北川と古川 その5

 北川が古川と接するにあたり、無罪をほのめかしたりするような発言は控えるよう、村山より厳重に注意された。洗礼を受けて軌道に乗るかと思われた古川の個人教誨であるが、かえってますますやりにくさを感じる。

「今日は……旧約聖書の箴言を読みましょうか。『高ぶりはただ争いを生じる、勧告をきく者は知恵がある』……ここで言う高ぶりというのは、何でもかんでも自分の考えを押し通そうとする態度……ほら、いるでしょう。絶対自分の意見を曲げられない人。そういう人はいつも争ってばかりですよ……って、俺がそうなんですがね。それに対して誰かに何か言われてもむかっ腹立てずに受け止められる人、それは知恵があるって言うわけです。……なんか古川さんみたいですね。多分、あなたのような人が本当に知恵があるんだ。俺は親から勉強しろって言われて、頭が良くないとダメだって言われて、必死で頑張って来た。でも、世間で言う頭のいい人間って、ホントバカばっかりですよ」

 だんだん教誨でなく、愚痴になってきているのを北川は感じた。古川はそれがわかっているのかわかっていないのか、のほほんとした表情を浮かべている。

「世間ではね、人の言いなりになって、……たとえばですよ、警察や検察に言われるがままに自白して、やってもいない罪で重刑を課せられて、そんな人を愚かだと言うんです。でも実際、自分の正義を押し通して心が荒んでいる人と、理不尽な冤罪に甘んじて平安な人、どちらが真に幸福かと思うんですよ」

 すると古川が訊いた。

「幸福な人、誰ですか」

「え……」

 暗に古川が幸福であることを示したつもりであるが、それを口にするのは躊躇われた。すると古川はまたこのように訊いた。

「イエス、十字架で、幸福ですか」

 北川はハッとなった。これまでイエスが人々への愛ゆえに十字架にかかったというは耳にタコが出来るほど聞いてきた。しかし、イエスはそれで幸福だったのか……そんなことは一度だって考えたことはなかった。

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