北川と古川 その1

 正味十分ほどの待ち時間だったが、北川にとっては長く感じられた。アキレスが永遠に亀を追いかけるように、この待ち時間がいつまでも続くように思えたのだった。

 古川晋也。それは北川にとって得体の知れない異次元の使者だった。


「彼は天上でキリストに出会ったようなのです」

 その村山の発言は、最初冗談にしか聞こえなかった。だが、相手の眼差しは真剣そのものだった。

「それはつまり、臨死体験と言うやつですか?」

「厳密に言うとしていませんが、それに類するものと言えるでしょう」

「しかし、臨死体験というのは神学的に立証出来ないと思いますが」

「コリント人への第二の手紙12章で、パウロは第三の天にまで上げられた記述をしています。ないとは言い切れないでしょう」

「……やはり信じられません」

「むしろその方がいい。聖霊派(ペンテコステ派など、霊的体験・奇跡などを重んじるグループ)出身の私などはそういう話を聞けば鵜呑みにしてしまいます。慶智神学部出身のあなたなら、批評学的見地で捉えることが出来る筈です。古川さんの体験がその篩にかけられてどうなるか、私は知りたいのです」

「つまり、教誨を通して彼を批判しろと?」

 村山は頷いた。ちなみに〝批判〟は現代神学の世界では重要なファクターである。北川が師事していた小野教授は「私を批判しなさい」と口癖のように言っていた。


 北川がそんな考えごとに耽っていると、いつのまにか古川が目の前に座っていた。

「あ、すみません、教誨師の北川です。古川さんですね?」

「ええ……」

 まず世間話を……と思ったが、死刑囚にどんな世間話をすれば良いというのだ。村山氏に聞いておけば良かったと北川は後悔した。古川は黙ったまま中空を見つめている。刑務官は城の番兵のように身じろぎもせずに二人の様子を見張っている。

(はあ……なんともやりにくいな)

 硬直した空気を打破しようと、北川は一番知りたいことを訊いた。

「あの……キリストに会ったと聞きましたが……」

「キリスト?」

 首を斜め45度に傾げる古川。

「そう、イエス・キリスト。古川さん、会ったんですよね?」

 すると古川は深呼吸し、急に早口になって話した。

「西暦はイエス・キリストが生まれた年を紀元として定められたが、実際にイエス・キリストが生まれたのは紀元前4年という説が有力」

「そ、そうですよね。……そのイエス・キリストと会って、ほら、風と水で生まれるとか言われたんでしょ?」

「風と水?」

 またもや首を斜め45度に傾げる古川。

「そうそう、風と水……」

 古川はしばらく考えた後に口を開いた。

「1934年……」

「え?」

 北川が聞き返すと、古川はまたもや深呼吸し、早口で言った。

「1934年9月21日、室戸台風! 1945年9月17日、枕崎台風! 1959年9月26日、伊勢湾台風!」

「ああ、台風。確かに風と水だ……よく日付けまで覚えてますね。歴史、得意なんですか?」

 それには返事なし。この調子では臨死体験について聞くどころではない。諦めた北川はヨハネの福音書3章を朗読してその日の教誨を終えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る