胡蝶の夢

 そこは林だった。

 村に近いそこは不思議と人が立ち入るのを拒むように、随分と深く草木が生い茂っている。

 僕は獣道を進む。

 道標はない。

 だけど、そこに何かあるのを知っており、自然と足も動いていた。

 そして感じた通りそこにはぽつんと小さな家が建っている。

 随分とぼろぼろのその家には人が住んでいるようには思えない。

 でも、僕は迷わずにその家の扉を開ける。

 鍵はかかっておらず、少し開きにくいが扉は不気味な音を立てて開いた。

 まるで怪物がでてきそうだ。そんなことを考えていた。

 身をかがめなんとか扉を潜ると部屋の中よりも真っ先にヘーゼル色のものと目が合った。

 それはその体格にしては小さいだろう椅子に自らを押し込めるように縮こまっている。随分とぼろぼろの捨てられた子供のような様子だった。


 "初めまして、君はこの家のご主人かな?"


 僕の口から声が出る。少し違和感を覚えた。

 そして聞いてみたものの返ってくる答えを僕は知っている。

 顔色の悪いそれは驚きもせずじっと僕を見つめて静かに首を横に振った。


「Z?」

 その声にはっとして前を見るとAがじっとこちらを見ている。ヘーゼルの瞳はいつになく生き生きとした色に見える。

 少しよれてはいるがちゃんとした服を着ているAは、縮こまることもなくしっかりと背筋を伸ばして椅子に座っていた。

「・・・何?」

「また具合でも悪いのかと思ったんだが」

「大丈夫、うん」

 嘘だ、大丈夫なんかじゃない。僕はなんでこいつにこんな嘘をついているんだろうか。馬鹿みたいだ。

「あのさ、誰かに拒絶されるのが怖いとか思ったことない?」

「お前が俺にそれを言うのか」

 そう言葉が返ってきて、確かにと思った。散々馬鹿馬鹿言っている相手に何を言っているんだか。馬鹿らしくなって話を止めようかと口を開いたが、先にAが口を開いた。

「・・・怖いというのはよく分からない」

 そもそも聞く相手を間違えたのかもしれない。僕は改めて思った。

「誰かに拒絶されたことがあるのか?」

 直球の言葉が僕の胸を深く抉る。今更何だっていうんだ。

「・・・まぁ、うん」

 絞り出すように出たのはそんな言葉だ。それは人に知られたくないことで、恥ずかしいことだったし、弱みそれを見せるのがひどく恐ろしい。なるべく考えないように意識の外に追い出したもの。でも、確実に過去は僕をとらえて離さない。一生僕が抱えるべきものだ。

 先生もJもグランマさえにも話したことはない。

 それを、こいつにいうなんてことはあり得ない。

 だから僕はそれ以上何も言えなかった。

「・・・何があったか知らないが、確かにお前らしくないな」

「・・・はぁ?」

 その言い方に僕はイラっとしていた。なんだお前らしくないって。

「なにそれ、僕のこと知ったようなこというじゃん」

 お前に僕の何が分かるというのか、声が震える。何も知らないくせに。

「お前のことなら知っている」

「あんたが!の!何を知ってんだよ!」

 押さえていたものが一気に噴き出し、熱さが頭を支配する。気付けば怒鳴りつけていた。もう何だか訳が分からなくなって、口から出る言葉が止まらない。

 情緒不安定なのか僕は。頭の片隅でそう思いながらも、もう僕にもどうにもならなかった。

「最近話すことが増えたってだけであたしのこと知ったつもりなの?

 大体今更話しかけてきてあたしのこと理解しようってこと?

 それで自分は周りに目を向けるようになりましたよっていうアピール?ほんと馬鹿だね、あんた。

 ああ・・・そう、あたしに取り入ろうとかそういう魂胆なわけだ。

 お生憎様、あたしは誰も信じてないんだから無駄。

 だから・・・」

 思考のまとまらない頭で思いついた言葉が次々と出てくる。別にAがそんなことを思うなんて思っていないのに。そして早口で捲くし立てせいで最後の言葉が詰まった。でも、一度出かけた言葉は止まらない。

「あたしのことなんか放っておけよ!」

 喉が痛い。気付けば頬に濡れた感触が残っている。

 僕、泣いてるんだ。

 目の前の男の顔が滲んでよく見えない。

「・・・やっと」

 男の呟きが聞こえた。

「お前らしくなったな」

「はぁ?」

 理解が追い付かなくて、ぐちゃぐちゃの思考回路が一瞬停止する。別に聞き逃したわけではなく、通常運転に戻りつつある頭の中でこいつの言葉を反復する。

 "お前らしくなった"?

