたその太刀を、両の眼を見開いて、睨み続けていた。
「……ご、御当主……様?」
不安げな声に呼び掛けられたところで、私はハッと息を吐く。
振り返れば、オロオロと狼狽えている女中の姿があった。
「……ああ、大丈夫だ……」
笑みを作って、首肯を返す。
何がどう大丈夫なのかはわからないが、とにかく、問題はないのだと女中に、そして己自身に言い聞かせながら、私は手にした太刀を女中に渡した。
「先代当主殿の御帰還だ。母上に届けてやれ」
簡潔に命じて、この場を去る。
女中は更に狼狽えていたが、知ったことじゃない。ともかく、現当主の命令なのだから、わけがわからずとも従ってはくれよう。
正直、今の私は、それどころではない。
脳裏に渦巻いているのは、今し方の白い女の姿と言動……何よりも、その異質な存在感。突然に来訪し、忽然と消え失せた異様。
そして、ふと、思い浮かんだのは、酒宴で語られた負け犬の戯れ事。
人ならざる神の剣士……だと?
「……くだらない。戯れ事だ……」
私は声に出して吐き捨てる。
腹の底にわだかまったものを吐き出すように、強く、強く、吐き捨てたのだった。
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