村山和夫(むらやま・かずお)

 磯原拘置所は、一言でいえば辺鄙な場所にある。路線バスは一日数本、車で来るにしても、一番近い高速道路の出口からさらに十キロ以上も走らなければならない。

 教誨師の村山和夫むらやまかずおは、バックミラーに映るオレンジ色の軽自動車が先程から気になっていた。ストイックなほどに安全運転を心がける村山は、常に高速道路の一番左のレーンをひたすら走って来た。ほとんどの後続車は追い越して行くのに、そのオレンジ色の車はいつも村山の後方を走り続けていた。はじめは自分と同じようにゆっくり走りたいだけなのだろうと思っていたが、同じ出口で降りてきたのを見るとさすがに気味が悪くなった。その運転席には麦わら帽子を被り、サングラスをかけた女性が乗っていた。フロントガラス越しなのでハッキリわからないが、だいたい三十代だろうか。

か……いや、まさか)

 村山の心に警戒心がわいた。とはいえ見通しの良い田舎道で、町中のように路地に入って撒くこともできない。そこで道沿いのコンビニに急停車させてやり過ごした。オレンジ色の車は村山の急な行動に対応できず、そのまま真っすぐに走り去って行った。


 磯原拘置所に到着し、刑務官の案内で控室に入ると、人の良さそうな小男が出迎えた。所長の井手緑郎いでろくろうだ。小柄で、ひょうたん型の顔型に寂しくなった頭髪、針であけたような小さな目鼻口で、どこか草食系の小動物を思わせる。

「おはようございます、所長」

 村山は深々と頭を下げたが、井手所長はさらに慇懃な態度で一礼した。

「おはようございます、村山先生。いつも遠いところからすみません。道の方は大丈夫でしたか」

「ええ……ただ、先ほど妙な車につけられた気がしましてね……」

「妙な車?」

 井手所長がため息をついた。「ここには刑場がありますから、人権擁護団体の目が光ってるんですよ。彼らも滅多なことはしませんが、用心に越したことはありませんね」

 村山は自らの心当たりについて話すのをやめた。心配性の井手所長をむやみに不安がらせてもよくないと思ったのだ。その時、白衣を着た男性が入室して来た。医官の杉浦洋一すぎうらよういちだった。

「村山先生、ちょっと気になる囚人がいるんですが……」

「どんな方ですか?」

「マーク・グレニンゲン症候群で責任能力が問われていた古川晋也です。裁判所で失神したまま運ばれて来たんですが、目が覚めたらこう言うんですよ。『水と風で新しく生まれる』と。それって、聖書の言葉じゃなかったですか?」

 村山は目を丸くした。

「たしかにそれは新約聖書、ヨハネの福音書の一場面ですね。訪ねてきたニコデモにキリストがこう言ったんです。『霊と水によらなければ、新しく生まれることは出来ない』と。霊は原語でπνευμαプニューマ、風とも訳せる言葉です」

「まさか……古川は臨死体験でキリストに会ったということですか?」

「わかりません……でも一度、古川さんに会って話を……」

 と言いかけた時、村山は先程自分のあとをつけていたオレンジ色の車を思い出した。

(私がここに居られるのは長くないかもしれない)

 村山は改まった調子で言った。

「この件、若い教誨師に任せてみたいと思います」

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