ようこそ、愛車

 それからも、草野は相変わらず契約の取れない、ゆえに蟹沢の叱責を浴び続ける毎日が続いた。だが、田辺のアドバイス通り、蟹沢を教材にして何か学んでやろうと思うと、少し気が楽になった。そうは言っても、このままやられっぱなしであるよりは、わずかでも意趣返しして、少しでも気持ちを優位に持っていきたいという欲が出てきた。そうしてある考えが頭に浮かんだ。

 草野は田辺とタンデムでツーリングして以来、ミヤケのミニバイク・ステップを購入しようと考えていた。最初は会社で自主購入しようと思っていた。だが、自転車店に営業かける際、自分が一台買うという条件を持ち出してみてはどうかと思いついた。会社で買った方が社員割引が効くぶん得ではあるが、その差額程度なら、投資と思えば安いものだ。

 その条件を提示しながら豊中市北部で飛び入り営業をかけたところ、東豊中のミネシマサイクルという自転車販売店と契約を結ぶことが出来た。

「そやけど兄ちゃん、ワシが言うんもなんやけど、自腹切るんはこれきりにしいや。クルマの営業やけど、ノルマがきつうて自分で買うて破産寸前になるっちゅう輩が結構おるみたいやで」

「ご忠告ありがとうございます。肝に銘じます」

 そう言って草野はミニバイクの委託販売契約と、自分のステップ購入契約書を書いた。ミネシマサイクルを出た草野は、先日田辺とやって来た喫茶フロイラインでコーヒーを飲み、大阪平野を上から眺めながら束の間の自由を堪能した。

「ただいま戻りました」

 会社に戻った草野は、いつになく堂々と蟹沢のデスクに向かった。

「契約取れました。ハンコお願いします」

 と言ってミネシマサイクルとの契約書を差し出した。少しは褒め言葉の一つもあると思ったが、「ようやく一軒か……」と蟹沢は溜息混じりに書類を眺めた。これにカチンと来た草野は次の一手を打った。

「ところで、商談に使ったお茶代は経費で落ちるんでしょうか!?」

 蟹沢はギロッと草野を睨んだ。

「バカヤロウ、喫茶店で商談なんざ十年早いんだよ! どうしても茶が飲みたけりゃポケットマネーから出せ!」

「でも、今月やりくりが厳しくて、今回だけでも何とかなりませんか……」

 と言って領収書を差し出した。それを見た蟹沢の顔色が一瞬で変わった。そこには喫茶フロイラインの店名が明記され、〝三好〟の印鑑が押印されていたのである。

「……おまえ、この店行ったのか?」

 その眼差しには猜疑心がありありと浮かんでいた。どこまで知っているんだ、と言わんばかりの……

「ええ、とても景色の良い店で気に入りました。……課長も行かれるんですか?」

 蟹沢はさらに狼狽した様子だ。

「ん、ああ、たまにな。……まあ今回だけは初めだから判子押してやるが、次はないぞ」

「ありがとうございます。あ、あと……」

「なんだ、まだ何かあるのか」

「この間は、ご指導いただきありがとうございました。ただ、……下半身裸にするのは流石に人権侵害だと思います。もしまたあのようなことがあれば、僕も出るとこ出させていただきます」

 草野は〝出るとこ〟にアテがあるわけではなかったが、田辺と一緒にいる間に何となくハッタリのかまし方が身についたようだった。とは言え、蟹沢から何らかの反論があると思って草野は身構えたが、まるで暖簾押しで拍子抜けするような反応だった。

「……この前は俺もやり過ぎた。今後あのような行き過ぎた指導はしないつもりだから、君もこの調子で頑張れ」

 蟹沢は虫でも追い払うように草野を下がらせた。だが、蟹沢が警戒心を露わにしながら自分の背中を見られていたことに草野は気がつかなかった。


 それから数日後、ミネシマサイクルにステップ3台の納品があり、早速草野は引き取りに行った。

「釈迦に説法かもしれんけど、走行距離が百キロ超えるまではふかしいなや。それで寿命が全然違うてくるで」

「ありがとうございます。ではこれからもよろしくお願いします!」

 草野は真新しいヘルメットを被り、ゆっくりと新しい愛車を走らせた。田辺のナナハンのようにはいかないが、初めて味わう風を切るという感覚に痺れた。これから少しずつ、バイクの面白さを発見していこうと草野は心に決めた。

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