MM戦争(エピローグ)

 一九九五年


 阪神間に未曾有の大惨事を巻き起こした、阪神淡路大震災。関東大震災にも耐えると謳われた建物は軒なみ崩れ落ち、あちこちで地面は割れ、水やガスが吹き出し、大火災が発生した。埋立地では液状化現象という聞いたこともない怪現象に見舞われ市民を恐怖に陥れた。

 その復興の足枷となっていたのは、慢性的な交通マヒだった。線路も高速道路も破壊され、阪神間を結ぶ国道2号線と国道43号線への自家用の通行は警察官によって制限された。そのような中で、交通状況を選ばないオートバイの機動性が注目された。二輪車の国道通行は規制されることなく、時に自転車道を走るライダーたちもいたが、現場を取り仕切る警察官も敢えて見てみぬふりをした。そのため、復興支援に当たるボランティアたちは、好んでバイクを利用した。

 その事実を知った持田重工業及びミヤケモータースは、両社が手を組んで、復興支援の現場にオートバイを提供することを発表した。

 記者会見では、持田重工業からは二輪車事業本部長の柿迫将生、ミヤケモータースからは同じく二輪車事業本部長の遠山賢人が出席し、コメントした。

「オートバイが復興支援に役立てるという事実は、メーカーとしては光栄であり、また社会的責任を感じさせるものであります。この非常時に際しまして、業界トッフに立ちます我々が競争相手としてではなく、互いに兜を脱ぎ、協力し合って一日も早い復興のために骨を折る所存であります」

 すると、一人の記者が質問の手を上げた。

「今回両社が協力関係を結ぶことによって、長い間続いていたMM戦争に終止符が打たれたとの見方がありますが、どのようにお考えですか?」

 持田重工業の柿迫事業本部長が回答した。

「MM戦争という言葉はマスコミによって作られた言葉でありまして、我々はそのようなことを口にしたことはございません。確かにある時期には販売に熱が入り、互いにしのぎを削ったことはありますが、それは資本主義経済における健全な競争の範囲です。むしろ、あの頃の互いの健闘を称え合う気持ちが、今回の協力関係を生み出したと私は考えます」

 そして柿迫事業本部長と遠山事業本部長が固く握手すると、一斉にフラッシュの音が鳴り出した。壇上の二人は、仄暗い世相に平和をもたらすかのように、ずっと互いの手を握りしめていた。


 かつてミヤケグループの〝天皇〟と呼ばれた宮家陽一相談役は、自宅のテレビ中継でその様子を見ていた。将棋盤を挟んで向こう側には、ミヤケモータース元社長の奥山勇が座っていた。

「嫌だねえ、こういう報道のされ方だと、まるで君が悪者みたいじゃないか」

 言葉の割りには大して嫌そうではない。奥山はわずかに頭を低くする。

「あの頃はお役に立てず、恥入るばかりでございます」

 と言い、頃合いを見計らって次の一手を指した。

「はっはっは。相変わらず君の振り飛車は攻撃的だねえ。猪突猛進と言うか、そういうの、私は嫌いじゃないよ。近頃の連中は居飛車で虎視眈々と機会を伺うようなのばかりだ。安全かもしれんが、つまらんねえ……」

 そう言いながら、宮家陽一はテレビの中の柿迫と遠山に目をやった。一方で奥山は相手の目を盗むように、時折チラチラと時計に目を向ける。その様子に気づいた宮家陽一が問いかける。

「何だね、さっきからそわそわしているじゃないか」

「相談役、そろそろお出かけになったほうがよろしいかと」

 陽一は苦笑した。

「まだ昼過ぎだぞ。夜までは時間があるじゃないか」

「恐れながら、被災地の交通状況は混迷を極めていると聞きます。相談役がいらっしゃらなければコンサートも始められないのではありませんか?」

 陽一は神戸での災害復興支援コンサートの冒頭で口上を述べることになっていた。ミヤケ株式会社が協賛していたことで、実質引退してはいてもミヤケの顔として陽一は顔を出さないわけにはいかなかった。

「そうだね。今夜は私の好きなブラームスのピアノ協奏曲第二番だから楽しみだよ。……ではこの勝負は封じ手にして、そろそろ出かけようかね」

「いってらっしゃいませ、お気をつけて」

 奥山は棋譜を封筒にしまい込み、陽一を見送った。



 その頃、神戸の災害復興支援コンサート会場では、ピアニストの澤村美優がそわそわしながらステージ上を右往左往していた。そこにやってきたステージマネージャーに美優は声をかけた。

「すみません、調律師の坂上さんお見かけしませんでした?」

「あ、そうそう、先ほど電話がありましたよ。坂上さんは来れなくなったので、代わりの調律師が来るって……」

「え……あんまり簡単に変えて欲しくなかったんですけど。代わりの調律師ってどんな方なんですか?」

「結構すごい人みたいですよ。ドイツ・マイスターの資格を持っているとか」

「そうなんですね……」

 と美優が言った時、

「すみません、お待たせしました」

 と言って坂上の代理の調律師が下手からステージに出てきた。その調律師を見て美優は目を丸くした。

「坂上の代理で参りました、草野裕です」

 美優はしばらく口を開けたまま草野を指差していたが、声を振り絞るようにして問い質した。

「……どうしてまた、私の前に現れたんですか?」

「坂上さんは昔の上司でしてね、美優さんのコンサートを担当すると聞いて、無理言って替わってもらったんですよ」

「なぜ、そのようなことを……」

「僕はいつも君のことを見ていた。君のあとを追いかけていた。でもいつも近づけば君は遠く離れてしまう。今こうして君はやっと手の届くところにいる。もう僕は君を手放したくないんだ」

「……」

 しばらく沈黙が流れた。空気を読んだステージマネージャーはいつの間にかその場から離れている。

「と、プライベートな話は後でするとして、仕事しましょうか。何かピアノに関してお気づきの点や希望はありますか?」

 つかの間沈黙があったのち、美優はいたずらっぽく微笑んだ。その表情はピアニスト澤村美優でも、スワローテイルのみゆきでもない、あの14年前の澤村美優の、無邪気な笑顔だった。

「ポートピア行きたい」

「……え?」

「コンサート終わったら、二人でポートピア行こう」

「ちょっと、何の冗談だよ」

 草野もつい、あの頃の口調に戻る。

「ポートライナー、もう開通してるで。接待や、調律師がピアニストを接待するのはビジネスの常識やろ」

「そんな常識、聞いたことないよ」

「ふふふ。デート、楽しみにしてるわ」

 美優は周りを見渡してから、草野の頬にキスをして下手へと向かった。その後ろ姿を呆然と眺めていた草野は、彼女の姿が見えなくなるとピアノと向き合い始めた。


 

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