革命の宿

 ピアノを直したいと草野が申し出た時、ユナは難色を示していたが、泊めてもらっている手前、無料でやりたいというと喜んで承諾した。

「実はね、大家さんに何度かお願いしてたんだけどなかなか動いてくれなくて……ホント、助かる!」

 そう言えば、美優と初めて会ったのも、このように調律を申し出た時だった。まさかあの時の少女が、自分にとって大切な女性になるとはゆめゆめ思わなかった。あの時、美優の父親からは「タダで調律なんて二度とするな」と叱られたが、こうしてまたあの父親の言いつけを破ることになってしまった。でも、こうして調律すれば、またあの時みたいにひょっこり美優が現れて、「私、接待されに来てん。取引先をせるするんはビジネスの常識やろ」と言ってデートを申し込まれるのではないか、などと淡い夢を抱いた。


 草野が白鍵の剥がれた鍵盤をピアノから抜き出し、接着面をサンドペーパーで磨いていると、ユナがやって来て「見ててもいい?」と訊いた。草野が頷くと、ユナはソファーに腰かけてしばらく草野の作業を眺めていたが、やがて意を決したように語り出した。

「ごめんねユタカ、ミユがいなくなったのは私のせいなの」

「どういうこと?」

「前にも言ったけど、私たちはシュナイダー先生の生徒でね、ミユは私より一年後から音楽院に入ったの。同じアジア人ということもあって、出会ってから私たちはすぐに仲良くなった。ピアノが弾けるWGがあるから一緒に住もうって彼女が言い出して、ここに私も越してきたの。

 そういう感じで仲良くはしてたんだけど、シュナイダー先生がだんだんと私よりもミユの才能に関心を寄せるようになって──自分で言うのも何だけど、それまで私は彼の一番弟子だったのよ──、私への関心が薄れてきたように感じたの。それでも私は自分から先生に喰らいついて吸収していけばいいと思ってたから、そんなに嫉妬もしていなかったわ。

 だけど、シュナイダー先生が第12回ショパンコンクールの推薦枠を私でなく彼女に与えた時……私は激高した。『先生、私を推薦して下さるって仰っしゃっていたじゃないですか!』と。そしてミユにも散々当たり散らしたの。『どうしてあなたなの! 私のコンクール参加権を返して!』って。彼女は私の罵声をただ黙って聞き続けた。その態度にますます腹を立てた私は、『もうあんたなんか顔も見たくない!』って言って部屋に引き篭もった。そしてそのまま寝てしまったんだけど、翌朝、さすがに言い過ぎたと反省して彼女に謝ろうと思ったの。だけど、彼女はもう部屋にはいなかった。そうして私は、彼女に謝る機会を失ったのよ……」

 草野は何と言って良いかわからず、ユナが口を閉じても黙ったまま作業を続けていた。ユナはうつむいたままそこにいたが、やがていたたまれなくなったのか、「……部屋に戻るね」と言って立ち上がった。

 草野は去ろうとする彼女に言った。

「ねえ、君の先生……アルフレッド・シュナイダーさんに会えないかな?」

 ユナは驚いた顔を見せた。そして静かに頷いた。



 草野がシュナイダーに呼ばれたのは、町中にある何の変哲もないカフェだった。コーヒーも濃いばかりで旨くはない。なぜこんなところに呼ばれたのか、その疑問は間もなく解決した。

「あそこの瓦屋根の家が見えるでしょう」

 シュナイダーは窓からその建物を指差した。草野は「イェス」と答えた。

「私が色々調べた結果、どうやらショパンはあそこに滞在していたようなのです」

「えっ、本当ですか!」

 草野は窓に貼り付いてその建物を凝視した。偉大なるピアノの詩人、フレデリック・ショパンが泊まったと言うその建物は、これまた何の変哲もない民家だった。

「つまり、ショパンが祖国の悲報を耳にし、打ちひしがれながら〝革命のエチュード〟を書いたのがあの家だったわけです」

「なるほどですね……」

 しかし今見えるその建物は、革命のおどろおどろしさとは無縁なほどに、平穏な昼下りの陽気に包まれている。

「私はその時のショパンの心情が知りたいと、何度もこのカフェに来ては想像を巡らすのです。でも、未だに成功したことがありません」

 シュナイダーは不味いコーヒーを一口飲み込んで続けた。「ところが、ミユ・サワムラの革命エチュードを聴いた時、雷に打たれた気持ちになりました。これだ、この情熱こそがショパンを駆り立てたものだと思ったのです。聞けば、彼女は父親の借金で家を追い出され、放浪生活を続けているそうじゃないですか。それなのに、彼女の魂はまるで穢れを知らぬかのように純真で無垢、彼女は試練から光を生み出す蓄光石のようでした。私は彼女を全身全霊をかけて育ててみたいと思いました。実際、素晴らしい生徒でした。どれほど厳しくてもへこたれず、一を教えれば十を学ぶ。私は夢中になって彼女に教え込んだのです。しかし……私の望んだ方向と彼女の成長とは、やがて袂を分かつことになったのです」

「どういうことですか?」

「私は彼女をワルシャワのショパンコンクールに出したかった。しかし、そのことを告げると、彼女はかぶりを振ったのです。『私は他の人と一番を競う器ではありません。私は私の花を咲かせたいのです』と。しかし私は彼女の願いを退け、勝手に予選参加の手続きを始めました。彼女は東洋人独特の謙遜で推薦の辞退を告げたと思ったのです。ところが彼女は一通の置き手紙を残して私の元から去って行きました。手紙には私の世話になったことへの礼と、私の思うところとは別の道を歩みたいと言うことを書いてありました」

「では、彼女が今どこにいるかはわからないのですね……」

「残念ながら。しかし彼女は今もピアノの道を歩みつづけている、このドイツの地のどこかで……私はそう思っています」

 この瞬間、草野はドイツで学ぼう、そして美優を探し続けようと決意した。

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