第二章

班替え

 草野はミネシマサイクルでの一件以来、次々と契約を取れるようになっていた。といっても、第二営業課のノルマはとても厳しくそうやすやすと達成出来るものではなかった。となれば元々営業向きではない草野は尚更で、相変わらず蟹沢の叱責を受ける毎日だった。しかし……


「よぉ、少年!」

 江坂にあるお気に入りの食堂で田辺と出会った。この店の〝小エビの天ぷら定食〟は食べ応えがあってうまいと、以前田辺から勧められて以来、草野はランチタイムをここで過ごしている。

「田辺さん、お先いただいてます」

「おう、俺もそれ食おうかな。……そやけど相変わらず絞られとんなぁ……」

「ええまあ……だけど、最近何か変なんですよね」

「変て、もともと変やろ、蟹沢あいつ

「何て言うか、叱り方が本腰でないって言うか……キツいこと言われているようで、あんまりこたえないんですよ。前は叱られると、どよーんと息苦しい気持ちになったんですけど……」

「そら、おまえ自身が打たれ強うなったんちゃうんか?」

「そうだったらいいんですけど、……あの人、何か僕に遠慮しているようなところがあるんですよね」

 その時、田辺が腑に落ちた顔になった。

「ははあ……おまえ、喫茶フロイラインのウェイトレスのこと、話に匂わせたやろ」

「はい、わからないようにですけど……」

「アホ、浮気しとるヤツはな、人一倍警戒心強いんや。切り札は見せびらかさんと、胸の内ポケットにしまっとくんもんや。そやないと、いざと言う時に効き目なくなるで」

「そんなもんですかね……」

 田辺には言っていなかったが、草野はあれから喫茶フロイラインに足繁く通っていた。偵察も兼ねてではあったが、何しろ景色が良いのが気に入っていたのだ。しかし、田辺に指摘されてみて確かに軽率だったと思った。

(あの三好さんというウェイトレスに顔を覚えられていたら、きっと蟹沢課長に逐一報告しているに違いない。もう少し慎重に事を運ばないと、折角の切り札が台無しだ……)


 草野の杞憂が形を伴って現れたのは、それから数日後のことであった。

「え……僕が沼田班に?」

 蟹沢から呼び出され、何を言われるかと思えば班替えの話だった。

「そうだ。新千里地区はそろそろネタ切れの様相を見せている。だが、沼田班はテリトリーが広く、かねてから人員の要請があった。君も少しは仕事ができるようになっだようだし……あっちのフォローに回ってくれ」

 沼田班のテリトリーは京阪沿線、守口から枚方までの間で、確かに広範囲だった。しかし、蟹沢の意図が草野を喫茶フロイラインから引き離すことにあったのは明白だった。

 班長の沼田忠ぬまたただしは、新たにメンバー入りした草野の顔を見て、あからさまに嫌な顔をした。一人でもノルマ達成出来ないメンバーがいると班全体が懲罰対象になるのだ。素人集団であった福田班からの編入を快く思わないのも無理はない。

「おまえのせいでしばかれるんだけはゴメンやで。いくらノータリンやからって『売れません』で済む話やないからな」

 沼田がそう言うと、他の班のメンバーも同意の目つきをした。ところで沼田班にはあの朝倉泉もいた。初日で営業同行した、ワンレングスの女性である。草野が項垂れていると、「ずいぶんひどいこと言われてたけど、気にしたら負けよ」と言いながら、自販機で買ったばかりのインスタントコーヒーを草野の前に置いた。彼女流の励まし方なのか。草野はコーヒーをありがたく頂戴したが、彼自身、蟹沢という暴君に揉まれて少しは心臓に毛が生えていたので、少々の嫌味は気にならなくなっていた。


 草野の営業範囲として割り当てられたのは、枚方市の京阪交野線沿線辺りだった。大阪と京都の間には四本の鉄道線があり、淀川を挟んで北側に新幹線、国鉄、阪急が、そして南側に京阪が走っている。厳密に言えば近鉄もあるのだが、かなり遠回りで京阪間の足として利用する者はいない。いずれにせよ、モノレールのなかった当時、千里丘地区から鉄道だけで枚方まで行くには、一旦大阪駅(梅田)まで行って二回乗り換えが必要だった。高槻駅か吹田駅からバスで川を渡る方が便利なのだが、インターネットのない時代、なかなかそういう情報に手が届かない。草野は国電でも京阪電車でも席にありつけず、枚方市駅に着く頃にはすでに疲労が蓄積していた。さらに交野線に乗り換え星ヶ丘で下車し、足を引き摺るように国道一号線へと向かう。そして、その途中に「澤村自転車」という自転車販売店があったので、飛び込んでみた。

「ごめんください」

 ところが店主は草野を上から下までジロジロ見ると、つれなくそっぽを向いた。

「……帰ってくれ。なんぼ来られたかって、ない袖は振れまへんのや」

 借金取りか何かと勘違いされたかと思い、草野は素性を明かした。

「あの……ミヤケモータースの草野と申します。ウチのミニバイク・ステップをこちらで販売していただけないかと思いまして……」

「何や、バイク屋かいな。そやけどウチはこれ以上商売の間口を広げる余裕あれへんねん。他をあたってんか」

 とその時、店の奥からピアノの音が聞こえた。弾いているのはショパンのエチュード……つまり本格的にピアノを学んでいるということだ。

「ピアノ……どなたが弾いてるんですか?」

「ああ、あれは娘や。親バカかもしれんけど、結構才能はあると思てますねん。そやけど、音楽っちゅうのは結構カネがいりまっしゃろ。なんでウチみたいな貧乏な家に生まれて来たんか……そう思うと、あの娘が不憫でならんのや」

 店主は自嘲気味に語ったが、家が貧しいというのは決して誇張ではないと草野は分かった。これほどよく弾くのに、ピアノの調律が酷く狂っていた。必要な筈なのに年に数回の調律料を捻出する経済的余裕がないのだ。それから草野は少し粘って営業かけてみたが、けんもほろろだった。諦めて辞退したが、草野にはどうしてもあのピアノの状態が気になって仕方がなかった。

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