8


「く、熊猫くみゃにゃこしゃん!」


 翌日、学校に登校した僕は、朝っぱらから熊猫さんに昨日の文句を言ってやるつもりで話しかけました。勢い余って噛んでしまいましたが、僕の目はマジです。言ってやるぞー、というマジの目なのです(キリッ!)。


 でも立ったままだと疲れてしまうので、きちんと着席してから言いました。


「あら、ひょっとしてわたしを呼んでいるの? でもごめんなさい。たしかにわたしは熊猫という苗字で、あなたが発した言葉の発音に似ていたかもしれないけれど、でもわたし、くみゃにゃこしゃんではないのよ。人違いじゃないかしら?」


「ぐっ…………!」


 さすが熊猫さんです。僕の噛んだ台詞を利用して、僕の文句を言わせない巧みな話術……脱帽してしまいそうです。


 し、しかし!


 今日の僕は違うのです! ええ、違いますとも!


 本日の僕は、昨夜からずっと、ずぅーっと熊猫さんに文句言ってやるぞっ、という思いを——恨みを煮えたぎらせていたのです。ぐつぐつなのです。


「熊猫すわん!」


「だからわたしの名前は熊猫ひづめで、熊猫スワンではないのよ。ひょっとして噛んでいるの? だとしたらなによその噛み方。脳が口に電気信号を送れない病気とかなの?」


「ち、違いますーう」


「あなたの滑舌はわたしが人生を送るためにはどうでもいいことだけれど、でもわたしが用意した脚本の台詞を噛んだら引きちぎるわよ」


「な、何をですかっ!?」


「今隠したソレよ。ふふ。そもそも隠す必要のないスーパーリトルスティックよ」


「ひええ……」


 男の習性で(?)ついつい股間を隠してしまった僕に、白昼堂々はくちゅうどうどう引きちぎる宣言をされました。


 ひ、卑猥です……。朝っぱらから僕の股間を引きちぎるプランを語るなんて、本当に女子なのですか? 


 ……おっと、危ない。危ないところでした。


 危うく熊猫さんの眼光にひるみ、本来言いたいこと——つまり文句を言う前に戦意喪失するところでした。


「そ、そうじゃなくて、熊猫さん!」


「あら、ようやくわたしを呼べたのね。でもわたしは呼んで良いと許可した覚えはないわよ。なに気安く呼んでいるのよ」


「え、僕って……熊猫さんを呼ぶことすら許されないのですか?」


 同じ部活のメンバーなのに。お隣の席なのに。


 お友達……とは思いにくいですけど、友達寄りの友達未満的な認識でしたのに。


 なんだか悲しいわけじゃないのに、なぜか泣きたくなりました。


「うう……」


「なに泣きそうになっているのよ。わかったわよ。なに? なにが言いたいの? ほら言ってご覧なさい」


 急に優しくされると、それはそれで泣きそうになるんですが……。


「あ、あの……その」


 しかもそんな風に聞かれたら、文句を言う気迫が薄れてしまいます。なんて巧妙な手口なんでしょうか。


 ですが、それでもこの文句を言いたいスピリットは枯れません。僕が昨夜、あの音声ファイルだけでどれだけ妹に笑われたか。それを思い出すだけで、文句を言いたいスピリットは湧き上がってくるのです。


「そ、そのお……昨日の、やつなんですが」


 でもですね。枯れない——と。そうは言っても、風前ふうぜん灯火ともしびみたいにはなってます。いっそのこと、消える前の蝋燭ろくそくのようにファイヤーしてくれれば良いのに感はありますが、僕の文句スピリットがファイヤーしたら、なんか物理的にファイヤーされちゃいそうで……強く言えないのです。


「なによ。言いたいことがあるならはっきり言いなさい」


「あのお……昨日……の」


「昨日のドラマの話? わたしドラマは観ないわよ」


「違います……フィクションじゃなくて、ノンフィクションのお話なんですけど」


「ドキュメンタリーも観ないわよ。他人の不幸話をいくら感動的に演出しても、わたしには関係のない話だし」


「……いや、どうしてドキュメンタリー全般が不幸話と決めつけているんですか」


「基本不幸話じゃないのよ。ラストがハッピーでもラスト以外はアンハッピーじゃない」


「偏見じゃないです?」


私見しけんよ」


「で、でも熊猫さん、『赤毛のアン』を読んだことあるって言ってたじゃないです?」


 熊猫さんのお話をうかがう限り『赤毛のアン』は悲劇だったのですが、その辺はどうなんでしょうか。


「アンはだから、環境に対してテンションが高いギャグ系の主人公だもの。そもそもアンはフィクションよ」


「……………………」


 そ、そうでした……。熊猫さんは悲劇と言った作品をギャグとして見れる人間でした。きっと僕が読んだら、すぐに涙で文字が読めなくなりそうです……って!


