パトリオット
チョソンと草野が出かけようとすると、当然のようにオサマもついて来た。この体格と面構えだ、見知らぬ町でのボディーガードとしては頼もしい存在だ。彼らは近くの停留所から
「切符はどうやって買うの?」
と草野が訊くと、チョソンは被りを振った。
「そんなもの、買う必要はないよ」
「それはダメだろ、無賃乗車じゃないか」
「もちろん、切符の検査があって捕まったら罰金だ。だけど、検査に遭遇するのはせいぜい数カ月に一度だ。それくらいの頻度なら、毎月
「……そういう問題か? オサマ、君もそうしているのかい?」
すると、オサマは懐から一枚のカードを取り出してみせた。大学生が持つことのできる〝ゼメスターチケット〟というもので、公共交通機関が乗り放題らしい。草野はチョソンに訊いても教えてくれなさそうなので、オサマに買い方を聞いて一日券を買った。
チョソンの言うように、オサマは寡黙な男だったが、語学力そのものはレベルが高かった。英語の発音も良く、ドイツ語も結構話せるようだ。寡黙だが語学力の高い男と、おしゃべりだが語学力の低い男との取り合わせは何とも奇妙だった。
中央駅より一つ手前の停留所で降車すると、目の前に大きな公園があった。ドイツはとにかく、緑が多い。いや、日本が少ないのか。そんなことを考えながら道を歩いていると、突然チョソンが叫んだ。
「オー! コリアンカー! ソー・ビューティーフル!」
何だと思って見ると、1台のセダン車が走り抜けていた。メーカーはヒュンダイだった。草野はヒュンダイの自動車を見るのは初めてだったので、珍しいものを見るように立ち去る車を見続けた。
ところがチョソンのコリアン騒ぎはそれだけではなかった。町中でサムスンや、ゴールドスター(後のLG)などの看板を見かける度に、大騒ぎしてどれほど韓国のテクノロジーが素晴らしいか、滔々と述べるのであった。この僅かな時間で、チョソンが相当な愛国者であることを思い知った。結局、この短時間で印象に残ったのは、ドイツ的情緒よりも、韓国のアピールばかりであった。そうしているうちに草野が空腹を覚え、「どこかレストランでも入ろうか」というと、
「レストランなんてもったいない。家に帰ってラーメン食べよう」
とチョソンが言った。
帰宅後、チョソンの部屋に入ると、何箱ものダンボールが目に入った。驚いたことにそれは全部インスタントラーメンが入っていたのだ。その袋には大きな文字で「辛」と書いてあり、いかにも辛そうだ。実際食べてみると、これまで経験したことのないほどの辛さだった。だが、インスタントの割にはなかなか旨い。
「へぇ……結構旨いね、これ」
するとチョソンはまた得意気になって、「そうだろう、そうだろう、何しろ韓国のラーメンは……」などとお国自慢を始めた。そして、「ああ、このラーメン、食べたくなったらいつでも取り出して食べてくれ」と言う。
「それは、勝手に君の部屋に入って取っていいということ?」
「そりゃそうさ、何しろ君は〝チング〟だからな」
それはありがたいが、逆に言えば自分のものも勝手にさわられる可能性があるということだ。貴重品の管理には留意しなければ、と思った。
「ところでチョソンはかなりの
「国家としての日本には反感があるよ。歴史を紐解けば豊臣秀吉から始まって伊藤博文の暴挙、それに第二次世界大戦では……」
と、反日ネタが続きそうな流れを、草野はウェイト、ウェイトと言っておさえた。
「だったら君はどうして日本人である僕を〝チング〟と呼ぶんだ?」
チョソンはしばらく不思議そうな顔を浮かべて答えた。
「ユタカ、子供の頃、学校好きだった?」
「うーん、どっちかと言えば嫌いだった」
「じゃあ、学校で好きな女の子とか、いなかったかい?」
「いたよ、そりゃ。まあ、ほとんど片思いだったけど」
「だろ、同じことだよ」
「はぁ……わかったような、わからないような」
すると「俺はわかるぞ」とオサマが口を挟む。「俺の初恋の相手はユダヤ人だった……」と、厳つい顔を赤らめた。世界には草野の知らない複雑な事情が存在するらしい。美優との関係の複雑さに悩んだ草野だが、世界にはもっと難しい恋愛に苦しむ若者もいることだろう。そんなことに思いを馳せると、チョソンが思いついたように言った。
「そうだ、君の好きな人のこと、ユナが知ってるかもしれない」
「ユナ?」
「僕と同じ韓国人で、隣のWGの住人だよ。早速訊いてみようよ、大丈夫だ、僕のことをオッパ(お兄さん)と言って慕っている子だから」
草野の丼にはまだラーメンが半分残っていたが、チョソンはお構いなしに隣部屋に草野を連れて行く。呼鈴を押し、住人の一人が出てくると、「ユナを呼んで」とチョソンが言う。そうして出てきたユナと思しき女性はなかなかの美女であったが、チョソンの顔を見るなり、明らかに嫌な顔をした。そして韓国語で何やら怒鳴り、チョソンがなだめているようだが、とても彼女がチョソンを〝オッパ〟などと慕っているようには見えなかった。
そうしてユナの興奮が一段落したところで、彼女は草野に目を向けた。その目には未だ怒気をはらんでおり、草野は思わず後ずさりしてしまう。
「……もしかしてあなた、チョソンが初めて会う韓国人?」
ユナはチョソンとは違い、流暢に英語を話す。
「いや、初めてというわけではないけど……」
するとユナは初めて笑顔を見せた。
「良かった。チョソンみたいなのがみな韓国人男性だと思われたら恥ずかしいから……私、ハン・ユナ。よろしくね」
「草野裕です……あの、ここに住んでいた澤村美優っていう人を探しているんですが、知ご存知ですか?」
もちろん英語には敬語とタメ口の区別はないが、草野は敬語で話している気持ちで、タメ口で返されている印象を勝手に受けている。
「うん……知ってるも何も、この部屋を紹介してくれたの、ミユよ」
「え……!」
草野は思わぬ手がかりの登場に気持ちが高揚したが、ふとユナの目の翳りを朧気に感じた気がした。
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