MM戦争(インタールード)

 新宿西口のとある高層ビルの従業員用エレベーターに、二人の男が乗った。一人は高級スーツに身を包んだ紳士。もう一人は、やはりスーツは着ているが派手で品がなく、いかにも堅気ではない人物だった。エレベーターの扉が開くと、互いに顔を見合わせることなく、のっしのっしと乗り込んだ。扉が締まり、上昇し始めると、紳士の方が「オーストリア」と言った。するともう一人の男が、「カンガルーはいない」と答えた。紳士……持田重工業社長・若嶋透は得心したというように咳払いをひとつした。

「余計な挨拶はよそう。この写真の男が私を社長の座から引きずり下ろそうとして、組合を煽っている。何でもいいからコイツの尻尾を掴んで手籠にして欲しい」

 男は写真をさっと受け取り、上着の内ポケットに入れた。

「この男について、今わかっていることを話してもらえますか」

「名前は中島宏隆、42歳。ウチの総務部庶務課の主任だ。2歳年下の妻と小学六年生の息子がいる。母親はかなりの教育ママで、私立中学の受験に躍起になっているらしい」

「浮いた話は?」

「不倫の形跡はないが、風俗にハマっているという噂だ」

「……わっかりました、その辺りから突いてみます」

 男は最寄りの階のボタンを押し、扉が開くと降りて行った。若嶋透はその背中を見て呟いた。

(ふん、ダニ野郎め……)


 *


 その翌週、男は再び新宿高層ビルのエレベーターに乗った。但し、同乗していたのは若嶋透ではなく、持田重工業労働組合副委員長・中島宏隆だった。

「一体何なんだ君は、こんなところに呼び出して……」

「余計な話はよしましょう、これを見て下さい」

 中島はギョッとした。男が見せたのは中島がSMクラブでプレイ中の盗撮写真だった。

「こ、こんなもの、どこで手に入れた?」

「そんなの企業秘密ですよ。あ、破ってもムダですよ。ネガ持ってますからね。これ、盗撮雑誌に投稿しようと思ってるんですけど、一応あなたに断っておこうと思いまして……こういう雑誌、最近の中学生って結構見てるようで、怖いですよねぇ。載ったら最後、いつあなたの破廉恥な姿が、息子さんの目に触れることでしょうね」

「ふざけるな、何が目的なんだ、金か?」

 男は笑って首を振った。

「勘違いしてもらっちゃこまるなあ、それじゃカツアゲじゃないですか。……中島さん、あなた社長を辞めさせようとして組合を動かしているそうじゃないですね」

「まさか……」

「組合に働きかけて、社長追放運動をやめさせてほしいんですよ、今月中にね」

「そんなこと、出来るわけないだろう!」

「やるかやらないかはあなた次第です。今月末の段階で組合が運動をやめていなかったら……この写真は良からぬ雑誌に載ることになりますから、そのつもりで」

 男はまた最寄りの階のボタンを押し、扉が開くと降りて行った。

「くそっ、くそっ!」

 中島は一人叫びながら、エレベーターの壁をドンドン叩いた。



「運動をやめるってどういうことですか!?」

 会議室で中島副委員長は、数え切れない組合員の怒気を含んだ罵声を浴び続けていた。その姿は、あたかも塩をかけられた蛞蝓なめくじのようだった。

「……何度も言った通りだ。若嶋さんは我が社にとって必要な指導者だと判断したからだ。会社が倒れれば我々の居場所もなくなる、そういうことだ」

「そんな理屈が通ると思っているんですか!」

「あなたまさか、社長に買収されたんじゃ……」

 それを聞いた中島はカッとなった。

「おい、言っていいことと悪いことがあるぞ!」

 組合員たちは一瞬怯んだが、それが図星であるとの認識を深めた。だが、どれほど訴えたところで副委員長が方針を変えることはない。それはみなわかった上で、やり場のない怒りを副委員長にぶつけていた。


 *


 組合でのクーデターを封じたという知らせを受け、若嶋はイエスマン役員を銀座のグラフに招き、ロマネ・コンティのドンペリ割りをふるまった。以前ならこの場に居合わせた弟の影や、コンサルタントの小堀輔の姿はない。招かれても何かと理由をつけて来ない役員もいた。さすがの若嶋も孤独を感じないわけにはいかないが、それを自分では認めようとしない。敢えて高笑いする姿は、事情を知る者には痛々しくさえあった。

「ワッハッハ、この俺に楯突こうとする者はどうなるか、思い知るがいい!」

 同席した役員たちは調子を合わせて愛想笑いを浮かべるが、その誰もが複雑な思いを抱いて顔をひきつらせていたことに、若嶋は気がつかなかった。と言うよりも、見たくもないものを見ないようにしていた。もはや面従腹背の部下のみに囲まれた、哀れな独裁者だった。



 それからしばらくして、持田重工業取締役会が執り行われた。当たり障りのない議題ばかりで、無難に終わりを迎えるかと思われた。ところが終盤になってそれまで発言のなかった小倉常務から挙手があった。

「ここで、臨時の議題を挙げさせていただきたいのですが、宜しいでしょうか」

「それはどんな議題ですか?」と議長の渡辺副社長か訊く。

「……若嶋社長の解職についてです」

 若嶋はダンと机を叩いて立ち上がった。

「何を言い出すんだ、君は! 場所をわきまえ給え!」

 と若嶋が言い終わる前に、小倉常務は資料を全員分配布した。それを見た若嶋は驚きのあまり顔面蒼白になった。小倉常務はそんな若嶋に目もくれずに説明を始めた。

「ご覧の資料は見ての通り、若嶋社長と米澤隆二という人物との繋がりを示すものです。米澤は裏社会では有名な総会屋でありまして、暴力団羽田組の構成員でもあります。先日、若嶋社長が労働組合の運動を阻止するために米澤を使ったことは明白です。私としては社内勢力維持の為に裏社会を利用するなど言語道断、即刻我が社を去っていただきたいと思います」

 全員の冷ややかな視線が若嶋に向けられる中、議長が若嶋に問うた。

「若嶋社長、只今の陳述に対して弁明はありますか?」

 若嶋は被りを振った。議長は続けた。「では、若嶋社長の解職に賛成の方は挙手を」

 すると若嶋を除く全員がスッと手を上げた。若嶋派と目されていた役員たちでさえ、なんのためらいも感じられなかった。根回しは完璧に行なわれていたのだ。解職が決議されると、もはやなす術のない若嶋は静かに立ち上がり、部屋から出ていった。こうしてMM戦争の陣頭指揮を取っていた双方のトップが、表舞台から姿を消して行った。

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