 怒りをすっ飛ばして、僕は男をぶん殴りたくなったのは言うまでもない。いや実際、テーブルから身を乗り出して目の前の男の胸倉を掴んでいた。男の表情が変わることはない。

 それが余計に腹立たしくて反射的に手を振り上げる。どこか既視感のある状況にだったが、それが何だったか思い出すことはなかった。

「ミハイルがお前の元気がないと言っていた」

 ミハイルミーシャという単語に、こいつの頬ぎりぎりで僕の手は止まった。いや、厳密には当たっていたが、急激に勢いがなくなったので叩くまではいかなかった。だから、僕の手は痛くない。

 その血色の悪い肌は冷たく、命を感じさせない。しかし、間違いなくここにいて僕と会話をしている。

「よくわからなかったが、よくよくみればすぐに感情的になるお前が考え事をしていることが多いことに気付いた」

 淡々とこの無神経男は言葉を続ける。無神経だからこそなせる業なのかもしれない。

「話してみればやっとお前らしく怒ったからな」

 こいつは僕を何だと思ってやがるんだ。なんだか馬鹿らしい気分になり僕は脱力するように手を離し椅子の背もたれに寄り掛かる。

「はぁ・・・悩んで馬鹿みたいじゃん」

 もう何度目の馬鹿なのだろうか。今度は馬鹿という言葉が口からこぼれてしまった。いつも馬鹿馬鹿言っている相手を前で自分自身が馬鹿だと認めることになるなんて屈辱だ。

「俺が知っているのはそういうお前だ」

 目の前の男がまっすぐにヘーゼルの瞳を僕に向けたままそう言った。表情は変わることはない。だが、冗談を言わないこいつが本気でそう言っているのはわかることだった。

「俺はお前の事情も何も知らない。興味もないしどうでもいい。ただ、もう少し話をしてみてもいいと思ったんだ」

 側頭部を鈍器で思い切りぶん殴られたような気分になった。僕が悩んで目を背けていたことをこいつは簡単にどうでもいいと言った。それどころか僕と話がしたいというのか。散々罵倒されてきたというのに、良く僕と話したいなんか思うものだ。

 真性のマゾヒストなのか?

「馬鹿じゃないの」

「ああ、そうかもな」

 あっさりと肯定しやがった。僕は小さく溜息を吐く。

 ぐちぐちと悩んで、苦しんで、怒って、泣いてなんて醜態を晒したといううのに、この男は涼しい顔で最後まですべて流してしまった。やっぱり、無駄に悩むのは性に合わないというか精神衛生上よくなかったことは理解している。ああ、グランマだけでなくミーシャにまで心配をかけてしまうとは情けなくてしょうがない。

 悩みが解決したわけじゃないのに、どうにでもなれという気分になっていた。暴走なんて知ったことか。何かあってもこいつに当たり散らかしてやる。

 僕は溜息をもう一度吐く。冷静になってきたからなのか、それとも目の前にこいつがいるからなのか、僕は今朝見たもののことをまた思い出していた。

「・・・夢をみた」

「夢?」

「いや、多分夢じゃないと思うんだけどさ・・・。僕はその中で自分じゃない誰かなってて・・・。なんてことはないんだけど、なんか今までにそういうのみたことなかったから、現実かよくわからなくなった気がして」

 自分でも何を言いたいか分からない。うまい言葉は見つからず、歯痒い思いだった。

「夢を見て不安になったのか?」

「そういうわけじゃ・・・」

 否定をしようとしたが、考えて意外とそうだったのかもしれないと思いなおす。

「"昔者莊周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺、則蘧蘧然周也。不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化"」

 さらさらと訳の分からない言葉をAは言い出した。聞いたこともない言葉だ。

「何それ」

「確か東洋の哲人の寓話だったと記憶している」

「どういう意味?」

「夢に関連する話だと聞いたが」

 なんだか随分曖昧な説明をする。

「夢の話と聞いてふと思い出したんだ」

「何だそれ」

 意味ありげに言ったくせに、自分は意味を知らないということなのか。

「夢の中のお前が本当のお前だろうと、今のお前が夢だろうとどっちでもいいんじゃないか」

「所詮夢の話だから?」

「いや、どっちもお前なんだからいいじゃないかという話だ」

 小難しいことばかり言っているが、なんかいいことを言おうとして失敗しただけな気がする。ようは夢の話なのだからで気にするなで片付ければいいじゃないか。馬鹿な奴。

「なんか、話してたらもう全部どうでもよくなっちゃった」

「自棄になるなよ」

「この一連の流れでなんで僕が自棄になるんだよ」

 本気で僕が自棄になったと思われていそうで心配だ。

 ・・・うん、でもなんだか本当に大丈夫な気がしてきた。変なの。さっきはあんなに腹が立っていたのに。ああ、いや寧ろ怒ったからすっきりしたのか。

 僕は一体何を我慢していたというのか。Aの言う通り僕らしくなかったのかもしれない。こいつのお陰でそんなことに気付かされるとは・・・。

「・・・ばーか」

「なんだ、突然」

「ばーか、ばーか」

 悔しくてそう何度も口に出す。Aはじっとこちらを見ていたが、口を開くことはなかった。

 ・・・疲れたな。

 急に頭が重たくなってきてテーブルに突っ伏す。Aはやっぱり何も言わなかった。

 ああそうだあとで、グランマ達の所に行かなきゃ。

 そう思ったがそれよりもまずは

 少し、寝よう。

 僕はそのまま眠りについた。まるで子供の時みたいに泣き疲れたのか、意識はすぐに闇の底へ落ちていく。

 夢を見ることはなかった。

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