直接入力

ディスプレイに表示された結果がなかなかひどいものだったので少し声が漏れた。推奨されるクオリティレベルは最低の〈1〉。それでもぎりぎりだという。最大の〈10〉とまではいかなくても一般に十分な音質とされる〈4〉くらいには届くのではないかと思っていた。〈1〉では前世紀の圧縮音源にも劣るなんてうそぶく専門家もいる。いくらなんでもそれは。しかし使わないよりはマシだろう。左耳の聴力は低下する一方でもはやかつてのように音楽を聴くことはできない。右耳もあまり先行きはよろしくないと医師に言われている。だから「直接入力」――音楽的経験を直接脳に入力する技術をようやく導入することを決めたのだ。というのに。

もともとヘッドフォンすら嫌いだった。人ごみも嫌いだからコンサートにも出かけない。自宅にこじんまりとしつらえたオーディオルームにこもるのが自分にとって最良の鑑賞手段だった。小さな部屋のなかでスピーカーが空気を揺らして身体ごと鼓膜を震わせるのを感じるのが好きだった。そんなわけだから「直接入力」という味も素っ気もない名前の技術が出てきたときにはたいした関心を寄せなかった。いちユーザーとしては脳に及ぼす影響にも懸念があった。出始めのころは各社による独自規格が乱立し入力方法も統一されていなかった。いきおい健康被害を防ぐためのガイドラインもろくに定まっておらず批判も続出した。今思えば不安をいたずらに煽る言説も多かった。各社それぞれ試験を重ねた上で実用化に至ったとはいえリスクはあまりに未知数だった。

登場から数年してガイドラインがひとまず固まった。安全管理のため共通規格を制定しクオリティレベルという入力データの基準をつくる。導入前にはユーザーひとりひとりの脳の状態を測定した上で許容可能なクオリティレベルを厳守する。実践的にはおよそこのふたつが重要だ。というのも脳のキャパシティを超えるクオリティレベルのデータを入力した場合に起こる過入力が時間と空間の認知機能を損なうリスクがあるという報告が多数あったからだ。スペックの追いついてないハードウェアで無理に高ビットレートの音声データや映像データを再生しようとすると遅延や場合によってはグリッチが発生する。それが人間の脳内で起こると思ったらいい。音楽が時間芸術であり擬似的な空間性を前提とする性格上予測されていたことではあったがその影響は予測以上に大きかったようだ。不可逆的な影響(つまり後遺症)を残すのか一時的なものなのかはまだ議論がわかれている。

いずれにせよ決心は固まった。結果をつきあわせながら担当者とカウンセリングに入る。採取したデータを眺めて担当者が少し渋い表情をしているのがモニター越しに見て取れた。しかし柔和な親しすぎない笑顔を取り戻して話し始める。

これはあくまで「直接入力」への適性であって認知能力の問題ではないことをまず念押ししておきますね。どうしても相性ってものがありますから。もしご希望なら外科的手術によって「入力」のボトルネックを改善するとクオリティレベルも上げられますがあまりおすすめはしません。〈1〉といっても一昔前のストリーミングくらいの音質にはなります。それが充分かどうかは人によるところですけどね。さて、ご利用になりますか。

自覚していない迷いがあるのか妙にあいまいに頷いてしまった。判断に困ったのかこちらの様子を伺う担当者に改めてはっきりと利用の意志を伝えた。

あっという間に音楽配信サービスの設定に必須なパスコードや自分専用にカスタマイズされたエンコーダーが送られてくる。クオリティレベルの管理はかなり厳重だ。それでもいつかは我慢できなくなってジェイルブレイクしてしまうかもしれない。どうせ老い先短いのだから。利用開始の手続きを進めながら浮かぶよこしまな考え。それをいったん振り切って最初に「入力」する音源を品定めしはじめた。

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