視察

 ユナは「とにかく中へ」と、草野たちをドアの中へ迎え入れた。案内されたのはリビングだった。男部屋と違うのは、一台のアップライトピアノが置かれていることだった。

「ミユは私と同じシュトゥットガルト音楽院の学生で、アルフレッド・シュナイダー教授の門下生だったの」

だったshe wasと言うのは……」

「今は違うってこと。彼女、忽然と姿を消してしまったから……」

「どういうこと?」

 忽然と姿を消すとはいかにも美優らしいが、いったい何があったのか。ユナがそれに答えようとした時、電話のベルがけたたましく鳴った。住人の一人が電話を取り、「ユナ、電話よ」と伝えた。ユナは受話器を取ると、急に朗らかな口調で饒舌になった。長くなりそうな気配を感じたので、草野はリビングに置いてあるピアノを見てみることにした。まず、鍵盤蓋を開けてギョッとした。白鍵が数か所剥がれて木目が見えていたのだ。そして弾いてみると、もうかなり長い間調律していない状態だった。美優はこんなピアノで練習していたのか、と思うと胸が痛む。ユナが電話を終えるのを待っていたが、話に花が咲いているようで終わる気配がない。草野の眠気もそろそろ限界に来ていたので、また日を改めてユナを訪ねることにした。自室に戻ると、草野は着替えもせずに寝転がり、そのまま眠りについた。退屈したチョソンがまた起こしにきたが、もはや草野は朝まで目を覚ますことはなかった。



 翌朝、またチョソンに遊びに行こうなどと誘われるかと思ったが、語学学校の授業があるとのことで、オサマとほぼ同時に出かけていった。一人になった草野は部品メーカーであるレンナー社を訪ねることにした。市内の古びたビルに居を構えていた。入口を入ったところにいた従業員に見学したい旨を伝えると、「見学は予約していただかないと……」と断られたが、たまたま通りかかった営業スタッフが「少しの間なら予定が空いているからいいよ」と言ってくれたので、その言葉に甘えて案内してもらうことにした。

 中に入ってまず印象に残ったのは独特の匂いだった。古い建物なので、木張りの油の敷かれた床であった。そして、驚いたことにありとあらゆる設置に膠が使われていた。製品はもちろんのこと、書類や梱包など事務用にも膠が使われているので、至るところで膠が炊かれていてその匂いが床の油の匂いと混ざって一種独特な臭気を醸し出していた。案内してくれたスタッフの都合で、見学は途中で切り上げなくてはならなかったが、草野にとっては充分印象的だった。帰り際、土産代わりにチューニングハンマーと鍵盤用アクリルを買っていった。もちろん、WGのピアノを直すためである。その時、ルートヴィヒスブルクの実業学校とプファイファーというピアノメーカーも見学したいことを話すと、事務員が両者に電話してくれた。運良く、午後から両方見学出来ることになった。すなわち、会社向けレポートの取材を一日で終わらせられることになる。


 午後一番でプファイファーの工場見学が出来た。レンナー社でも感じたが、随分ゆったりと仕事をしている印象だった。もっともそう思うのは比較の対象かミヤケの工場ということもある。ミヤケのピアノ工場では、作業場そのものがベルトコンベアーに乗って常に動き、そこに着座した作業員たちが、これまた超人的な速さで手作業を行なうのであった。のんびりしていると、作業が終わらない内に作業台がゴールインしてしまうからだ。そうしてみながあくせくしている間を、運搬用ロボットが〝エリーゼのために〟を鳴らしながら通り過ぎる……驚異的な光景だった。それにくらべると、プファイファーの工員たちは、まるで人間国宝が粘土をこねるようにじっくりと作っているように見える。こんなスローペースで間に合うのかと思うが、年間百台ほどしか作っていないとのことで草野は納得がいく。ミヤケは当時、年間十何万台ものビアノを生産していたのだ。


 そして少し日が翳った時間になって、ルートヴィヒスブルクにやって来た。駅から十数分ほど歩いたところに実業学校のキャンパスが広がっていた。ここではピアノ技術者クラヴィーアバウアー以外にもオルガン技術者、管楽器技術者、看護師に理容師など様々な職業を養成しているマンモス校だ。事務局を訪ねると、主任講師のゲルハルト・クヌーデルが草野を待っていた。

「草野です、わざわざお時間取って頂いてすみません」

「いやいや、ちょうど放課後になったところで手が空いているので」

 と言って早速校内を案内してくれた。とは言え、さほど見学する場所は多くない。教室、製図室、木工・金工室、そしてピアノ調律の練習室という具合だ。調律練習室は、日本の研修機関のものとさほど違いはなく、あるとすれば調律練習用のパイプオルガンモデルが置かれていることくらい。だが、全部で六部屋しかない。

「毎年、何人くらい入学するんですか?」

「そうですね、二クラス合わせて五、六十人と言ったところでしょうか」

「そんなに! でもそんなに生徒がいるのに、調律練習室が六部屋で足りるんですか?」

「この学校は、主に理論を学ぶところなんですよ。三年半の研修期間中、数カ月を工場や工房などの現場で、次の数カ月を学校で、というように交代して学ぶデュアルシステムになっているんです。それで、技術的なことはほとんど現場で学ぶのでここではそんなに頻繁には調律の練習をしないんですよ」

「なるほど……日本では一年間、ひたすら調律ばかりしていますけど、国が違えば随分手に職をつけるやり方も違うものですね」

「あなたは日本で調律を勉強したのですか?」

「ええ。七年前、ミヤケの研修センターで学びました。それから途中はオートバイ業界にいましたけど、一昨年ピアノ業界に戻って来ました」

「そうでしたか」

 とクヌーデル氏はしばらく考えてから言った。「ところで、もし興味があるようでしたら、ここで学んでみませんか?」

「……え?」

 草野は一瞬英語を聞き取り間違ったかと思った。クヌーデル氏は続ける。

「日本人技術者の腕は優れている。しかし、どこか木を見て森を見ないところがある気がするのです。より広い視野で、いちど自分の仕事を見直してみるのは悪くないと思いますが……」

クヌーデル氏の言葉に、草野は何か動かされるものを感じた。いったい自分はなんのために、そもそも何をして来たのだろう。それを高いところから見てみたい気がしたのだ。

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