幽霊ホテル

「やっぱり、この仕事向いていない」

 澤村自転車を出てから、草野の頭の中に浮かぶのはそんな言葉ばかりだった。これから一、二件契約が取れたとしてもノルマに届かず、沼田や蟹沢にドヤされるとしたらバカバカしい。虚しい。自分には他人にないアドバンスがあるなんて、少しでも思ったのがおこがましい。

 そんなことを考えながら、草野はバイクのエンジンをかけると、国道一号線を京都方面に走らせた。どこへ行くのかわからない、あてどもない逃走だった。やがて京都市内に入り、山を越えて山科やましなに、そして滋賀県へと抜けた。琵琶湖西岸をずっと走っていると、突然大きな廃墟が目に飛び込んで来た。

(うわっ、何だあれは!?)

 もっと近づいてみると、10階建てくらいの、コンクリート剥き出しになった建物だった。

(そう言えば、万博の頃に建設が始まって、途中で資金難のため建設中止となったホテルが琵琶湖沿岸にあると、何かの本で読んだことがあった。あの幽霊ホテルとはこれのことだったのか……)

 中がどうなっているのか興味は惹かれるが、敷地は有刺鉄線付きの金網フェンスで囲まれており、容易には侵入出来ないようになっている。もっとも本気になれば突破出来そうだが、人目もあるし警察に捕まって面倒なことになるのも御免被りたい。それで適当な場所にバイクを停めて、幽霊ホテルの周りをぐるりと散策した。

 やがてそれも飽きたので再びバイクに乗り雄琴温泉をぐるりと周った後、近江舞子まで足を伸ばした。湖の方を見ると、大勢の湖水浴客で賑わっている。すっかり観光気分で浮かれた草野は、売店で水着を購入し、脱衣所で着替えるとそのまま湖に飛び込んだ。

「うわー、気持ちいい!」

 仰向けになって湖にプカプカ浮かぶ。耳が水中に潜っているので周りの喧騒もシャットアウトされて、聞こえるのは水面下に蠢く泡の音ばかりだ。周りには大勢のレジャー客がいるが、まさか草野が仕事をサボってこんなところでプカプカ浮いているとは思わないだろう。

 ところが、遅い昼食に海の家(なぜ湖なのに海の家なのか、草野は疑問に思ったが)でカレーを食べていると、割烹着を着たばあさんがやってきてこう言った。

「兄ちゃん、仕事サボりに来たんか?」

「え……」

 草野が急に神妙な顔になったので、ばあさんは面白そうに笑顔を浮かべた。

「ええねん、いっつも気張っとるんやろ。今日ぐらい思い切り息抜きしなや」

 ばあさんの言葉に草野少しホッとしてくつろいでいると、間もなく有線で、〝マッチ〟とかいう最近ティーンズの間で人気の流行歌手の歌が流れた。湖の解放的な雰囲気に合わない陰鬱な曲調と、素人丸出しの歌唱力にゲンナリして、すぐさま海の家を出た。

 そうやって湖畔で過ごしているうちに、気がつけば数時間も過ごしてしまった。

(やばいな、そろそろ帰らないと……)

 と思ってバックミラーを覗きこんで草野はギョッとした。日焼けで顔中真っ赤になっていたのだ。さすがにこんな顔で会社に戻るわけにはいかない。会社に電話して直帰することにした。ところが……

「はい、ミヤケモータースです」

 電話に出たのは運悪く蟹沢課長だった。あちゃー、なんでよりによってこの人が、と思ったが、もう後には引けない。

「……草野ですけど、今日は遅くなりそうなので直帰します……」

「ああ草野か、ちょうど良かった。帰る前に枚方寄って来れるか? 澤村自転車の店長がおまえに来て欲しい言うてはるんや」

「澤村さんが!?」

 あまり良い予感がしない。だが、冷静に考えてみて、苦情を言うなら上司を呼び出す筈で、わざわざ下っ端の草野をもう一度来させることはしないだろう。だがあれこれ考えても埒があかないので、バイクを枚方に向けて走らせた。


 澤村自転車に到着すると、シャッターは開いて灯はついていた。まだ営業中の様相だった。

「……こんにちは、先ほどは失礼しました」

 遠慮がちに店に入ると、澤村も低姿勢で応対した。

「おう、こちらこそさっきは殴ったりしてごめんな。堪忍してくれや」

 澤村は手を差し出して着席を促したが、草野は商売の邪魔にならないか気にして店内を見回した。その心中を澤村は察した。

「気ィ使うことあれへん。最近は滅多に客も来えへんからな。どこか適当な椅子に座ってくれや……」

 商談に使うと思われる椅子に腰掛けると、奥から聖子ちゃんカットの娘が盆に茶碗を載せてやって来た。

「粗茶ですが……」

 草野と父親の前に静かに茶を置くと、娘はまた奥に引いた。

「よく出来たお嬢さんですね……」

 すると澤村は照れ臭そうに言った。

「ホンマに……誰に似たんやろな。ワシもこんな甲斐性なしやさかい、嫁にも逃げられてあの娘でウチは成り立ってるようなモンや」

 なるほど、娘が「母は家にいない」と言ったのはそういう意味かと納得した。

「ほんでな、今朝のことやけど……娘にえろう怒られてな、あんたに謝るまでは口きかんて言いよるんや。そやから言うわけやないけど……ホンマにすまんかった」

「いえいえ、そのように仰られてはかえって恐縮です」

「お詫びの印っちゅうわけやないけど、お宅とのミニバイク販売契約、挿せてもらいますわ」

「ありがとうございます!」

「そやけどな、契約取るために調律をタダでやるなんて、二度とするんやないで」

「……すみません」

「ワシも職人の端くれやから言うけどな、職っちゅうもんは一旦身につけたら命がけで大事にせなあかんのや。職人が自分の腕を安売りしてみ。他の連中もモノづくりを軽う見るようになって、国中がろくにモノも作らんとアブク銭ばっかり追うようになる。そうなったらいつか国も滅びるんや」

 澤村の目にはやがて来る産業空洞化やバブル経済と、その結果としての壊滅的な経済悪化などを見通していたようだ。しかし、草野にはそれが具体的にどうなるのか、まだピンと来なかった。

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