チェロ弾きと子犬
起き上がって辺りを見渡すと、雲海の中から峰々がところどころ顔をのぞかせている。どうやら、かなり高いところにいるようだ。古川はそのあたりをさまよい歩いた。
「……誰もいない」
古川は誰かいないか、探して歩き続けた。ごつごつした岩の転がる険しい道を、ただただ歩いた。だがやがて疲れて大きな丸い石の上に座り込んだ。とその時、何やら楽器を弾く音が聞こえてきた。音の低い弦楽器……チェロだ。
古川は立ち上がり、チェロの音に向かって歩いていった。歩くに従って、だんだん音は大きくなった。そして岩の角を曲がると、小さな小屋が見えた。どうやら音はそこから聞こえているらしい。小屋の入口には古びたオイルランタンが掛けられていて、仄かな光を灯している。近づくと、タタタと軽い足音を鳴らして子犬が駆け寄って来た。
「ペロ!」
古川はしゃがみ込み、子犬を抱きかかえた。ペロと呼ばれた子犬は古川の顔をペロペロなめ回した。
「それは君の飼っていた犬だね」
一人の青年がチェロを置いて小屋から出て来た。Tシャツにチノパンというラフなスタイル。フレンドリーで話しやすそうだった。古川が子犬を抱えながら頷くと、
「ちょうどよかった。ちょっと手伝ってもらえるかな?」
「手伝う?」
「うん……窓を拭いて欲しいんだ」
見ると、彼のそばには水がなみなみと入ったバケツがあった。古川はバケツと雑巾を取り、小さな汚れた窓を拭いた。窓がみるみるきれいになっていくと、その青年はほめてくれた。
「うまいもんだなぁ。さすがお掃除の仕事をやっていただけのことはあるね」
「……なんで知ってるの?」
「君のことは、君が生まれる前からずっと知ってるんだよ」
「……親戚?」
「まあ……そんなとこかな。それより、ちょっと見てごらん」
青年は窓を開いた。顔を出すと、眼下には麓の光景が広がったていた。
「川……木……」
麓を流れる川は目を覆うほど眩しく照り輝き、その周りの木々は生命感に溢れていた。
青年はこう言った。
「あれはいのちの川で、その周りに生えているのはいのちの木だよ」
その神々しい光景に目を眩ませた古川が言った。
「僕……死んだの?」
その青年は微笑んだ。
「新しく生まれるんだよ。水と風で」
「それ……わからない」
古川がそういうと、青年は帽子を取り、風が吹いてその髪をなびかせた。風には心があり、思いがあった。それはかつて優しかった母親の、温もりを思わせた。
「この風はどこから来たのか、どこに行くのかわかるかい?」
「わからない」
「でも、風が吹いてるのはわかるよね?」
古川は頷いた。青年は続けた。「君もそうやって生まれるんだよ」
そう言われても、まだわからなかった。だが幸いなことに、古川はわからないことをありのまま受け止めることに慣れていた。これまでそうして生きてきたのだから。
そうしてその青年は見えなくなり、古川の意識は再び薄れた。
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