「じゃなくって!」


 違うんです違うんです。違います違います。


 僕は熊猫さんの非道っぷりを再確認したいわけじゃなくて、昨夜の音声ファイルについて文句を言ってやりたいのです。


「だからなによ。わたしこれから授業前のコーラを飲む予定なの。手短に済ませなさい」


 うっ……。僕の苦手な——僕が怖くなる眼光で射抜かれました……。蛇に睨まれたカエルならぬ、熊に凄まれた人間状態です(聞こえないはずの、くわっ、て擬音が聞こえます)。


「だからあ……うう、昨日の音声……なんですけど」


「音声? なんの?」


「熊猫さんが……妹に送った、やつ、です」


「ああ、どんな音声だったかしら。覚えていないのよね」


 熊猫さんは外道の笑みを浮かべ、さらに続けました。


「ちょっと再現してみなさい」


「無理ですう!」


「即答ね」


「即答くらいしますよ!」


「じゃあわたしは授業前のコーラを飲むから」


「ちょっ、僕の話は終わってませんよ」


「ならお昼になさい。今のわたしはコーラを飲む使命を抱えているのよ」


 そう言った熊猫さんは、かばんからコーラ(しかも缶コーラ)を取り出し、手際良くフタをカシュっとすると、そのままグビグビ始めました。


「……………………」


 コーラ良いなあ。僕も飲みたくなってきます。


「ふう……やはりコーラは朝が一番美味しいわ」


 良いなあコーラ。コーラ良いなあ。


「なによ?」


 つい、美味しそうにグビグビやってる熊猫さんを見つめていると、いつもより柔らかい表情で(コーラのおかげ?)僕に言いました。


「あなたも飲みたいの?」


「はい……飲みたいです」


「ふーん。じゃあもうひとつあるから、あげても良いわよ」


「え……?」


 本当に熊猫さんからの言葉かと疑ってしまう発言に、僕は素直に驚きを隠せません。ちょっとソワソワしちゃうくらいです。


「あげても良い——けれど」


 あ、やっぱり。いつもの熊猫さんです。


 ちょっとでも普通にくれると思った僕を裏切るのが早くて、変な話ですが安心しちゃいます。


「コーラが飲みたい気持ちを全力でわたしに伝えてみなさい。わたしに伝わったら、コーラをあげるわ」


「コーラが……飲みたいです」


「もっとよ。それだけじゃ足りないわ」


「コーラが……飲みたくて飲みたくて、飲みたいですう……」


「そんなにコーラが欲しいの?」


「欲しいですう……コーラが欲しいです」


「もっと感情的に伝えなさい。そのあざとい必然的な上目遣いはなんのためにあるのよ」


 こんな時のためにあるわけではありません——と、そう思いつつも、コーラが飲みた過ぎていつものように突っ込むことができません。


 上目遣い。あざとい女のような——たしか熊猫さんにそんなことを言われたなと思い出しましたが、たぶん余談です。


「コーラが欲しいです……欲しいです」


「ふーん。誰からのコーラが欲しいの?」


「熊猫さんからの……熊猫さんの」


「わたしの?」


「熊猫さんのコーラが欲しいです……」


「もっとあざとく見上げて、目をうるうるさせなさい」


「うう……あううう…………」


「コーラ欲しいのでしょう?」


「うううう……コーラがぁ……コーラが欲しいですぅぅぅ」


「もっとよ。もっとわたしに伝えなさい」


「熊猫さんのお……コーラが欲しいですうぅぅ……うう、あうう」


 カシャ——と。僕がコーラを懇願していたら、熊猫さんは僕の顔をスマホで撮影しました。


「よし。これなら宣伝に使えるわね。上出来よ。コーラくらいあげるわ」


 はい——と、コーラが手渡されます。


 念願のコーラを手にした僕ですが、なんか喜べないんですが……。


「あの……宣伝って?」


「演劇部の宣伝よ。ほら、お芝居するなら、ポスターくらい必要でしょう」


「……はへ?」


「この物欲しそうな懇願フェイスをわたしたちのお芝居のポスターにするのよ。ふふ。人をコントロールしてここまでのおねだり写真を撮れるなんて、わたしやっぱり天才なのよね。うふふ」


「……………………」


 あのお……普通に恥ずかしいんですがそれは。


「あら顔赤いわよ。コーラでクールダウンでもしたらどうかしら?」


「あ、はい」


 カシュ。グビグビ。


 ぷはー。くううう。


「……………………」


 あれ? 僕、文句言えてないや……えへへ。

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