晩餐
「北川先生、大丈夫ですか?」
「え?」
「いや、最近北川先生も幻覚を見られるとか……千々岩先生も案じておられましたよ」
「そうですか」
村山の話を聞いて、そんな噂になっているとは心外だった。しかし北川に相談するために食事の席を設けてもらったのは、その件を話すためではない。
「実は、古川氏に洗礼を授けて欲しいんです」
「ほう。それは本人が希望されたのですか?」
「いえ。先日ヨハネの福音書を朗読した時、『この手の傷は僕のせいだ』と言ったんです。これって、信仰告白と見てよろしいでしょうか」
「そうですね、キリストの贖いを信じているということで救われていると思います」
「それでしたらやはり、洗礼が必要だと思うんですよ。しかし、俺にはそれをする資格がないと思います」
「わかりました。今度、私が古川さんと話して洗礼の手筈を整えましょう」
「よろしくお願いします。ところでもう一件……」
北川は、古川から預かった手紙を取り出して見せた。
「これは……」
「古川氏がこれまで罪過を感じていた相手への謝罪の手紙です。俺はこの手紙をその宛名の人に届けてやろうと思うんです」
「しかし、名前はわかっても居場所まではわからないでしょう。探すのは大変じゃないですか」
「何とか頑張って探してみます。それより……負い目を感じているのがどうして殺した相手じゃなかったのかが気になるんです」
そう言うと、村山の顔からさっと笑顔が消えた。そして静かに重々しく口を開いた。
「いいですか北川先生。私たち教誨師は法の番人ではありません。判決に疑問を抱いてもそれについて何かをしようと思ってはいけませんよ」
「あ、いや、別に何かをしようと思ったわけじゃなくて、ただなんとなく解せないなと……」
「囚人たちは出来るだけ刑を軽くしようとします。そのためには何でもしますよ。例えば『まだ誰にも言っていないけどもう一人殺してるんだ』など。それで裁判を起こして死刑を先延ばしにしようという魂胆なのですが、私たちに隙があると、彼らはそこを突いて来ますから。それだけは心がけておいて下さい」
「はあ……」
北川はしぶしぶ承知したが、若い彼はそう言われれば言われるほど、事の真相が気になって仕方がなかった。
**********
「ダ・ヴィンチコードっていう映画、知ってる?」
久々にファミレスで夕食を共にした板垣瑠都子がふいに尋ねた。あいわらずの沈黙の会食中の突然の発言に、御供は少し戸惑った。
「結構前の映画だよね。観たことはないけど、多分に異端的要素を含む作品だからと、上映当時、福音派の教会ではしきりに反対されていたみたいだね」
「確かにあれほど歪曲されたキリスト観は、特に予備知識のない多くの日本人への影響を考えると、単にエンターテイメントだからって許される問題じゃないと思う。だけど、そもそもの元凶はレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』そのものにあると思うわ」
御供は瑠都子の話が非論理的に飛躍しそうで怖かった。彼女が何か思い込むと、その持論は梃子でも動かないことを御供は分かっていた。
「それは、どうしてそう思うの?」
「実はね、同僚が最近イタリア旅行に行ってきたんだけど、ミラノのサンタマリア・デレ・グラツィエ教会で『最後の晩餐』を見学したんですって。それを見て彼女は、『当時こんな風にキリストは弟子たちと食事していたんだな』とリアルに感じたそうよ」
「え? それの何がいけないの?」
「だってあの絵、あり得ないでしょ! 描かれている人物は金髪の白人で、食事の仕方も中世ヨーロッパ式! 当時ユダヤでは寝そべって肘ついて食事してたんだから、それをリアルな当時の情景と勘違いされたら困るわ」
「いや、ダ・ヴィンチの描き出したかったのは写実的な情景というより、弟子たちの心理的な描写だと思うけど」
「そう割り切ることが許されるのは、聖書的基盤のしっかりした考えの持主だけよ。そうでない人が、あの絵画自身がまるで聖典であるかのように扱って、そこここに暗号が隠されてるとか、色んな愚説を生み出しているんだから!」
「うん、……そうだね。君の言う通りだと思うよ」
別に反論することもなかったので、御供は肯定しておいた。おかげで瑠都子も落ち着いたようで、静かに話し出した。
「そう言えば、この間リトリートでバプテスト派の人と同じ部屋に泊まったんだけど、バプテストでは聖餐式のことを主の晩餐と呼ぶんですって。何だか素敵な言葉の響きだと思わない?」
バプテスト派……それを聞いて御供は、先日浜本が言った言葉──信仰告白、バプテスマ、主の晩餐、みんな人間が考えたものじゃないのか──を思い出した。バプテスマを洗礼と訳さずに原語のまま使うのもバプテスト派の特徴だ。
(もしかして浜本さんは……バプテスト派の教会に行っていたんじゃないか?)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます