第2話 堕ちた剣聖
剣に活き、剣に懸けた。
ならば、目指すのはひとつ、戦士としての最強。無双なる武の頂点。それは多くの剣士が、一度は志す望みであろう。
だが、私の場合は、さて、どうだっただろうか……。
それが我が剣流の名である。
封韻とは、字の通りに〝韻〟を〝封〟ずるの意であり〝剣士は言葉を連ねるのではなく、その剣に意を込めるべし〟という戒めから来ている。
封韻流の真髄は抜刀術……と、世間では思われている。
実際には違う。真髄たる秘奥は全く別にある。
ただ、封韻流の秘奥を持って戦いに臨む時、初手は抜刀術になることが多く、そして、その初手にて決着することが多くあるがために、誤解されているのだ。
いずれにせよ、封韻流の信条が〝
瞬に放った斬撃にて、瞬く間に敵の息の根を断つ。
刃が打ち合うことなく、鍔音も響かせず、風音すらも置き去りに、斬り捨てられた相手は悲鳴すら上げられずに絶命する。
それゆえか、いつしか封韻の名は〝黙する〟ではなく〝黙らせる〟という意を強く印象づけてしまった。
音も無く相手を斬り捨てる剣……ゆえに、世俗では〝
その歴史は由緒正しく、代々この〝ヒジュラ〟国の
……が、私が物心ついた時には、それは既に過去の栄光であった。
真結月家の当主にして、真結月封韻流の九代目宗主。かつては天下無双の剣豪と
それが私の父、真結月
だが、私の記憶にある父の姿は、そんな輝かしい誉れとは程遠い。
日々、寂れた道場の片隅で酒精をあおりながら陰気に項垂れているという、見る影も無い在り様だった。
指南役は当に辞し、それどころか弟子の全てを破門にし、剣の修練どころか、剣流を伝え継ぐことすらも放棄していた。
地位も
父は、私に稽古をつけるどころか、剣を振る姿すら見せてはくれなかった。
代わりに私を育て、鍛えてくれたのは母だった。
残された指南書や技法書を頼りに、懸命に封韻流の技法を教え込んでくれた。
『冬次郎、貴方には御父上から受け継いだ希代の剣才があります。どうか精進し、立派に真結月の後継を務めるのです』
母が真摯にそう唱えるのが、幼い頃の私には不可解だった。
父の剣才……と、母は言うけれど、当時の私にとって、父はただの酔っ払いであり、ロクデナシの穀潰しでしかなかった。
そんな男から受け継いだ才など、何の役に立つと言うのだろう?
しかし、誰から受け継いだかはともかく、私に剣才があるというのは事実だったようだ。
私は七歳にして試合稽古で大人を打ち負かし、十歳にして四枚重ねの濡れ畳を両断し、十五で元服する頃には〝帝の剣〟の再来と噂され、期待されるまでになっていた。
真結月封韻流十代目宗主。
元服の儀を機に、その御役を賜った日の夜のことだ。
月明かり差す道場にて、私はひとり、日課の型稽古をしていた。
そこに、父が現れた。
父は入口で一礼し、ゆるりと道場に踏み入ってきた。
眼を疑った。
道場に入る際に一礼するのは当然の礼節。なれど、父がそれを為すところなど初めて見たのだ。
呆然と立ち尽くす私の眼前、概ね六歩ほどの間を開けて立ち止まった父。その左右の手にそれぞれひと振りずつ、鞘に収まった刀を提げていた。
その時の父からは、酒の匂いがしなかった。
父は、右手の刀を無造作に投げ寄越してきた。
咄嗟に中空でつかみ取る。微かな鍔鳴りと確かな鋼の重み。
鯉口を切って見れば、わずかに覗いた刀身は真剣の刃だった。
刀は武士の魂、それを放るなど不遜が過ぎる。
しかし、その時の私はあきれるよりも憤るよりも、まず、確かな戦慄を抱いて瞬時に身構えていた。
気づいたのだ。
己と父との距離の意味に。
一足一刀の間合い。
すなわち、いつでも互いに斬り込める、決闘の間合いだった。
私は納刀したままの鞘を左腰に携え、柄に右手を添えつつ、右半身の形で屈み込む。牙を剥く狼が如くに、低く、低く、身を伏せた。
封韻流抜刀の型〝
居合いに構えた右腕の肘が地に触れそうなほどに、限界ギリギリの前のめり。その上で、地を踏み締める両足の五指は抉り食い込むように強く床板を噛み締めている。
前に斬り込む。
その為に全身の瞬発を引き絞り溜め込むこれは、最速で初太刀を打ち込むことに特化した構えだ。
太刀筋も奥義も知り尽くした同門の勝負、小手先の読み合いや牽制は通じない。ならば、真っ向から全力の斬撃を叩き込むのみ。
対する父は、だが、左手に刀を提げて立ち尽くしている。
納刀したままなのは、こちらと同じく抜刀術に繋ぐためだとしても、身構えることすらせずに棒立ちなのはどういうつもりか?
