WG
青年の言った〝二階〟とは、日本で言うところの三階だった。ドイツではそのように階を数えるということは既に予習済みだったが、二階のつもりで三階まで上るのは案外きつい。しかも二十キロぎりぎり詰め込んだキャリーバッグを持ち歩いていたのである。コインロッカーに預けてくればよかった、とは後悔先に立たずである。その〝二階〟の踊り場に着いた時、肩で息をする草野に青年が説明した。
「このフロアには3LDK二世帯分あってね、右側が男子、左側が女子のWGになっているんだ。じゃあ、入ろうか」
青年は右側の部屋のドアを開けて中に入った。中に入ると、相撲取りのような大男が視界に入ってきて、腰を抜かしそうになった。
「ああ、紹介するよ。コイツはオシャマ、そしてこちらは……」
「あ、草野です。草野裕。日本から来ました」
咄嗟に自己紹介すると、オシャマは日本語的なニュアンスで「うす」という感じの反応をし、「オサマ・ハラウィー、レバノンから来た……」と名乗った。コリアン青年にはサの発音が難しいらしい。
「ところで、君の名前は?」
草野が訊くと、
「僕はキム・チョソン。出身は
チョソンは自己紹介を済ますと、奥の部屋へと草野を案内した。そこは何もない、空っぽの部屋だった。
「ユタカ、今日からここが君の部屋だ。いやあ、ちょうど空きが出来たばっかりで、君、ラッキーだったよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。僕は旅行で二週間滞在するだけだし、もうホテルも予約しているし……」
と言うとチョソンは「オー・マイ・ガー!」と言って額を押さえた。
「二週間もホテル暮らしなんてクレイジーだ、金がいくらあっても足りないぞ! すぐにキャンセルしろ!」
滞在費用は充分あったが、それを言うとまた日本人は贅沢だ、などと言われて面倒くさそうなのでやめた。
「いや、だってキャンセル料だってかかるし……」
「ホテルの連絡先は?」
と訊かれて草野が書類を渡すと、チョソンはそこにあった番号に電話をかけた。
「こちら、ユタカ・クサノ。ええと、今日から二週間の予約、キャンセル。え? 理由? オヤジが危篤でドイツに来れなくなったの、オーケー? そういうわけで、お金払えない。え? いらない? そう、サンキューベリーマッチ!」
と、ムチャクチャな英語で話していた。ちなみに、チョソンの英語はかなりデタラメであり、レベルは草野とさほど違わない。草野はなぜ自分たちの間で会話が成り立っているのか不思議で仕方がない。
「ユタカ、キャンセル料いらないって。安心してここに住みな」
「住みなって、君は管理人じゃないだろ。勝手に決めていいのか?」
「
たしかに、正論だ。草野はチョソンの言うとおりに、ここに滞在することに決めた。
「実を言うとね、オシャマってすごく寡黙でさ、退屈してたんだよね。話し相手が出来て助かったよ」
「それはよかった、ははは」
内心、おしゃべりに付き合わされるのは勘弁して欲しかったが、こうして落ち着く場所が確保出来たのは有り難かった。とりあえず、荷物を整理してベッドに寝転がると、急に眠気に襲われた。時差の影響と、飛行機の中であまり眠れなかったことが大きい。
*
ふと目を上げると、聖子ちゃんカットのセーラー服を着た少女が立っていた。
「美優……さん?」
やっと会えた。喜ぶ草野であったが、美優は苛立っている様子だった。
「草野さん、なんでしてくれへんかったん?」
「してくれって、何を?」
「もう、あんだけ言うたのに、覚えてへんの? 最低や!」
「そんなこと言われたって……全然記憶にないよ」
すると美優は、草野の両腕を掴み、激しく揺すった。
「ほんまに……何でわかってくれへんねんのや!」
彼女があまりに激しく揺らすので、草野は脳震盪を起こしそうになる。
「ちょっと、もっと優しくして……」
***
「ユタカ! ユタカ!」
目を覚ますと、目の前にチョソンの顔があった。草野が眠り込んだところを揺り起こされたのだ。
「何だよ……寝てたのに。って言うか、一応ここ、僕の部屋なんだろ。勝手に入らないでくれ!」
「何言ってるんだ、君は〝チング〟だろ。僕たちはいつも一緒だ!」
〝チング〟という韓国語の正しい意味はわからないが、どうやらプライバシーの配慮されない面倒くさい関係性なのだと草野は理解した。そして、後々その認識はあながち間違いではないことを身を持って思い知る。「それよりも、町に繰り出そうぜ! 僕が案内してやる」
こうして、草野は睡魔から解放されないまま、チョソンに引きずられるようにしてシュトゥットガルトの町に出た。
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