待ち人

 プルルルルル


 電話の呼び出し音で、草野は目が覚めた。時計を見ると午前三時だった。一体誰だこんな真夜中に、と思って受話器を取ると、

「コンニチワ、クサノサンノ、オタクデスカ」

 と辿々しい日本語が聞こえてくる。

「そうですが、……って、もしかしてチョソンか?」

 それはシュトゥットガルトで出会い、草野を一方的に〝チング〟と呼んだキム・チョソンだった。

「おお、ユタカか! よかった、君が出てくれて。日本語難しいから、家族が出たらどうしようかと思った!」

「久しぶり……っていうか、時間考えろよ! こっちは午前三時だぞ! まあ、一人暮らしだから迷惑かける家族もいないけどな」

「ソーリー、ソーリー。どうだ、ドイツ語の勉強捗ってるか?」

「うーん、なかなか難しいな……」

 

 草野がドイツ旅行から帰ってから数カ月間、ずっとチョソンとの交流は続いていた。結局シュトゥットガルト滞在中、大家が帰ってこなかったので草野は家賃を払いそびれている。チョソンに言わせれば「黙っていればわからない」そうだが、ドイツへ渡った際には、機会を見つけてきちんと大家と話そうと思っている。


「そうだ、ガールフレンドがユタカと話したいって言ってるから替わるよ」

「ガールフレンド?」

 一体誰だと思っていると、聞き覚えのある声がした。

「ハロー、ユタカ!」

「もしかしてユナか!?」

「そうよ、久しぶりね」

「驚いた、いつの間にチョソンと付き合ってたの?」

「うん。しつこく言い寄られている内に、とうとう根負けしちゃった」

 根負けという割には幸せそうな声色だ。

「それはおめでとう……というべきかな」

「ありがとう。ところで……友達がね、ミユを見かけたって言うの。それで

ユタカには教えておこうと思って……」

 草野の眠気が一気に吹き飛んだ。

「美優に!? 一体どこで?」

「ブレーメン音大のオーディションに行ったら、彼女も来てたって……お互い忙しかったからあまり話さなかったそうだけど、まだしばらくドイツにいるみたい。ユタカ、ドイツこっちに来れば、きっと会えるよ!」

「それは何よりの朗報だよ、ありがとう!」

「こちらこそ……私ね、長い間ミユのことで思い悩んでいたの。でもユタカと出会ってなんだか明るい気持ちになれた。本当にありがとう!」



 翌日、会社に出た草野は、坂上課長に面会を求めた。野球で鍛えた巨体は相変わらず威圧感があった。

「なんだ草野、話ってのは」

 会議室に移動してから坂上課長は要件を問い質した。

「実は……もう少ししたら会社を辞めようと思います」

 坂上課長は息を漏らした。

「……ドイツか」

「え……どうしてわかるんですか?」

「おまえが旅行から帰ってきてまとめたレポート、本当によく出来ていた。たけどな、またドイツに来たい、そこで学びたい、働きたいっていう気持ちが文面にありありと出ていたよ」

「そうだったんですか……」

 草野がそう受け答えると、坂上はにこやかにしていた顔をしかめ、厳しく諭すように語った。

「草野、海外に出れば、文化も違う、言葉も通じない。そんなところで困ったことがあっても誰も助けてくれない。苦しくなって尻尾を巻いて帰ってくるような連中を何人も知っている。逆に、向こうで大して実りのない生活を送って、気がつけば竜宮城へ行った浦島太郎みたいに、ただ無駄に歳をとっていたなんて輩もいる。おまえもそうならないと言い切れるか?」

「……わかりません。でも、向こうでクヌーデルさんに言われた『より広い視野で、いちど自分の仕事を見直してみなさい』という言葉にとても惹かれるのです。それをまだ若い内にやっておきたいと思うんです。また……向こうにいる大切な人を、探したいんです」

「そうか……そこまで思うなら、一度きりの人生だ、思い切りやって来い。そして、志を果たしたと思ったら、またいつでも帰って来いよ」

「ありがとうございます、頑張ります!」



 草野は週2回、仕事帰りに中之島にあるドイツ文化センターでドイツ語のレッスンを受けていた。嘱託だから多少時間に融通が利くとはいえ、仕事と勉学を両立させるのはなかなか難しい。しかも講師のミヒャエル・フォークトマンはなかなか厳しい教師で、宿題を忘れていこうものなら相手が大人だろうと遠慮なく叱責する。草野も美優に会いたいというモチベーションがなければ続かなかっただろう。

「こういう場合どう表現するか……草野さんに言ってもらいましょうか」

 フォークトマンは何を思ったか、クラス一出来の悪い草野に当てた。

「ええと、Ich fahre heute aus gesundheitlichen Gründen mit dem Fahrrad zur Arbeit.(今日は健康のために自転車で仕事に行きます)」

正解richtig素晴らしいprima! ちゃんと〝テカモロ〟の原則(時間temporal理由kausal様態modal場所lokalというドイツ語語順の原則)に則っている……草野さん、最近急に上達してきましたね」

 滅多に褒めないフォークトマンに褒められ、草野は少し気恥ずかしくなる。

「最近、ドイツへ行くことをようやく上司に打ち明けることが出来まして……もう後に引けなくなったと言うか、気持ちが定まりました!」

「それはよかったですね」

 しかし、本当は気がかりなことが一つあった。ルートヴィヒスブルクの学校て学ぶにしても、奉公先となる工房なり工場を決めないといけないのだが、それがなかなか決まらない。色々なところに願書を出していたが、立て続けに断られている。


 そうして悶々とした気持ちで帰宅すると、郵便受けに一通のエアメールが入っていた。ブレーメンのピアノ工房からだった。もちろん草野が願書を出していたところである。ユナの友人がブレーメンで美優を見かけたという知らせを聞いて、草野はここに入れたらいいのに、と思っていた。しかし、手紙の薄さから察するにあまり良い返事は期待出来なさそうだ。

 家に帰って落ち着いてから、草野は諦めかけた気持ちでその封を切った。ところがその目に飛び込んで来たのは次の一文だった。


──草野裕様。あなたを採用することが決定しましたので、ここにお知らせします。この決定に承諾いただけましたら、可及的速やかにご返信願います──


 天にも登る……と言うより、魂が抜けたようになった。これで草野はドイツでの居場所が確定した。

(美優さん、待っててくれ。きっと君を探し出してみせるよ)

 そうつぶやきながら、草野は便箋にペンを走らせた。

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