見える声
ある文芸誌を開いて創作につきあたり小説にはなんで地の文と会話文があるのだろうかと考えた。いかにも地の文らしい地の文やいかにも会話文らしい会話文がこれは小説ですよとぎょうぎょうしい身振りで伝えてくる。もちろんそうした区分を無効にする試みがしばしば行われることもおぼろげには知っているけれども。いかにも地の文らしい地の文ではじまって数行すると会話文。かぎかっこでくくられた言葉は地の文とちがって声を持つかのようにふるまって見せる。見える声。評論なんかでかぎかっこでくくられたりインデントで明示されるのは他人の声に限る。少なくともテクストを編み続けているこの自分ではない誰かの声。他の人。あるいは昔の自分。小説もそうなのだろうか。そんなはずはない。地の文は自分の声ではない。かもしれない。わからない。最後に小説を読んだのはいつだったろう。なかなか読めなくなったのはいつからだろう。実在しない名前がおそろしく実在しない出来事がおそろしくなった。物語よりも小説が怖い。その恐怖にうちかつ必要がおそらくはある。小説に感じるおそろしさは演劇に感じるおそろしさとどこか似ている。その声は誰の声なのだろう。宙吊りになった不信がばつんとてぐすを切断されてふりかかってくる。それは世界そのものへの不信と区別がつかない。地の文と会話文に支えられた世界に対して覚える不安はそれとよく似ている。
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