舐められている?
この父に、この私が、侮られているというのか?
私は憤慨にギリリと奥歯を噛み締め、たわめた四肢に力が鼓舞る。
ふぅ……と、父が吐息をこぼした。
「何やら、必死だな新宗主殿。
それは嘲りでもあきれでもない。
ただ、不思議そうに、何をそんなに殺気立っているのかと、疑念を問い掛けるような声音だった。
私の中で、何かが弾けた。
それは長年積もり積もった父への反感であり、焦燥であった。
かつての剣豪、かつての剣聖。
天下に名高き〝帝の剣〟。
それがどうした!
私にとっての貴方は、酒に浸かって錆びついたナマクラだ!
斜め急角度に父を睨め上げる。
低く低くたわめて蓄えた全身のバネを、瞬に解放。踏み込みの反動に床板が砕ける。
前進と共に身を起こし、大きく伸び上がりながら、睨み上げた父に向かって怒号のごとき抜刀を叩き込んだ。
封韻流抜刀術〝
多くの太刀筋が斬り上げや斬り払いである抜刀術にあって、この技は上段から斬り下ろす。〝斬〟よりも〝断〟を旨とした技。
踏み込みの挙動に、伸身の挙動を重ね放つそれは、飛び掛かる猛虎すら一刀両断する意を込めた、必殺の一閃。
刃は棒立ちの父の右肩口へ、弧円を描いて斬り込んで────。
甲高くも硬い金属音が鳴り響いた。
右腕に返った衝撃と、月明かりを弾いて宙に舞う刃光。
スンッ……と、床に突き立った刃。それは折れ砕けた切っ先が宙を舞い落ちた光景。
誰の? 否、問うまでもない。
振り下ろした私の右手、そこに握った刀の刀身は、物打ち処から先がボッキリと折れていた。
「……ふむ、やはり、オマエにも斬れぬか……」
父が浅い溜め息で呟いた。
なお棒立ちで、左手には納刀したままの刀を提げて、先刻から微動だにしていない。
だが、その衣服の肩口は大きく斬り裂かれ、そこから鈍色に輝く金属装甲が覗いていた。
南蛮甲冑……!?
板金と
卑怯者め! ……と、私は抗議を叫ぼうとした。その寸前だった。
「手首は、痛めておらぬか?」
そう、父は呼び掛けてきた。
まるで我が子の身を気づかうように、心配だとでもいうように、優しい声音で真剣に呼び掛けてきたのだ。
私は戸惑いながら、大いに戸惑いながら、右手の具合を確かめ、大丈夫だと返した。
「そうか……。予期せぬ手応え、刀が折れるほどの衝撃に手首を痛めておらぬは、その握りが精妙ゆえだ。そして、折れた位置が物打ちであるのは、その太刀筋の正確さゆえ…………達人の業前よ」
耳を疑った。
何を言われているのか即座には理解できなかった。
父が、あの父が、まるで私を褒めているかのような…………。
「つまりは、まあ、所詮その程度ということだ。達人の技は、どこまで極めようとも人の技……人の技では、人ならざる神は斬れぬ」
深い深い落胆の溜め息を吐き捨てて、父はきびすを返した。
「十代目襲名、おめでとう冬次郎。そのまま人として精進し、立派な人斬りになるといい」
心の底から興味が無さそうに、形だけの
人の技? 神を斬る?
あの男は何を言っている? ついに気が狂うたのか?
わからなかった。何のことだかサッパリわからなかった。ただ、思い知ったのはひとつだけ。
父は、やはり私を褒めてはくれなかった────。
それだけではない。そう、私はこの時、ついに決定的に、父から見限られたのだ。
〝……やはり、オマエにも斬れぬか……〟
父の落胆の呻きが、
取り残された私は、ただ、呆然と、闇の向こうに遠ざかる背中を見送っていた。
その夜を境に、父は失踪した。
父の部屋には脱ぎ散らかされた南蛮甲冑が転がっているだけで、置き手紙の類は無かった。母にすら何も告げぬまま、忽然と姿を消したのだ。
ただ、甲冑は脱ぎ捨てられていたのに、あの時に携えていた刀はどこにも見当たらなかった。
ならば、父が持っていったのだろう。
何のために?
考えるまでもない。刀は、斬るための道具だ。
ならば────。
問題は、何を斬りにいったのか? その一点に尽きるのだった。
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