二節 「SNSと人の気持ち」
次はSNSの関係性だ。
次の日、僕は前に投稿した文章について謝罪をした。
彼女がソファーに横になりながら、「何か手伝おうか」と聞いてきた。
パソコンで投稿していたので、隣で一緒に見ていてほしいと僕は言った。
「いいよ、コーヒーいれてきてあげる」と彼女は立ち上がり笑ってくれた。
前の投稿を思い出しながら、僕は苦しくなっていた。
彼女は僕にあえて苦しくなる体験をさせたのではないだろうか。
人の気持ちを知ることは苦しい。
人の気持ちを知ることに痛みを伴うなんて今まで知らなかった。
僕は今まで人の気持ちを知ったつもりでいただけかもしれない。ただ都合のいい部分だけを見て、仲良くしていると勘違いしていただけだ。
誰もが優しいわけではない。
人それぞれ色々なことを考えている。
それは時として、僕に対して攻撃的で厳しい言葉の時もある。
向き合えば傷つく。
でも傷つかなければ、相手を知る事なんてできない。
それが人とかかわり生きていくことなのかもしれない。
そして、僕はどうしてあの時もっと声をあげなかったのだろう。
SNSの人たちは信じている。
そうであるなら、助けに来てくれなかったら、もっと強く自分を主張するべきだった。
これが本当に緊迫した状況だったらどうなっていたのだろう。
そう考えると恐ろしい。
僕は嫌われるのが怖くて、思っていることを言えなかったんだと気づいた。
優しくしてくれているからその気持ちに甘えているだけで、自分のことは何も伝えていなかった。
僕はずるい。
自分のことを何も言わないで、相手が僕のことを分かってくれるだろうか。相手が僕と仲良くしたいと思うだろうか。
そもそもどうしてすべて他人任せ何だろう。
自分から動かなければ何も変わらない。
それは、先日親と話していて思ったことでもある。
きっと僕が自分から謝りにいったから、親も許してくれたのだろう。
何かを変えたいなら、まず自分が変わらなければいけない。
「過去は変えられない。他人と未来は変えることができるけど難しい。自分を変えるのが1番簡単だ」と聞いたことをふいに思い出した。
相手に思ってることも言えないで、それで信頼関係があるとどうして言えるだろうか。
僕自身が上辺だけの関係を作っていたのだ。そんな自分を変えていかなければいけない。
文末に「あなたにとって信じるとはどういう意味ですか?」と書いた。
たくさんのコメントが来た。
僕は今まで疑うということをしなかった。
でも信じるものを見定めるために、疑うことも必要だと感じた。
信じたいから疑うのだ。
その中に信じるとは「自己犠牲」と「自己開示」という言葉が僕の胸に刺さった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます