切り札
田辺の運転するナナハンバイクは、千里インターを通り過ぎ、島熊山の交差点を曲がった。文字通り、山のてっぺんに十字路がある形だが、幹線道路の信号を設ける場所としては、渋滞を誘発するため不適切だった。建設後にそのことを指摘する声が多々あったが、もはや後の祭りでこの辺りは慢性的な渋滞に悩まされる要所となった。二人は島熊山交差点近くにある〝フロイライン〟という喫茶店に入ったが、小高い丘の上にある立地条件で、窓辺の席からは大阪平野が見渡せた。
「な、ええ眺めやろ。こうやって町を見下ろすとな、人間なんてちっぽけな存在やって実感するんや。ほんで、自分が抱えている悩みも大したことがないって思えてくるわけやな」
「……それが蟹沢課長を恐れない方法ですか?」
「まあ、そう急くなや。ほら、注文取りに来るで」
見ると、ウェイトレスが盆にお冷やを載せてやって来た。
「いらっしゃいませ。ご注文はいかがいたしましょうか?」
「あ……じゃあ俺、レイコ(アイスコーヒー)で。おまえは?」
「あ、じゃあ僕も同じものを」
「かしこまりました」
ウェイトレスは頭を下げて奥へと戻った。歳の頃は四十くらい、若い頃は美人だった名残りがあったが、顎の下や腰の周りの贅肉が若い草野にはいただけなかった。しかし、田辺がニヤニヤしながらウェイトレスの後ろ姿を見ているので、草野がこっそりと訊いた。
「田辺さん、ああ言うのが好みなんですか?」
すると田辺はそれに答える代わりにこのように話した。
「あの人は三好華子いうてな、ここで一年くらい働いてんねん。その前はミヤケ音楽教室でパートやっとったんや」
「よくご存知ですね」
「ああ知ってるで。ついでに言うとな、妻子持ちの男と浮気しとんのや。……相手、誰かわかるか?」
田辺が含みのある笑い方をした。
「まさか……蟹沢課長?」
目を丸くする草野を、田辺が面白そうに眺めた。
「そのまさかや。驚いたやろ」
蟹沢課長は浜松に家族を置いて、単身赴任で大阪に来ていると聞いている。しかし、まさかこんなところに浮気相手がいたとは……。
「少年、これは切り札や。おまえが蟹沢を貶めたいと思たらいつでもこのカードを切ったらええ。蟹沢の首くらいすぐに吹き飛ぶで」
「そんな……」
「まあそやけど、最後の手段にせえ。今蟹沢を潰したところで、また第二第三の蟹沢が出てくる。そおなったらまた振り出しに戻るや。それよりも今は辛抱して、蟹沢を教材にして学んだらええ。どうやったらああいう鬼軍曹を手懐けるかをな。どうしても耐えられんくなったら、切り札出すんや。どや、そう考えたら気持ちが楽になるやろ」
「はい!」
そう返事する草野の顔が、いつのまにか明るくなっていた。
「それから少年、バイクの仕事はバイクを好きになると大分楽になるで。まあ愛情持てとまでは言わんけど、バイクっておもろいわーって思えたら儲けもんや。少しは仕事も楽しくなる」
「でも僕、車の免許しかないから、すぐには乗れないですね」
「とりあえず
「そうですね、社員割引でステップでも買ってみます」
それから、喫茶フロイラインを出た田辺は、草野を載せて箕面の山を登った。度重なるヘアピンカーブを猛スピードで走り抜けるのは、恐怖でもあり、快感でもあった。そして勝尾寺付近まで来ると、一気に展望が開けた。先ほどの喫茶店とは比べ物にならないほどの景観で、大阪城や通天閣までもが見渡せた。
「高い所から見ると、不思議に近くに見えるんですね」
「ああそうや、おもろいやろ。バイク言うんはな、気軽にピュッと山登ってこんなところまで来れるんやで(注:現在では勝尾寺付近の道路は二輪車通行禁止)」
「ええ、面白いですね……バイク。少しわかったような気がしましたよ」
そういう草野を、田辺が軽く小突いた。
「何わかったようなこと言うてるんや。バイクの面白さはな、まだまだ奥深いで」
「ところで、こんなところまで来ちゃいましたけど、返却しなくていいんですか?」
すると田辺が時計を見て血相を変えた。
「あかん、約束の時間とっくに過ぎとるわ。少年、もっと早よ言うてくれや!」
田辺は急いで草野と一緒にバイクに跨り、山を下りて行った。
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